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マリーシアとギイ  作者: トウリン


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11/15

第三章:ずっと、大好き

「また、眠っているのか……」

 ギーベルグラントは、思わず呟いた。


 春先の所為なのか、ここのところ、マリーシアはよく眠る。

 夜眠れていない訳でもないのに、よく眠る。


 その日も、昼食後から姿を見せなくなったマリーシアをギーベルグラントが探していると、彼女は中庭におり、ワイバーンの脚の間で丸くなっていた。その近くで、牡鹿もうつらうつらしている。

 近づいてくるギーベルグラントに気付いてワイバーンが身じろぎしそうになったのを、手で制した。彼の動きを、ワイバーンと牡鹿の目がピタリと追う。


 両者に見張られながら、ギーベルグラントはマリーシアの傍に膝をついた。

 ワイバーンと牡鹿の体が風除けになり、彼女は暖かな春の日差しだけを浴びてぬくぬくと気持ち良さそうにしている。

 昏々と眠るマリーシアの髪を、ギーベルグラントは指先でそっと撫でてみた。年頃になるときれいに結い上げるのが主流のようだが、腰を越すほどになったマリーシアの蜂蜜色の髪は今でもおろしっ放しで、ギーベルグラントが贈った髪飾りをつける程度だ。


 起こさないように気を付けたつもりだったが、直にマリーシアがもぞもぞと動き始めてしまった。


「……あれ、ギイ?」

 ゆっくりと空色の瞳が現われ、ギーベルグラントを見上げてホニャリと笑う。まだ半分寝惚けているようだった。

「すみません、起こしてしまいましたか?」

 マリーシアは両手を突いて状態を起こすと、小さなあくびをしながら首を振った。

「ううん、もう起きないとだったから」

 ギーベルグラントは寝癖のついた髪を手櫛で整え、外れかけた髪飾りを付け直してやる。

 一見したところ、今こうしているマリーシアに具合の悪そうなところは見受けられない。だが、あまりによく眠られると、ギーベルグラントも流石に不安になってくる。


「ここのところ眠そうですが、身体の調子でも悪いのですか?」

「え、そんなことないよ?全然、元気元気」

 ニッコリと微笑まれると、それ以上は何も言えなくなる。小さなしこりを残したまま、ギーベルグラントはマリーシアの両手を引いて立ち上がらせた。

「それならいいですが、具合が悪いようでしたら、早めに言ってくださいよ?」

 並んで歩きながら、ギーベルグラントはそれだけ付け加える。

「大丈夫、大丈夫」

 スカートをフワフワ揺らしながらスキップをするように歩くマリーシアは、確かに元気そうだ。


 ――やはり、自分の気にし過ぎだろうか。


 マリーシアのことになると過度に心配してしまうことは、ギーベルグラント自身がよく解っている。きっと、季節の変わり目の所為に違いない。そう自分に言い聞かせ、首を振る。


 しかし、心の底に巣食った不安を、ギーベルグラントは完全に消し去ることができなかった。



   *



 麗らかな昼下がり――。

 カクン、と、唐突にマリーシアの頭が項垂れる。


「マリーシア!?」


 椅子を蹴立てて立ち上がり、ギーベルグラントは伏せてしまったマリーシアを抱き起こした。顔を見ればすやすやと眠っているだけである。苦痛の表情はないし、顔色もよい――口元には微かな笑みが浮かんですらいるくらいだ。

 直前まで普通に話し、笑っていたというのに、マリーシアはまるでスウィッチが切れるように眠りに落ちた。


 ――これは流石に異常なのではないだろうか。


 確かに、マリーシアは少女から娘へ身体が変わっていく時期にあり、眠りが必要なのかもしれない。モノの本には、そうあった。だが、どこまでが正常でどこからが異常なのかが、ギーベルグラントには判らない。


 ヒトのことはヒトに訊くしかない。


 ギーベルグラントは昏々と眠るマリーシアを抱き上げ、彼女の寝室に向かう。その肢体は、いつの間にか子どもらしい柔らかさを失い、彼の腕にしっくりとはまるしなやかさを得ていた。


 マリーシアの成長を実感すると、ギーベルグラントは嬉しさと不安が入り混じった、複雑な気持ちになる――不安の方が微妙に大きいか。


 マリーシアの寝台に彼女を下ろし、幸せそうな寝顔をしばらく見守った。


「まだまだ、一緒にいられますよね……?」

 確認というよりは祈るように呟いて。


 ギーベルグラントは、マリーシアの額にキスを一つ落とすと、寝室を後にした。


   *


 町一番の名医だと評判のその老人は、物珍しげに邸の中を見回していた。

「こんなデカい邸、町の近くにあったかいな」

 彼は飾ってある壷や絵をキョロキョロと物色している。

「ご老人、診て欲しい者の部屋に案内しますので」

 冷ややかな口調で、ギーベルグラントは促す。

 あまり深く追求されないうちに、さっさと診察させ、帰してしまいたかった。

 老医師が怪訝に思うのは当然で、この邸は町から――というよりもヒトが住むような所から――馬車でも一月はかかるような場所に位置している。しかも、その行程も、ただ馬車を走らせていればいいようなものではない。

