回想:追憶
喪失の、すぐ後
その冷たくなった身体を腕に抱き締めた時、ギーベルグラントは、確かに彼女を憎んだ。
何故、いずれ失われてしまうものなのに、自分の前に現われたのか。
何故、あの時、笑顔を向けたりしたのか。
それが、理不尽な想いだということは、充分承知している。
彼女を見つけたのは自分だし、抱き上げたのも自分。勝手に魅了され、彼の意思で邸に連れ帰った。全て、ギーベルグラント自身が負うものだ。
彼女は、何一つ悪くない。
だが。
目覚めなくなったその身体を抱き締めて、次第に失われていく彼女のリズムを感じていた時、確かに、彼は彼女を恨んだのだ。
やがて温かさを残す身体はわずかな動きも示さなくなり、どこからか現われた『空』が『彼女』を連れて行ってしまっても、彼は抜け殻を抱き締めたまま、長い間放せずにいた。
それから数年が経った今も。
ギーベルグラントは、彼女が宿るペルチの木に近付くことができていなかった。
その根元でワイバーンや牡鹿がのんびりとくつろぐさまを、書斎の窓から遠目に眺め。
彼女は、今、確かにあそこに存在している。そして、かつてと同じように、移り行く季節に様々な表情を浮かべているのだろう。
芽が吹いて、花が咲き、そして枯れ、実を結ぶ。
雲が流れ、雨が降り、そして虹が弧を描く。
月が満ち、月が欠け、そして新月の夜に満天の星空となる。
そんなふうに様々に変わっていく物事を、彼女は愛した。変わるからこそ、惜しみ、楽しめるのだと。
だが、『変化がある』ということ――それは、今の彼にとって、恐怖の対象以外の何ものでもなかった。
彼は、永遠が欲しかったのだ。
変わってしまう彼女の代わりに、ギーベルグラントは、邸のそこかしこに残る彼女の面影に溺れた――いつまでも同じように存在し、決して失われることのない、それらに。どの彼女もみな常に変わらぬ笑顔で、彼は眺めているだけで幸福な気分に浸れた。
だが、やがて。
ギーベルグラントは否応なしに気付かされる。
彼女たちの目に、自分は決して映らないのだということを。
どんなに楽しそうに笑んでいようとも、彼女たちと自分の時はもう二度と重ならないのだということを。
喪失感は、以前にもまして彼を押し潰そうとする。
もう、耐えられない。
『死』とは、『別れ』とは、これほどまでにつらいものなのか。
『ヒト』は、こんなものに何度も遭遇するのか。
フラフラと歩き出した彼は、いつしかその木の根元に立っていた。そして、触れるか触れないかの位置に、崩れ落ちるように座り込む。片膝を抱えて、顔を伏せて。
微動だにしなかったギーベルグラントの隣に、ふわりと温かな気配が寄り添ったことに気付いたが、彼はただ無言を通した。
流れていく、静寂。
ペルチの実の甘い香りが、周囲には満ちている。
それは、彼女を思い出させるもので。
「マリーシア」
その名を呼ぶと、そよと空気が動いた。
『ギイ……』
そよ風のような囁きと、彼女が自分に注ぐ眼差しを感じる。その柔らかく心地良い感覚は、以前と全く変わりがなくて。
彼女は、自分をこんなにもつらい目に合わせている、張本人だ。
ああ、それなのに。
何故、こんなにも彼女が愛おしいのだろう。
「……マリーシア……」
もう一度、その名を呼ぶ。
長く口にしていなかったそれは、たまらなく甘く……続く言葉はこの上なく、苦い。
「私には、もう、どうしたらいいのか判りません。こうやって、無為にしているだけでも、あなたの時間はどんどん失われていってしまうのに。あなたを手放さなければならない時はどんどん近づいてくるのに、私は何もできずにいる」
彼女の為にしなければならないことは、解かっている。
けれども、それは彼自身にとっては受け入れ難いことなのだ。
ギーベルグラントは、強大な力を持っていると信じていた自分の、情けないほどの弱さを思い知る。自嘲しようにもできないほどに。
彼の呟きに対する彼女からの応えはない。
だが。
不意に、彼の全身が何かに包まれる。
温かく、心地良く。
「マリーシア……」
呟いたその名に、空気がふるりと笑ったように感じられた。
それは、まるで、焦らなくていいんだよ、と囁きかけてくるようで。
いつまでも待つよと、言っているようで。
ああ、彼女は彼女だ――どんな姿になろうとも。
ギーベルグラントは胸に溢れる何かに息を詰まらせる。
彼には『泣く』ということができない。けれども、もしもそれができるとしたら、きっとこれが『泣きたい気持ち』なのだろうと、思った。
「もう少し……もう少しだけ、時間をください。そうしたら、きっと――」
彼女に包まれながら、ギーベルグラントはその言葉を噛み締める。
もう少しだけ、待って欲しい。
そうしたら、彼女にとって最善の道を、選択できる筈だから。
――もう少しだけ、このままで……。




