第一章:お母さんになりたい
「ギイ、見て! 可愛いでしょう?」
頬を染め、息を切らせながら、意気揚々と少女は言った。
「また、あなたは……」
ギイことギーベルグラントの目の前で得意そうな笑顔を浮かべている少女の両腕には、異様な物体が抱えられている。まるで大事な宝物でもあるかのように、しっかりと。
形は確かに卵である。だが、大きさは少女の両腕に余るほどで、食用にしたら結構な人数分のオムレツが作れることだろう。まあ、世の中には卵生の生物はいくらでもおり、大きな卵もそれほど珍しいものではない。問題なのは、その色だ。黄色地に黒の斑は、いかにも「寄るな、触れるな」といわんばかりの警告色だ。大きさといい、色といい、中身は間違いなく「アレ」に違いない。
「マリーシア。いったい、どこで拾ってきたんです?」
「お庭」
少女――マリーシアは、卵の重さがそろそろ堪え始めてきたのか、少々よろめきながらニッコリする。蜂蜜のような金色の巻き毛に、優しく晴れ渡る空の色の目。素晴らしい美少女の笑顔は、素晴らしく可愛い。百人中九十九人が、何をされても許してしまうだろう。
だが、ギーベルグラントは数少ない一名だった。
ピシリと一分の隙もなく整えられた黒髪は、彼の自律のほどを反映している。
磨きあげた黒曜石のような目で、彼の鳩尾ほどまでしかない金色の小さな頭を見下ろした。
「嘘ですね」
きっぱりとしたギーベルグラントの断言に、マリーシアの笑顔が少し困った顔になる。そして顎をちょっと引き、可愛らしく首をかしげる。
「お庭の、ちょっと先」
彼は更に無言で見つめる。ジッと待っていると、マリーシアがちらりと上目遣いで彼を見た。
「お庭の外に、とってもキレイなところがあるの」
ついに白状したマリーシアに、ギーベルグラントは深々と息を吐く。
「マリーシア。外に出てはいけないと、いつも言っているでしょう。危険なんですよ?」
「ごめんなさい……」
ケチョンと項垂れるマリーシアを目の前にすると、叱っている方が悪いことをしているような気がしてくる。だが、ギーベルグラントは理不尽な罪の意識に流されることなく、畳み掛けた。
「その卵を渡しなさい。元の場所に戻してきますから」
その言葉と共に目の前に突き出されたギーベルグラントの手に、マリーシアが後ずさる。
「だめ。ぜったいだめ」
「マリーシア」
「だめよ。だって、赤ちゃんにはお母さんがいないと、死んでしまうわ」
「大丈夫です。それは放っておいても育つ種ですから」
「いや!」
言うなり、卵に覆い被さるようにしてしゃがみこみ、ギーベルグラントに背を向けてしまう。こうなったら梃子でも動かないのがマリーシアだ。彼女が納得しないままに捨てようものなら、一ヶ月は口を利いてくれなくなるだろう。目も合わせてくれないに違いない。
ギーベルグラントにとって、それは何よりもつらい。
仕方なく、彼は手を下ろした。
「わかりました」
ギーベルグラントの一言に、マリーシアはパッと振り向き、満面の笑みを浮かべる。それは、真っ直ぐに彼の胸を貫いた。これに負けず、断固とした態度を取る方が正しいのだということは、解かっているのだ。解かっているのだが、それでも、彼女の笑顔にはどうしても敵わない。光を放つかのようなその笑顔のためなら、彼はどんな労苦も厭わないだろう。
小さなため息とともに、ギーベルグラントはマリーシアに告げた。
「その代わり、産まれそうになったら、必ず私を呼んでください。卵の中から音がしたり、ひびが入ったりしたら、すぐに報せるんですよ?」
「わかったわ!」
弾む声で頷き、卵を抱えて立ち上がろうとしたマリーシアがよろける。ギーベルグラントは片手で彼女の背中を支えて、空いている一方を差し出した。
「卵を貸しなさい。あなたにはそろそろ重いでしょう?」