 ギーベルグラントが少々空間を歪ませて、連れてきたのだ。


「まあ、ワシは医者だからの。患者を診て金をもらえさえすればいいさ」

 そう言いながら、老人は飄々とギーベルグラントの後に続く。

 ギーベルグラントは黙って階段を上る。マリーシアの部屋の前で足を止め、軽く戸を叩いた。

「マリーシア、入ってもいいですか?」

 まだ眠っているだろうと思っていたが、意外なことに彼女からの返事があった。

「ギイ?いいよ」

 扉を開けると、夕焼けが室内を紅く照らしていた。

 ベッドの上で上体を起こしているマリーシアの金髪が、やけに輝いて見える。


 ただ単に、夕日の光がそうさせているだけだ。

 ただの自然現象にしか過ぎないはずなのに、ギーベルグラントの胸は不可解な不安でざわついた。

 恐れにも似たそれを打ち消して、彼は穏やかな笑みを浮かべて見せる。


「マリーシア、気分は悪くないですか?」

 とりあえず老人を外で待たせ、ギーベルグラントだけが室内に入る。近寄ると、マリーシアはいつもどおりの笑顔で彼を迎えてくれた。

 そのことに、少し、ホッとする。

「わたし、また寝ちゃったの?」

「ええ、もうストンと」

 恥ずかしいなぁと呟きながら頬を染める彼女は、全く普段と変わりがない。

「医者を、連れてきました」

「お医者様?」

 目を丸くしたその顔全面に、「何で?」と書かれている。

「心配なんです。あなたのその眠り方が」

「寝ちゃうだけなのに?」

「眠るというよりも、意識を失う、という感じですよ。はたから見ていると」

 大丈夫なのに……と笑いかけ、マリーシアは自分に向けられているギーベルグラントの眼差しに気付いて口を噤む。それは、心配というよりも怯えに近い色を浮かべていた。


 ギーベルグラントは、とても強い人の筈だった。その彼に、こんな顔をさせてしまうなんて。


 マリーシアは胸が締め付けられ、両手を伸ばしてギーベルグラントの頬を包んだ。その漆黒の瞳を覗き込み、ただ一つの想いを込めて、言う。

「わたしは、ずっとギイと一緒に居るよ。ギイがそれを望んでくれる限りは」

「……あなたを手離すなど、私が望む筈がない」

 奥歯を噛み締めたような軋んだ声での呟きは、とても小さい。だが、マリーシアは決してギーベルグラントの声を聞き逃さない。

「それなら、大丈夫だよ」

 マリーシアはそう囁いて、ギーベルグラントの頬に口付ける。そして、にっこりと微笑んだ。


「それじゃぁ、お医者様に入っていただこうかしら。健康そのものだって、太鼓判を押していただくわ」

「そうですね」

 ギーベルグラントもややぎこちなさの残る笑みを浮かべ、部屋の外に声をかけた。

「どうぞ、お入りください」

 その声に続いて、戸口に老人が姿を現す。夕焼けの逆光に、彼は眩しそうに目を細めていた。

「やあ、お邪魔するよ。わしはドリガンじゃ。爺さんじゃが、医者としての腕はいいらしい」

 そう言いながら、近寄ってくる。が、寝台まであと数歩、というところで、不意に彼は足を止めた。まじまじと二人を――いや、マリーシアを見つめている。


「どうかしましたか?」

 ギーベルグラントが声をかけると、彼は軽く首を振って寝台まで近づいてくる。

「いや、お嬢ちゃんがわしの知っている方とよく似ていての。ま、ずいぶん昔のことじゃし、他人の空似という奴じゃろう」

 ドリガンは自分の中で完結させると、マリーシアに笑いかけた。老人の様子が気になったものの、ギーベルグラントはその場での追求は避ける――何故か、そのほうがいいような気がしたのだ。


「さあ、別嬪のお嬢ちゃん。あんたはどこが悪いのかな?」

「ふふ。わたしはマリーシアです。悪いとこなんてないのだけど、わたしが寝すぎるって、ギイが心配しているの。眠り方が変なのですって」

「ふむ。よく眠ると」

 うんうんと頷きながら、ドリガンが鞄から診療用の道具を取り出していく。が、不意にギーベルグラントを見上げると、怪訝な顔を向けた。


「あんた、いつまでそこに?うら若き乙女の診察を眺めているつもりかい?」

「何故?」

「そりゃ、服を脱いでもらうからさ」

「服を……?」

 ドリガンは、当たり前だろう、と言わんばかりの顔をしている。

 当然のことながら、マリーシアの体つきが変わり始めた頃から、ギーベルグラントは下着よりも薄着になった彼女の姿は見たことがない――それすらもごく稀だった。『年頃の娘』にはそうするべきだと、本で読んだからだ。


 ギーベルグラントは逡巡する。確かに、このまま見ているわけにはいかないようだ。だが、この老人とマリーシアを二人きりにするのも、抵抗がある。


「……では、私は後ろを向いていますので」

 苦肉の策でそう言ったギーベルグラントを、ドリガンが面白そうに見た。

「こんな爺さんがイタズラなんかするかいな。まあ、いい。じゃあ、さっさと後ろを向きんさい」

 ギーベルグラントに背を向けさせると、ドリガンはマリーシアに服をはだけるように促した。そして聴診器を当て、触診をし、打診をする。


 一通りを診終わって、ドリガンはふむふむと頷いた。

「もういいぞ」

 マリーシアが服を着直すのを待って、ドリガンはギーベルグラントに声をかける。

「いかがでしょうか?」

 振り返るなり、ギーベルグラントは結論を求めた。

「んー、そうじゃなぁ、うーん」

 深刻そうに眉根を寄せ、答えを渋るドリガンの様子に、ギーベルグラントの血の気が引いてくる。


 ――まさか……。


 表情を固くするギーベルグラントを堪能した後、ドリガンがニヤリと笑う。

「そうじゃな、結論を言おう」

 ギーベルグラントの身が強張る。

「何もないな。健康そのものじゃ」

「……は?」

「体に問題はない」

 ドリガンが胸を張って答える。ギーベルグラントは一瞬、その皺だらけの首に手をかけそうになった。危ういところだったが、マリーシアの軽やかな声で我に返る。


「ほら、やっぱり大丈夫だったでしょ?」

「え……ええ、よかったです。ホッとしました」

 マリーシアの微笑みに、ギーベルグラントも頷き返した。

 老人をよそに見つめあう二人に、ドリガンが咳払いをする。

「じゃあ、わしは帰らせてもらうとするかな。送ってくれるんじゃろう?」

「はい。馬車を用意します。マリーシア、夕飯までには帰りますから」

「……妹と言うておったが、まるで若夫婦のようじゃのう」

 冷やかすようなドリガンの眼差しには取り合わず、ギーベルグラントは彼の腕を掴んで歩き出す。いくら優れた医者とはいえ、こんな下世話な老人に、いつまでもマリーシアの近くにいて欲しくなかった。


