幕間:ピクニック
影が忍び寄る、少し前。
幸せなひと時。
「ねえ、ギイ。ピクニックに行かない?」
穏やかな昼下がり――マリーシアが突然そんなことを言い出すのは、いつものことだ。
風が気持ち良ければ「お散歩に」。
日差しが強ければ「水浴びに」。
そして、心地良い青空が広がる日に、昼食を終え、夕食までには時間があるという時には「ピクニックに」だ。
ギーベルグラントは書斎の窓から外を眺めて大気の動きを探った。今日は、このまま良い天気が続くだろう。
「いいですよ、何か作っていきましょうか」
彼はそう答えると、早速キッチンに向かう。割合気温が高いから、おやつは焼き菓子よりも、冷菓の方がいいかもしれない、と思いつつ。
そんな彼の後を小走りで追いかけながら、マリーシアが「今日こそは」とばかりにおねだりを発動させた。
「ギイ、待って! たまには、わたしに作らせて!」
ピタリと足を止めて、クルリと振り返ったギーベルグラントを、「お願い!」と両手を組んで見上げてくる。
全身全霊をかけて訴えかけてくるその空色の眼差しに、ギーベルグラントの気持ちが、揺れる。
冷菓なら、いいかもしれない。
わずかばかり、そんなふうに彼の気持ちが動いた。その揺れを察したのか、マリーシアの顔が期待に輝く。
だが。
ギーベルグラントは、結局いつものように首を振った。
「ダメです。怪我でもしたらどうするんですか」
冷菓とは言え、湯煎で溶かすものもあるし、果物を切ることもある。腕がもげてもすぐにくっついてしまうギーベルグラントと違って、マリーシアは怪我をしたらなかなか治らないのだ。ほんの少しでも彼女が傷付く可能性があることは、させたくなかった。
そうして、彼はまた歩き出す。
「もう! わたしだって、もう小さな子どもじゃないのよ? ナイフだって、火だって、ちゃんと使えるのに!」
ムッと頬を膨らませたマリーシアを、ギイはチラリと横目で見る。
「そういう顔をしなくなったら、させてあげますよ」
「ずるい!」
――こんなやり取りも、いつものことだった。
*
結局、ギーベルグラントが全て作ってしまったペルチの実のババロアを平らげて、二人はのんびりと食後の一時を過ごしている。
木漏れ日は心地良く、ギーベルグラントはゴロリと下生えに横になった。
「ギイ、お行儀悪い――」
たしなめようとしたマリーシアが、言いかけて、パッと顔を輝かせる。ポンポンと膝を叩いて、彼にニッコリと笑いかけた。
「ね、ギイ、ここ」
「?」
マリーシアの言わんとしていることが今一つ掴めず、半身を起こしたギーベルグラントは首を傾げる。そんな彼に、マリーシアがもどかしげに言葉を加えた。
「ひ・ざ・ま・く・ら」
「は?」
「膝枕、してあげる」
「……結構です」
「何で?」
「それは……」
「もう! いいから!」
言うなり、ギーベルグラントの頭をグイと引き寄せると、容赦なく押し付けた。彼女の膝、というよりも――に。
明言しておくが、マリーシアが成長してから、彼女の身体に触れることは殆どしていない。せいぜい、手や髪程度だ。年頃の娘には、触れてはならない部位があるということを、ギーベルグラントは書物から学んだのだ。うかつにそれらの場所に触れれば、男親は娘に嫌われるのだと言いうことを。
そして、今、彼の頬に押し付けられている場所は、まさにその『決して触れてはならない』場所だった筈だ。
これは、いったい、どういうことだ。その書物が間違っていたということなのだろうか。
いや、それよりも。
予想以上に柔らかな感触に、ギーベルグラントが絶句する。慌てて起き上がろうとする彼を、マリーシアがギュウと押さえ込んだ。
「そのまま!」
「ですが、これは……」
「いいの。今日のピクニックは、『ギイ、いつもありがとう』なんだから。でも、わたしが準備しようとしたのに、させてくれないんだもの。だから、膝枕」
その言葉と共に、彼女の手がギーベルグラントの目蓋を覆う。それは、柔らかな羽が触れたような心地良さだった。
「せっかく気持ちがいい日なんだから、ゆっくり休んでね」
そう囁くと、マリーシアは歌を口ずさみ始める。その声に誘われ、ギーベルグラントの意識は奥底へと落ちていった。
*
そよ風が、ふわりとマリーシアの髪をすくう。膝の上のギーベルグラントは静かに目を閉じ寛いだ表情だ。
今のマリーシアは、ギーベルグラントが『眠る』ことはないということを知っている。マリーシアと暮らすうち、彼は彼女に合わせる為に『普通の生活』をするようになったのだということを。
自分は、ギーベルグラントを変えてしまったのだ。多分、あらゆる意味で。
マリーシアは膝の上の重みを慈しみながら、空を仰ぎ見る。
幸せな日常。
これは、いつまで続けられるのだろうか――その問いは、時折不意に、彼女の中に浮かび上がる。
マリーシアは、どんどん大きくなった。もう、子どもではない。
けれども、彼女が覚えている限り、ギーベルグラントは全く変わらない。
その意味するところ。
いずれ避けられないことが訪れる。
その時、自分はこの愛しい人を悲しませずにいられるのだろうか。
きっと、それは、まだまだ先のこと。
けれど――
「ギイ、わたしは幸せだよ。だから、ギイも、ずっと幸せでいてね」
そっと囁き、ギーベルグラントの額にくちづけた。その言葉が、彼の中にいつまでも残るように。
今は、まだ、穏やかな時間が流れていくだけだ。