今度は差し出された手を拒むことなく、マリーシアは卵の前から動く。ギーベルグラントがわざと卵を取り落として割ってしまったり、こっそり捨ててしまったりするかもしれないことなど、全く考えていないのだろう。マリーシアは絶対的にギーベルグラントを信頼しており、その信頼がそのまま、彼を縛る枷となった。
「やれやれ。では、日当たりのいいところにでも置いておきましょうか」
「どこがいいかな? 温室? お庭?」
卵を小脇に抱えて歩き出したギーベルグラントの後ろを、マリーシアが小走りでついていく。
「屋外の方がいいですよ」
と、ギーベルグラントの目指したのは中庭だった。そこなら、気付かないうちに卵が孵化してしまっても、敷地内をうろつかれることはないだろう。
中庭に到着し、その中央に設けた東屋に卵を安置する。雨は防げるし、日当たりも良い。何より、かなり広大な庭なので、少しうろつけばそれなりにエサが見つかるところが一番いい点だろう。
可愛らしい造りの東屋にちょこんと置かれた毒々しい卵を、マリーシアは愛おしそうに撫でる。
「早く出てきてね」
まるでフワフワの兎でも相手にしているかのようなマリーシアに、ギーベルグラントは複雑な顔をする。何しろ、中身は……
「ねえ、ギイ。何が産まれると思う?」
唐突にそう尋ね、目を輝かせたマリーシアが振り返る。
「それは――」
これ幸いとばかりに暴露しようとしたギーベルグラントだったが、その口に当てられた柔らかな手によって、最後まで言えずに止められてしまった。
「ダメ、やっぱりダメ! 出てきてからのお楽しみにする!」
楽しみにできるような代物ではないのだが、期待に満ち満ちたマリーシアに、ギーベルグラントは二の句が継げなくなる。出てきたモノを見てマリーシアが受けるショックと、出てきたモノによって彼女が傷つけられる可能性を考えると、今すぐに目の前の卵を叩き割ってやりたくなった。
やはり、夜中にこっそり割ってしまおうか。
そんな不隠なギーベルグラントをよそに、マリーシアは卵の中の「赤ちゃん」に思いを馳せるのであった。
*
眠りに就いた時間からも、眠りから醒める時間からも遠い時間に、ギーベルグラントは眼瞼をあけた。この時間、本来あるべき場所に、マリーシアの気配がない。辿るまでもなく、彼女が今いる場所の予測はできた。
寝台を下りて、そこへ向かう。
中庭は月明かりで煌々と照らされていて、明かりなしでも充分に周囲の様子が見て取れる。
東屋に着くと、予想通り、月の光を受けてキラキラと輝く少女の姿があった。
マリーシアは卵を抱き締めるようにして眠り込んでいるように見える。しかし、ギーベルグラントが近づくと、その空色の眼差しが彼に向けられた。
「マリーシア。こんな時間に何をしているんですか」
半分が問いかけ、もう半分は叱責だ。
自分がいない時に卵が孵化したらと考えると、マリーシアの無防備さに、ギーベルグラントは心配を通り越して苛立ちすら覚える。だが、それも、彼を認めて嬉しそうに輝く笑顔を見せられると、鉄板に垂れた雫のように霧消してしまった。
「ギイ」
「寒くないですか?」
ショールを羽織っただけの細い肩に、ギーベルグラントは自分が羽織っていたガウンをかけてやる。やはり寒かったのか、ガウンに残った温もりに、マリーシアは小さく身震いした。
「ありがとう。でも、ギイは寒くないの?」
「大丈夫ですよ。で、こんな時間に、こんなところで何をしているんですか?」
再度の問いかけに、マリーシアの手が愛おしそうに卵を撫でる。
「この子が、さびしくないかなって」
そう言って、自分の温もりを分け与えようとするかのように、マリーシアが全身を卵に寄せる。
「卵は何も感じませんよ」
「そう……? そうかな」
呟いて、マリーシアは卵を抱いて耳を押し当てる。その様は、卵の中からの囁きを聞き取ろうとしているかのようだった。しばしの間そうしていた後、ゆっくりと顔を上げ、ギーベルグラントに微笑んだ。