「じゃあな、お嬢ちゃん。もう会うことはなかろうて」

 殆ど引きずられるようにして連れて行かれながら、ドリガンはマリーシアにヒラヒラと手を振った。マリーシアも、それに笑顔で手を振り返す。

「ありがとうございました」

「では、行ってきます」

 眦を下げるドリガンを部屋から押し出したギーベルグラントは、一言かけてから戸を閉めた。



   *



 帰りの馬車の中で、ギーベルグラントとドリガンは、向かい合わせで座っていた。


「さて」

 走り出して間も無く、ドリガンが口を開く。

「あのお嬢ちゃんのことじゃがの」

「マリーシア? 何もなかったのでしょう?」

「うむ。身体的にはな」

「身体的には……?」

 ドリガンの微妙な言い方に、ギーベルグラントは眉根を寄せる。


 ――体的に問題がなければ、問題ないということではないのだろうか。


 だが、ドリガンの表情は渋い。マリーシアの部屋にいた時のふざけた様子は、全くなかった。

「そう、身体的には、じゃ。お主の話を聞く限り、あの子の眠り方は尋常ではないからの。身体には因らないところで、『何か』はあるかもしれん」

 その『何か』が何なのかは判らんが、と老人はぼやく。

「ま、普通じゃないのは確かじゃな。気をつけてやるに越したことはない」

 ドリガンにしても、はっきりとした原因がわからないので、それ以上は何とも言えないようだ。それきり、口を噤んでしまう。


 無言の時が流れ、そろそろ町へと繋げてもいいだろうかと、ギーベルグラントが考え始めた時だった。ふと、彼は、ドリガンがマリーシアを見た時の態度を思い出した。


 まるで、彼女を前にも見たことがあると言わんばかりのいぶかしげな眼差し。

 まさかな、と小さく首を振る仕草。


 ドリガンが住む街には、これまで一度もマリーシアを連れて行ったことはない。

 彼と彼女がたまたまどこかの街ですれ違った、という可能性はないわけではないが、それだけであんな反応をするだろうか。

 ギーベルグラントはヒトのことには詳しくないが、普通はないような気がする。


「あなたは――」

 尋ねかけて、止まる。

 思い出した一つの事柄。


 ――幼いマリーシアを拾ったのは、ドリガンが住む街の方にある森だ。


 これは、触れない方がいいことなのだろうか。

 かつてのマリーシアのことを知っている者がいるかもしれないということに、ギーベルグラントの胸がざわついた。

 それは、妙に不快なざわつきだった。


 途中で言葉を止めたギーベルグラントに、眉を上げてドリガンが首をかしげる。

「なんじゃ?」

 ギーベルグラントは、迷った。

 もしも彼女のことを知る誰かをドリガンが知っていたら、どうなるのだろう。


 ――たとえば、親とか兄弟とか。


 野の獣にとっては、成長した後は血族などさして意味はない存在になる。

 だが、ヒトにとってはそうではないのだということを、今のギーベルグラントは良く知っていた。

 だから、もしもマリーシアに血縁者がいるのだとすれば、彼女は彼らに逢いたがるだろう。


 ――逢いたがって、その後は……?


 ギーベルグラントの胸のざわつきが、はっきりとした不快な感覚になる。

 今のマリーシアは、彼のものだ――彼だけの。

 もしも彼女に血族がいるならば、それが変わる。

 彼は、ずっとマリーシアを見てきたのだ。

 親や兄弟がいると知れば彼女がどんな反応を示すか、その時にならなくてもよく判る。


 ――彼女に、彼の他に大事に想う存在ができる。


 もしかしたら、その誰かの方が、彼女の一番になってしまうかもしれない。

 ギーベルグラントの脳裏に、いつも彼に向けられるマリーシアの満面の笑みが浮かんだ。

 それが、他の人間に向けられる。


 ――そんな事態には、耐えられない。


 だが、至極利己的で愚かな考えの陰で、彼の理性は、今の不可解な彼女の『症状』の原因を探るには、どんな情報でも隠すべきではないのだと囁いていた。


「……最初にマリーシアを見た時、あなたは何か仰ってましたね」

「ん? ああ、あれか。わしの気のせいじゃろう」

「何なのですか?」

 問われても言い淀むのは、個人的なことは口にしない、医師の職業病のようなものだろうか。

「マリーシアは私の妹ではありませんよ。森の中で拾った子です」

「森の中……?」

「ええ。まだ幼い頃に、森の中に独りでいました」

「それは……十二、三年ほど前のことか?」

「そのぐらいかと。見つけたときは、自分の名前をようやく言えるくらいの年でした」

 ドリガンが顎鬚を撫で付けながら考え込む。渋い顔を見る限りは、あまりいい話ではなさそうだった。

「そうか……」

 老医師の口は渋い。


 ギーベルグラントは、彼の胸倉をつかんで揺すりたてて答えを迫ってやりたくなるのをこらえて、穏やかな口調で促す。

「やはり、何かご存知なのですね?」

 またしばらく物思いにふけってから、ドリガンは少し遠くを見るような眼差しで宙を見つめながら、語り出した。

「うむ……。てっきり、もうこの世にはおらんものじゃと思っていたからの。まあ、十年以上も前のことじゃから、当然、今のあの子自身に見覚えがあるわけではない」

「では……?」

「……街の貴族でのう。一番の別嬪と評判の奥方じゃった。あのお嬢ちゃんとよく似た、蜂蜜色の金髪に青空のような瞳で、旦那の方も見目好い男での。気立てもよくて、民によく尽くし、街の者皆に好かれておった」


 ドリガンが過去を辿るように、目を閉じる。ギーベルグラントは焦ることなく待った――町までの時間など、いくらでもある。さほどの時をかけず、老人は再び口を開き始めた。

「わしが直接その家族と関わったのは、夫妻の子どもが病になった時じゃ。その街の医者がわしの元教え子で、たまたまその時そいつのところを訪れておってな。まずはそいつが呼ばれたんじゃが、ムリだ、お手上げだ、と、わしにお鉢が回ってきてしもうたんじゃ。まだ、生まれて間もない時でなあ。重い感染症で、正直、わしはもう駄目じゃと思った。手は尽くしたが、どうにもならんで……夫妻と赤子だけを部屋に残して――わしは、諦めた」

 飄々とした老人の眉間に、苦悩の皺が寄る。助けるべき命を諦めなければならなかったことに、未だ無念の思いを抱いていることが察せられた。


 だが、これはマリーシアとは関係のない話なのではないかと、ギーベルグラントは疑問に思う。やはり、単なる他人の空似なのだろうか。


 ――マリーシアは、生きているのだから。


 マリーシアが「誰かのもの」でないということにホッとしたのか、彼女について知ることができなかったことを残念に思ったのか、自分でもよくわからない。ただ、これまでと変わらないのだということに安堵した想いだけは確かだった。

 訊きたいことは全て終えた、とギーベルグラントは馬車を町に向かわせようとする――が、不意に、老人が再び語りだした。


「わしは、部屋の外で待っておった。赤子が息を引き取り、夫妻が落ち着くのを、な。どんなにかかろうと、待とうと思っておった」

 ドリガンが、何とも言えない眼差しをギーベルグラントに向ける。


「誓ってもいい。わしが診る限り、あの赤子はたすかる筈がなかったんじゃ」

 その目の中にあるのは、紛う事なき確信である。そこには己の生業に対する自負があった。

「その、死ぬ筈の赤子がいる部屋から、これ以上はないというぐらい元気な泣き声が聞こえてきた時、わしは己の耳が信じられんかった。自分の望む幻聴かとも思ったよ。部屋に入ってみると、奥方が赤子をあやしておった――一見して健康そのものの赤子をな」

「あなたの治療が効を奏したのではないのですか?」

「いや、それは有り得ん」

 ギーベルグラントの言葉を、ドリガンはきっぱりと否定する。


「誰が何と言おうと、あの赤子はたすかるもんじゃなかった。わしがこの仕事をしていて、『奇跡』っちゅうもんを信じたのは、後にも先にもあれっきりじゃ」

 ウンウンと頷くドリガンを、ギーベルグラントはぼんやりと見つめる。

 この老人の話がマリーシアのことなのだとすれば、彼女には返さなければならない場所があるということなのだろうか。

 そう考えただけで、ギーベルグラントの腹の中に、何か冷たいものが急速に満ちていく。


 今すぐに目の前のこの老人を消し去ってしまえば、全て聞かなかったことにできるのだろうか。


 ――束の間、殺意が芽生えた。


 ギーベルグラントは、無言で両手をきつく握り締める。

 手を伸ばせば届くような距離にいる者がそんな物騒なことを考えているとは露知らず、ドリガンは続ける。


「夫妻と赤子は、それはもう幸せそうじゃった。まさに『目の中に入れても痛くない』という風情でのう。たまにまたわしがその街を訪れた時には必ず会いに行ったもんじゃが、赤子もすくすく育っていってな。奥方讓りの蜂蜜色の髪、よく晴れた青空の瞳。いつもニコニコ笑っておって、誰もが『天使のようだ』と言ったよ。皆には『マリー』と呼ばれておったな」

 老人も、その頃の子どもに会っていたのだろう。彼の口元に、それまでに見せていたからかうようなものではない、心底幸せそうな笑みが浮かぶ。


 ギーベルグラントと出会った時のマリーシアの笑顔と同じものを思い浮かべているのだとすれば、ドリガンがそんなふうに笑むのも頷けた。


 だが、その微笑みは、長くは続かなかった。


 ドリガンはふと視線を落とす。


「――それが起きたのは、今から十二、いや――もう十三年前になるか。あの子が三歳を少し越えた頃のことじゃったよ……。夫妻の邸が火事になっての。……焼け跡から出てきた夫妻には、刃物の傷があった。物取りだったのじゃろう。あんなに善い方たちに惨いことをするものじゃ。――町の者総出で焼け跡をひっくり返したが、幼い子どもの姿は見つからんかった。――あれだけ可愛い子じゃったから……売られてしもうたんじゃろうと……」

 それ以上は続かないようだった。老人は、ほのかに赤らんだ目を、ギーベルグラントにヒタと据える。

「もしも……もしも、あの子が生きているなら、幸せに暮らしていて欲しいものじゃと、今でも町の者は祈っているよ」


 ――やがて馬車はその足を止め、老医師を本来の場所へと戻す。


 ドリガンはもう一度何かを訴える眼差しをギーベルグラントに向け、そして去っていった。


 初めに見たときよりも小さく縮んだように見える背中が消えるまで見送って、ギーベルグラントは馬車を出す。ドリガンから聞いた話をどう処理すればよいのか、彼には判らなかった。


 マリーシアと出会って、共に過ごし、ギーベルグラントはこれまでの永い時の中では得られなかった、満ち足りた想いを手に入れた。


 ――だが、マリーシアは、どうなのだろう?


 本来、居るべき場所が他にあると知ったら、彼女は何と答えるのだろうか?

 彼女が行きたいと言ったら、自分は手放せるのか?


 ――絶対に、無理だ。


 ギーベルグラントだけを乗せた馬車は、瞬きのうちに邸へ到着する。

 扉を開けるのももどかしく、ギーベルグラントは真っ直ぐに目指すものの元へ駆ける。

 食堂の扉を手荒く開け放った彼を、マリーシアが驚いたように見上げたが、すぐにいつもと同じ笑顔を向けた。


「おかえりなさい」


 その笑顔が、胸を締め付ける。

 立ち上がってギーベルグラントを迎えたマリーシアを、彼は両腕の中に包み込んだ。いつの間にか、こうやって抱き締めても彼女の足が浮かなくなっていたことに気付く。

「すみません……すみません、マリーシア」

 謝罪を耳元で呟くギーベルグラントの背に、マリーシアは戸惑いながらも手を回す。

「どうしたの……ギイ?」


 小さく温かな手で背を撫でながら問われても、彼には何も答えられなかった。



   *



 夜を終え、朝を迎えるその度に、陽射しは強くなり、次第に昼は長く、夜は短くなっていく。

 それに伴い、明らかに、マリーシアが眠りに落ちる時間が増えてきていた。


 ――これは、どういうことなのだろう。


 今もワイバーンにもたれて眠っているマリーシアを見つめながら、ギーベルグラントは思案する。ワイバーンの身体は体温が一定なため、気温が高くなるとひんやりして気持ちがいいようだ。マリーシアは殆ど抱きつくようにして眠り込んでいる。