「やっぱり、独りだとさびしいと思う」
「卵が?」
「うん。あのね、わたしも、お母さんのこと、顔も声も思い出せないんだけど、お母さんの事を考えると、胸の中がふわっと温かくなるの。きっと、いつも『大好き』って言ってくれてたんだと思う。わたしも、この子にそうしてあげたいの」
そう言って、マリーシアは卵の天辺にキスを一つ落とす。
「はっきり覚えてはいなくっても、心の中に何かは残ると思うの」
マリーシアの微笑みは幸せそうで、心底からそう信じているようだった。
ギーベルグラントは、マリーシアが不意に見せる、根本的な強さに驚かされる。普段はフワフワとして頼りないくせに、他者に対する信頼といおうか、世界に対する安心感といおうか、そういったものに揺らぎがない。
全身を使ってその「何か」を与えようとしているかのように卵を抱き締めるマリーシアを見守りながら、ギーベルグラントはマリーシアに初めて出会った時の事を思い返していた。
***
ギーベルグラントがマリーシアを拾った時、彼女は、まだまともな会話ができるかどうかという程度の年齢だった。
***
その日、ギーベルグラントは、いつものように気儘に森の中をぶらついていた。
闇は彼の僕であり、夜は彼の時間だった。
時刻は遅く、月明かりさえ通さない深い森の中は真の闇に包まれていたが、彼は何の苦もなく、確かな足取りで進んでいく。
闇が音すら吸い込んでしまうかのような静寂――いつもはそうだった。
しかし、その静寂に、微かな音が混じった。
子どもの泣き声。
それは存在を誇示するように泣き叫ぶ声ではなく、よく気を付けなければ聞き逃してしまいそうなすすり泣きだった。
ギーベルグラントは首を傾げながらも音の出所を探す。子どもを憐れんだからではなく、単なる好奇心からだった。当然、泣き声の主を確認したら、そのまま立ち去るつもりで。
子どもの声は時に消え入りそうになり、耳を澄まさなければならない事もしばしばだった。おそらく、泣くのを懸命に堪えているのだろう。
それでも、音の源に辿り着くのに、そう多くの時間は必要無かった。
茂みを掻き分けると、その音で、小さく丸まった幼女がただでさえ大きな目を更に丸くしてギーベルグラントを見上げてきた。暗闇でもはっきりと見て取れる瞳の色は、よく晴れた空のようだ。幼い子ども特有のまろみを帯びたふっくらとした頬は、涙に濡れている。子どもは、まるで寝台から突然放り出されたかのように、森の中に相応しくない、薄い木綿の寝衣を着ているだけだった。
格好もおかしいが、そもそも明らかに自分の面倒を自分でみられない子どもがこんなところにいるのがおかしい。しかし、何より奇妙に思うべきなのは、子どもの姿が不自然なほどにはっきりと見えることだった。ギーベルグラントは闇の中でも苦もなくものを見ることができるため、その違和感に気付くのが遅れたが、子どもは、彼女自身が仄かな光を放っていたのだ。
気配は確かにヒトでしかない。だが、光る人間など、存在しない。
ギーベルグラントはしばし思い悩む。
コレをどうするべきか。
自分が正体を見抜けない存在に、興味を引かれないことはない。
だが、人間だとすれば、あっという間に死んでしまうものを相手にするのが面倒な気持ちもある。
取り敢えず、子どもの両脇に手を入れて、目の高さまで持ち上げてみた。
軽い。
ヒトの子どもに触れたのは初めてだが、こんなにも軽く、頼りないものなのか。
不意に、遥か高みにぶら下げられて、こどもが何度か目を瞬く。その拍子に、涙の雫が散った。それすら、キラキラと輝いていた。
と、不意に。
子どもが、笑った。
花が開いたようなその笑顔に、ギーベルグラントの胸が、太い鎗に貫かれたような、これまでに経験したことのない衝撃を受ける。
――これは、いったい、なんだ?