 彼女が頻繁に眠りに落ちるようになって、ギーベルグラントは気が付いた。糸が切れるような眠り方は、昼間にしか起こらない。夜は夜で寝ているのだが、それは普段どおりに入眠するのだ。


 ――これは、いったい、どういうことなのだろうか。


 ギーベルグラントは片手でマリーシアの髪を梳きながら、もう一度自問する。眠りの深さも徐々に増しているようで、以前は軽い刺激ですぐに目が醒めていたものが、今はかなりいじっても起きなくなってきている。

 それが、いや、何もかもが、たまらなく不安だった。


「ちゃんと、目覚めてくださいね」

 柔らかな髪の先に口付け、耳元に囁く。


 ――その瞬間。


 ギーベルグラントを、ゾッとするような感覚が襲う。

「マリーシア……マリーシア!?」

 頬に触れると温かい。

 首筋には拍動を感じる。


 ――だが、彼女の気配が、消え失せていた。


 滅多に聞かれることのないギーベルグラントの大声に、うたた寝をしていたワイバーンと牡鹿が何事かと顔を上げる。


 彼は、思わずマリーシアの華奢な両肩を掴んで強く揺さぶっていた。

「マリーシア!」

 もう一度、名前を呼ぶ。


 と、不意に。


 ふわりと彼女の身体から何かが浮かび上がった。それを追って見上げたギーベルグラントの両目が、大きく見開かれる。


「……マリーシア? ……いや、違う。誰だ?」

 宙に浮かぶその姿は、紛れもない、大事な少女のもの。

 だが、それが見せる笑みは、異なる存在のものだった。


 ――コレのためか……?


 ギーベルグラントの全身から、ギラリと殺気が立ち昇る。

 自分たちに向けられたものではないことが判っていても、空間を振動させるような気迫に、牡鹿は一歩飛び退き、ワイバーンも身体を震わせた。

 だが、ギーベルグラントの鋭い眼差しに射抜かれているにも関わらず、透き通ったマリーシアの姿をしたソレは全く怯えた様子もなく、いたずらっぽく彼に向けて手を振った。そして、直後、一瞬にして掻き消える。ギーベルグラントが制止する暇はなかった。

 苛立ちに罵りの声をあげそうになった彼の手の中で、マリーシアの目が開く。

 彼女は、食い入るように自分を見つめているギーベルグラントの眼差しと、両肩を痛いほどに掴んでいる彼の手に、きょとんとする。


「ギイ? どうしたの?」

 心底から疑問に思っているらしいマリーシアの肩から、ギーベルグラントは情けなく震える両手を静かにおろした。呼吸一回分の間に全てを押し隠すと、彼女に向けて笑顔を作る。

「何でもありません。あなたがあんまりよく寝ているものでしたから……」

「起きないかもって? 大丈夫だよ、ちゃんと起きるってば」


 その笑顔は、確かに彼女のものだ――見間違えようがない。


 ギーベルグラントは片手を伸ばしてマリーシアの頭をくしゃくしゃと撫でる。彼女は嬉しそうに笑うと、猫のように首をすくめた。


 いつもと同じような、日常。

 変わって欲しくない。だが、抑えようもなく変わっていく日々。


 どうしたら、これ以上変えずにいられるのか。


 ギーベルグラントは、その方法を知りたかった。



   *



 彼の膝の上に頭をのせたマリーシアが何事かを呟いたような気がして、ギーベルグラントは彼女の口元に耳を寄せる。


「…………い……ね……」

 寝言は不明瞭で、殆ど聞き取れない。


 彼は小さく息を吐き、微かな風に揺らされて柔らかな頬をくすぐっている蜂蜜色の髪を耳にかけてやった。重いかもしれないな、とは思いつつ、何となく手離し難くてそのまま、彼女の丸い頭にのせたままにする。


 日は傾きかけており、いつもなら、そろそろマリーシアの目が覚める頃合だった。


 少し前までは、日が出ている間、起きている時間の方が眠ってしまう時間よりも長かった。だが、今ではそれが逆転しつつある。


 今日も、朝食後に中庭に出たマリーシアは、ペルチ――以前に彼女がお土産として持ち帰った実の種から育ったものだ――の木の下で、ワイバーンと牡鹿に挟まれて眠り込んでいた。


 元々、最初で最後の一人での遠出で手に入れたものだったせいか、彼女はこの木に思い入れがあるようだ。以前からよくここで過ごしてはいたが、特に最近はその時間が増えている。


 マリーシアはペルチの木を撫でながらワイバーンたちに何かを話しかけていたのだが、ギーベルグラントがほんの少し目を放したすきに彼女はその幹の根元に丸まり、ぐっすりと眠り込んでいた。


 彼女の頭を持ち上げて彼の膝の上にのせてやっても、こめかみにそっと口付けを落としても、その寝息はほんの少しも乱れることがない。

 それほど、深い眠りだ。


 ギーベルグラントは、そうやって眠るマリーシアの傍でひたすら時間を潰し、彼女が目覚めるわずかな時間を待ちわびるようになっていた。時々、不意に彼女の気配が掻き消える事があるため、恐ろしくて片時も離れることができないのだ。


 ――いったい、マリーシアに何が起きているのだろう。


 ギーベルグラントは片っ端から本を読み漁って、ヒトの身体にこんなことが起こり得るのか調べてみたが、該当する事例は全く見つからない。

 この事態に、打つ手が全く思い浮かばないのが腹立たしい。


 以前に現われた、マリーシアの姿をした不思議な影。

 今のマリーシアの状態に、アレが何か関係あるに違いなかったが、姿を見せたのはあの時だけだ。


 ――あるいは、ただの幻だったのか。


 と、微かに睫毛が震え、ゆっくりと上げられた。空色の瞳は寝起きで焦点が合っていなかったが、ギーベルグラントに辿り着くと、ホニャと笑みが浮かぶ。


「ギイ」

「起きましたか」

「んー、うん」

 マリーシアは目を擦りながら、ギーベルグラントの膝枕から身体を起こした。その途端、気温は高いというのに彼女の温もりの名残があっという間に失われていく。

 思わず彼女の肩を抑えそうになったギーベルグラントは、それをごまかすように、咄嗟に思いついたことを口にする。


「何か寝言が聞こえましたが、夢でも見ていたのですか?」

 その問いに、マリーシアは思い出すように視線を上げ、「ああ」という顔をすると頷いた。

「見てた気がする」

「どんな夢だったのですか?」


 殆どの場合、マリーシアはギーベルグラントが訊いた事に答えてくれる。だが、今回は、やんわりと笑みを浮かべて首を振った。


「これはナイショ。もしかしたら、後で教えるかもしれないけど、今はダメ」


 ――大人びた笑みだった。


 今まで見せたことのないマリーシアの表情に、ギーベルグラントの胸が騒ぐ。

 己の心の動きに戸惑いを覚える彼に、立ち上がったマリーシアが身を屈めた。

 かすめるように、ギーベルグラントの頬に柔らかな温もりが触れて、離れる。マリーシアからこんなふうに触れてくることは、滅多にない。


「お家に入ろっか」

 マリーシアは微笑みながら、彼に向かって両手を差し伸べる。


 その白く小さな手。

 これを失わないためならば、自分は何でもするだろう。


 促されるままに立ち上がり、ギーベルグラントはマリーシアと共に歩き出した。



   *



 それは、突然やってきた。


 ――マリーシアが目覚めない。


 そう。

 前夜に眠りに就いてから、その夜が明けて、もうすぐまた日が落ちようとしているに、ただの一度も目を覚まさない。


 ギーベルグラントは恐慌状態に陥る寸前だった。

 確かに、昼の殆どを眠って過ごすようにはなっていたが、昨日まで、少なくとも朝は起きてくれていたのだ。


「マリーシア、マリーシア……お願いですから、目を開けてください」


 触れれば温かい。

 首筋には鼓動も感じる。

 確かに、生きては、いる。


 けれど彼は、鈴を振るような彼女の笑い声を、輝く満面の笑みを、切望していた。


「私を、置いていくな」

 内臓を振り絞るような声で、懇願する。

 マリーシアがヒトである以上、必ずいつかは失われるとは思っていた。

 こうやって、マリーシアが不可思議な眠りに就くようになってからは、いつかは目覚めなくなる日が来るかもしれないとは思っていた。

 だが、予測するのと受け入れるのとは、全く別の話だ。


「マリーシア……頼む、まだ、駄目だ……」

 穏やかに眠るマリーシアの小さな顔を、両手の中に閉じ込める。

 固く目を閉じ、彼女の額に自分の額を押し付けた。

 殆ど呪文のように、口の中でその名を何度も呟く。

 そうすれば、彼女が答えてくれると信じて。

 恐れるものなど何もないと思っていた頃の自分を嘲笑ってやりたかった――今、こんなにもちっぽけな存在を前に、恐れ戦いているというのに。


 どれほどの時間をそうしていたのか、判らない。


 不意に頬に触れた温もりに、ギーベルグラントはハッと目を開ける――間近にあったのは、空色の瞳だった。


「マリーシア……」

 彼の頬に添えられた彼女の手に自分の手を重ね、目が覚めたのですね、と続けようとして、気付く。


 ――マリーシアの気配が、感じられない。  


 それを悟った瞬間、ギーベルグラントは彼女の両肩を寝台に押し付けて身体を離していた。

「……貴様は、誰だ?」

 今、ギーベルグラントの手の下にあるのは、確かにマリーシアの身体だった。だが、彼を見上げるその眼差しは、断じて大事な少女のものではない。


 華奢な身体を痛めないように、だが、決して逃さない力を込めて、捕らえる。

 目の前の存在は、現状を打破するための唯一の手がかりだった。


 貫くようなギーベルグラントの眼差しを向けられたマリーシアの中の何者かは、しかし、全く堪えた様子もなく彼を見返してきた。ニヤリと笑いさえする。


「ちょっと、放してよ」

 いつもと同じ、銀の鈴を振るような愛らしい声で、いつもとは全く異なる無作法な言い様。

「絶対、逃げないからさ」

 挑発するように、彼女は目を細め、唇を尖らせる。

 目の前の相手を信用する根拠は何一つない。

 だが、ギーベルグラントとしても、マリーシアの身体を組み敷いたままでいるのは本意ではなかった。


 わずかな逡巡の後、ゆっくりと、身体を離していく。


 解放されると、マリーシアの姿をしたものは、ガバリと上体を起こした。そして、物珍しそうに手を握ったり、肩を回したりし始める。

「へえ、これが『身体』ってやつかぁ。ねえ、歩いてみていい?」

 屈託なくギーベルグラントを覗き込み、許可を求めてくる。そこには悪意の欠片も感じられないが、マリーシアに関わることにギーベルグラントが容赦をするわけがない。

 氷の刃のような眼差しを全く緩めずに、同じ問いを繰り返す。

「貴様は、誰――いや、『何』だ?」

「ちぇ、マリーシアはあんたの事を優しいって言ってたけど、全然違うじゃないか」

 頬を膨らます様はこの上なく愛らしいが、中身が異なる限り、ギーベルグラントはほだされない。彼が反応したのは、その仕草よりも台詞の内容だった。


「マリーシアと話をしたのか?」