この子どもから、ギーベルグラントをたじろがせるような力の気配は、微塵も感じられない。
これまで、どんな相手と対峙した時も感じたことのない感覚に狼狽するギーベルグラントへ、子どもは両腕を目一杯伸ばしてくる。それに誘われるまま、彼は子どもを胸元に引き寄せた。と、儚い力で懸命にしがみついてくる。
その温もりと柔らかさに、ギーベルグラントの胸は、今度は絹の紐で締め付けられたように苦しくなる。知らぬうちに、子どもを抱く腕に力がこもった。
――放せない。
それが、自分は無敵だと信じていたギーベルグラントが、何の力もない存在に囚われた瞬間だった。
***
ふと気付くと、マリーシアは卵にもたれたまま、静かな寝息を立てていた。
ギーベルグラントは、彼女を起こさないように細心の注意を払って抱き上げる。
初めて出会った時、マリーシアは自身の名前は辛うじて覚えていたが、それ以外のことは全く記憶にないようだった。それなりの意思疎通ができる程度の会話はできたが、親の事や、何故森の中にいたのかなどを訊いても、さっぱり答えられなかったのだ。
親に捨てられたのか、それとも、親も予期せぬ事態ではぐれてしまったのか。
この卵が来てから、初めのうちは、マリーシアが卵に固執するのは、自分が親に捨てられたことへの代償行動なのかと思っていた。しかし、日々の様子を見るにつけ、単純に、卵のことを慈しんでいるとしか思えなくなっている。自分が親にされたことを、そのまま卵に反映しているようにしか見えなかった。
マリーシアがたった一人で夜の森に置き去りにされたのは、何故なのか。
彼女を見つけてから七年。ヒトにすればそれなりの時間だが、ギーベルグラントにとっては一瞬のことで、これまで、そのことを深く考えようとはしなかった。
――できたら、これからも考えたくはない。
マリーシアが故意でなくあの森にいたのならば、今も誰かが捜しているかもしれない。彼女自身がその相手に会いたがったら、ギーベルグラントはそれを拒むことができないのだ。
マリーシアの寝室に着いたギーベルグラントは、寝台にそっと降ろし、夜具をかけてやる。そっと頬に触れると、その口元がふわりと緩んだ。
「おやすみ。いい夢を」
耳元にそう囁いて、ギーベルグラントは部屋を出た。
*
ついにその時がやってきた。
今、黄色と黒の卵の殻にはヒビが入り、中からコツコツと叩く音がしている。
マリーシアは両手を握り締めて、彼女の「可愛い赤ちゃん」が出てくるのを心待ちにしていた。その横で、出てきたものが、ほんの一筋でもマリーシアに危害を加えようとしたならば即座に叩き潰そうと、ギーベルグラントが身構えている。
ピキッと音がして、卵歯が覗く。
「頑張れ!」
マリーシアは拳を振って、声を上げた。まるで、初めて歩こうとしているこどもを励ます親のようだ。
ヒビ割れは次第に広がり、そして、卵はパカリと割れた。
出てきたものを見て、マリーシアが目を大きく見開く。
頭でっかちな為か、それは卵の殻から這い出そうとしてつんのめり、顎からペタリとうつ伏せになる。しばらくそのままでいたが、やがて鉤爪の付いた前足、いや翼をパタ付かせ、よっこらせとばかりに座り込んだ。ぽってりとした後ろ足を投げ出して、顔の四分の一はあろうかという大きな金色の目を、ぱちくりと瞬きさせる。
そう、それは、見事な、ワイバーンの縮小版だった。
ワイバーンは非常に凶暴な性格をしており、同類とでも繁殖期以外は死ぬまで戦う。基本的に卵は産み捨てで、孵化するかどうか、孵化した後に育つかどうかは、その個体の運にかかっている。食物連鎖の頂点に立ち、成体にはほぼ敵なしだが、その生態ゆえに繁殖しにくく、個体数は少ないのだ。
ワイバーンはキョロキョロと周囲を見回し、また大きく瞬きをした後、「キュイ」と鳴いた。以外に可愛らしいその声に、マリーシアの頬が染まる。
「可愛い……」
「え?」
ギーベルグラントは耳を疑った。どう見ても大きなトカゲだ。普通は、可愛いという表現に値しないだろう。しかし、思い返せば、マリーシアは爬虫類どころか昆虫までも可愛いと評する少女だった。
「可愛い……可愛い!」
その声にハッと気付いたギーベルグラントが止める間もなく、マリーシアはワイバーンを抱き上げていた。即座に喉笛を食いちぎられてもおかしくない暴挙だ。ギーベルグラントは慌てて両者を引き剥がそうとしたが、ワイバーンは全く凶暴さを見せず、それどころか、マリーシアの「可愛い」の連発に合わせて「キュイ」「キュイ」と鳴き続けている。まるで、彼女の声に反応しているかのようだった。
――マリーシアの事が判っているのか?