「してるよ」

 当たり前、と言わんばかりの顔で、返される。その身体でなければ、胸倉を掴んで揺さぶっているところだ。


「貴様は、いったい、何者なのだ?」

 三度目の問いかけだった。

 流石にこれ以上怒らせるのは得策ではないと感じたのか、彼女は動きを止めた。そして、指で天井を示す。


「何の真似だ?」

「だから、あたし」

「ふざけるな」

「ふざけてないよう」

 クスクスと笑う様は、何処をどう取っても、ギーベルグラントをからかっているようにしか見えない。

「いい加減にしないと――」

「何をするって言うのさ。あんた、この子に何もできやしないだろう。まあ、いいや。あたしは『空』だよ」

 そう言ってニッコリと笑った彼女は、すい、と彼に顔を寄せてきた。


「そして、あんたは『大地』。でしょ?」


 これでおしまい。

 そう言わんばかりの顔で、ニコニコと笑っている。


 ギーベルグラントは渋面で彼女を見下ろした。

「さっぱり要領を得ん」

「もう、何で解んないかなぁ。まあ、しょうがないか。あたしも、あんたを知って、ようやく解ったんだし。あたしもさ、あんたのことを知るまでは、こういうのはあたしだけだと思ってたんだ。あんた、いつの間にか、大地にいたんだろ? あたしは、いつの間にか空にいた。フワフワって浮いてたんだ。空から生まれたんだよ。多分、他にも、『森』から生まれたり、『海』から生まれたりしたのがいるんだと思う。お互い会うことなんかないから、自分が何かなんて気付かずにいるんだよな――自分でも気になんかしなかったし」


 不思議と、『空』の言い分は、ストンとギーベルグラントの中に落ち着いた。

 確かに、彼も今まで自分について疑問に思ったことはなかった。

 めまぐるしく生と死を繰り返していくヒトと違うことは判っていたが、別にそれを疑問に感じる事も無く、ただ、持っている強大な力を好きに使うだけだった。

 マリーシアに出会ってからも、彼女と自分との違いについて何か感じたわけではない――ただ、時の流れの速さの違いを恐れただけだ。


 以前、マリーシアがワイバーンに乗って出かけた時に彼女を感知することができなくなったことがある。

 この『空』の言う通りであれば、あの現象も合点がいった。


 地上に触れている限り、全てギーベルグラントの知る所となるが、ほんの少しでも浮いてしまえば見失う。

 それは彼が『大地』だから。

 確かに、そうなのかもしれない。


 ――思いも掛けないところで己の存在について考えることになったが、目下のところ重要なのは、そこではない。


「解った。貴様は『空』でよしとしよう。では、何故マリーシアの中にいる? 貴様の所為で、彼女は眠るのか?」

 もしそうであるならば、直ちに追い出してやる――そんなギーベルグラントの意志がありありと見て取れる。だが、当の『空』はどこ吹く風という感じだ。


「まあ、ある意味、あたしの所為だけどさ」

「では、今すぐ出て行け」

「そうしたら、この子おしまいだよ?」

「……どういうことだ?」

「あたしさ、この子がこんな」と肩幅程度に両手を広げて「ぐらいの大きさの時に、この子の中に入ったんだ」

「赤子の時……?」

 それを聞いて、まずギーベルグラントの頭に思い浮かんだのは老医師の話だった。


 小さく息を吸い込んだ彼に、『空』が続ける。

「いつも通り空にいたらさ、凄い声が聞こえてきたんだよね。なんか、もう、突き刺さってくる感じ。何かなぁって思って見に行ったら、この子と同じ金色と空色のヒトがいてさ。あんまり『たすけてたすけて』って泣くし、色も気に入ったんで」

「マリーシアの中に?」

「そう。それからずっと、この子の中で眠ってた」


 医師が諦めたあの時に起きた奇跡は、それだったのか。

 そうなれば、『空』はマリーシアの命を救ってくれた存在に他ならない。強盗に襲われた時も、『空』の力が作用したのだろう。


 ギーベルグラントは口調を改める。

「では、ここにきて急にマリーシアが眠り込むようになったのは、何故だ?」

 和らいだ彼の視線の先で、『空』は肩をすくめる。

「あたしだって、この子の中は居心地よかったから、もう少し寝ておくつもりだったんだ。でも、この身体が限界なんだよね」

「――限界――」

「うん」

「駄目だ」

 ギーベルグラントは、反射のように返していた。

「ダメって、あんた……」

「駄目だ。まだ放せない――貴様が眠りに就いたまま、彼女の中にいればいいのだろう?」

 剣呑な光を帯びるギーベルグラントの眼差しを受けて、『空』は頑是無い子どもに対するように首を振った。


「違うよ、順番が逆だ。あたしが起きたから身体がもたないんじゃない。身体がもたなくなってきたから、あたしが眠っていられなくなったんだ。もう、この子の中に留まっていられない。崩壊する身体に閉じ込めたままでは、彼女の魂も一緒に消えてしまうよ」


 どうにもできない状況に、ギーベルグラントの全身から力が抜けていく。床に座り込んだ彼に寝台を下りた『空』が近寄り、その肩にそっと手を乗せた。

「いいかい? 方法は三つある。随分この子と同調していたから、あたしだったら多少強引な手も取れるんだ。あたしもこの子の事は結構気に入っているから、もう少しの間は付き合ってやるよ」

 そう言って、初めて見せる真剣な顔になった。

「一つは、このまま何もせず、ただ、この子が逝くのを見送るだけ。まあ、一番自然な方法だな。もう一つは、あたしが完全にこの子と入れ替わる方法。そうすれば、この身体は永遠に動き続ける。けど、あたしと入れ替わった時点で、この子の魂は消滅する。二度と戻らない。最後は、この子を他のものに移し換えることだ。一度だけしか使えないが、移した先のものと生きることになる。それが逝く時には、一緒に逝く。これを止める事はできない」


 呆然と見上げてくるギーベルグラントに向けて、『空』は一つ一つをゆっくりと、噛んで含めるように口にした。そして言い終えると、遠くから聞こえる物音に耳を澄ませるような仕草をする。


「少しの間なら、出て来られそうだ。彼女と話すといい――この子は全て知っているよ」

 それだけ言い終えると、マリーシアの身体がふらりと崩れ落ちそうになる。ギーベルグラントは座り込んだまま、その身体を抱き締めた。


 さほど時を待たずして、マリーシアが身じろぎする。ギーベルグラントの両肩に小さな手を置き、身体を起こした。

 膝立ちになっている彼女の腰をきつく抱き締め、彼は規則正しい鼓動が聴こえるあたりに耳を押し付ける。


「ギイ……」

 マリーシアがそっと呼びかける声に、彼は応えられなかった。


 覆い被さるようにして、マリーシアがギーベルグラントの頭を抱き締める。


 しばらくして、また名前が呼ばれる。


「ギイ……?」

「――私は、まだ、あなたを放せません」

「うん」

「どうしたらいいか、判りません」

「うん」

 小さな手が、そっと黒髪を撫でる。

 頭の天辺のあたりに触れた柔らかなものは、彼女の唇か。


「……わたしね、あなたに会えて幸せ。一緒にいられて幸せ。お母さんとお父さんがわたしをとっても愛してくれてた事も、もう知ってる。――すごく、幸せだわ」

「あなたを一番愛しているのは、私です」

 顔をマリーシアの腹に押し付けたまま、ギーベルグラントはぼそりと返す。彼女はクスクスと笑いを漏らした。

「そうね」

 多分、また先ほどと同じ場所に口付けを落とされた。


「……ギイがわたしにしてくれることは、いつでもわたしを幸せにするわ」

「でも、今度は間違えるかもしれません」


 ギーベルグラントは顔を上げた。

 不安に揺れる漆黒の瞳と、絶対の信頼を浮かべる空色の瞳が交差する。


「ぜったい、大丈夫。わたしは、ずっとあなたが大好きよ。ずっと」


 束の間、唇が重なった。


「それだけは忘れないでね」


 それを最後に、マリーシアの身体は力を失う。

 ギーベルグラントはそれをしっかり受け止めると、腕の中で強く抱き締めた。



   *



 永い永い年月が過ぎた。


 何百回と過ぎ去ってきた、太陽が最も長く空に留まる季節を再び終える頃、ギーベルグラントは選択する。


   *


「マリーシア」

 ギーベルグラントは、今日もペルチの木に触れ、声を掛ける。

 それを待っていたかのように、ふわりと彼女は姿を現した。


 マリーシアはスイ、とギーベルグラントに近寄ると頬に唇を寄せる。それはそよ風のような感触だった。

 木の根元には、ワイバーンの幼生が腹を見せて熟睡している。最凶の生物の筈が随分と緩みきっているものだと、彼は苦笑を浮かべた。


 この幼生は、あのワイバーン――キュイが残していったものだ。

 ワイバーンの寿命は二百年ほどと言われており、死期が近づくと卵を産み落とす。そして、どこかにあるとされているワイバーンの墓場に行き、その亡骸を決して野には晒さない。

 キュイ自身も、二百年よりも少し長くここで過ごした後、卵を残すと同時に姿を消した。マリーシアは今でもアレを思い出して寂しがるが、この新しい悪がきが彼女の慰めになってくれている。


 マリーシアは地面に降り立ち、指先でワイバーンの腹を撫でた。実際には触れていないのだが、ワイバーンの鼻が気持ち良さそうにぴくぴくと動く。

 音もなくクスクスと笑いながらその様を見ていたマリーシアだが、やがて、傍に佇んだままのギーベルグラントを不思議そうに見上げた。いつもは色々と話しかけてくる彼が、今日は無言のまま彼女を見つめているからだろう。


 マリーシアは首を傾げ、無言で問い掛けてきた。

 更に静かな時間が過ぎた後、ギーベルグラントは片手を上げ、彼女の頬に触れるか触れないかというところで止める。


 その仕草で、マリーシアは、『時』が訪れたことを悟った。


「マリーシア」

 名前を呼ばれて、彼女はニコリと微笑む。


 相変わらず、その笑顔に胸が締め付けられ、それを失うことは耐え難いけれども。


 ギーベルグラントは、もう永いこと胸に秘めていた決意を口にする。

「マリーシア。永い間、ありがとうございました……私に時をくれて。でも、もう大丈夫。もう、あなたを待つことができます」


 叶うならば、もう一度、彼女に触れたい。

 温もりを感じ、温もりを返されたい。

 彼女の柔らかさ、温かさはまだ鮮明に彼の中に残されているけれど、今、それを実際にこの手で感じたくてならなかった。


 憧憬と渇望をない交ぜにして伸ばしたギーベルグラントの指先は、しかし、マリーシアの手のひらを突き抜ける。


 ほんの少し悲しげな笑みを、彼女が浮かべた。


 この状態にマリーシアを縛り付けていたのは、誰でもない、ギーベルグラントなのだ。


「もう、逝ってください。そしてまた、逢いましょう」

 穏やかな口調で伝えたギーベルグラントに、マリーシアは小さく頷いた。


 今度は、輝くような笑みを浮かべて。

 そうして、彼女はふわりと舞い上がり、もう一度ギーベルグラントの頬に口付けを落とす。


 ――だいすき。またね。


 声なき声で、確かにマリーシアはそう囁き、光となって――解けて消えた。


 言いようのない喪失感。

 だが、これは避けようのない道だった。


 その場から動けずにいるギーベルグラントの隣に、豪奢な金髪と深い青の瞳をした妖艶な美女が現われる。


「『空』」

「よく、手放せたねぇ」


「……私も、そう思った」


 ずっと言わなければと思いつつ、なかなか口には出せなかった言葉だった。


「彼女がこの地上に生れ落ちた瞬間に、逢いに行く」

 ギーベルグラントは、己に言い聞かせるようにそう呟く。


『空』が立ち去った後も、彼は永い間そこに佇んでいた。


   *


 そして、また幾つも季節が過ぎていき――。


 ギーベルグラントは、ふと顔を上げた。


「ああ、やっとかえって来てくれましたね……。今度は何でしょう。できれば、空を飛ぶものでなければいいのですが」


 彼は、新しい彼女はどんな姿をしているのだろうと思いを馳せる。


 大地から離れられると気配を追えずに、やきもきする。

 地を走るものであれば、一緒に色々な所へ行ける。

 草花であれば、傍でずっと大事に見守っていられる。


 ――それがマリーシアであるならば、結局はどんな姿でも構わないのだが。


 そう独り言ち、ギーベルグラントは跳ぶ。


 ――彼女の元へ。


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