これまで知られているワイバーンの生態からすると、有り得ないことである。しかし、実際に、まるで、親鳥に懐く雛のように、ワイバーンは目を細めながらマリーシアに擦り寄っていた。
「マリーシア」
ギーベルグラントはマリーシアに手を伸ばす。
次の瞬間、幼いとはいえ曲がりなりにもワイバーンの強靭な顎が、寸前までギーベルグラントの手があった空間をバクリと噛んだ。わずかでも遅れていたら、彼の指先はワイバーンの腹におさまっていたかもしれない。
ワイバーンの凶悪な眼差しとギーベルグラントの絶対零度の眼差しが、激しく衝突する。
全ては、マリーシアの背後で起きたことである。
「ギイ?」
ワイバーンを抱えたまま、マリーシアがクルリと振り返る。そこにあるのは、いつもどおり穏やかに微笑むギーベルグラントの姿だった。
「マリーシア、重くないですか? 下ろした方がいいと思いますが」
さっさと始末してやる。
ギーベルグラントはマリーシアをにこやかに促しながら、そう内心で呟いた。
しかし、不隠な彼の考えなど思いもつかないマリーシアは、高らかに宣言する。
「ギイ、わたし、この子の名前はキュイにする!」
「飼うつもりですか!?」
「だって、わたしお母さんだし」
当たり前じゃない、と言わんばかりに、マリーシアが頷く。
「やっぱり、ちゃんと卵の中でもわたしの声が聞こえてたんだよ。だから、初めて会ったのに、ちゃんとお返事してくれるんだわ。ねえ、キュイ」
地面に下ろされたワイバーンは、よたよたと不恰好に歩きながら、マリーシアの脚に頭を擦り付ける。その様は、まさに甘える子どものものだった。
そして、やがてマリーシアから離れて茂みの方へと向かうと、昆虫を探し出し、ついばみ始めた。
「すごいね、もう自分でエサを捕るんだ」
「元々、親が子どもの世話をすることのない種ですから」
ギーベルグラントは、暗に、だから飼う必要はないのだと示す。けれども、マリーシアは少しうつむいてポツリと呟いた。
「何か、さびしいね」
「そういう種なんですよ。……マリーシアも、お母さんがいなくて寂しいですか?」
「んー……うん、ううん」
少しの迷いの後、マリーシアは首を振る。
「覚えてないんだけどね、何となく、もう会えない気がするの。それに、今は、わたしにはギイがいるからいいの。ギイって、お母さんみたいなんだもん」
「お母……そうですか……」
満開の笑顔でマリーシアに返された。慕われているのは嬉しいが、ギーベルグラントの胸中は複雑である。自分がこの少女とどのようなつながりを望んでいるのかは彼自身にもわからないが、少なくとも母親と娘ではない気がした。
そんなギーベルグラントの気持ちをよそに、マリーシアはニコニコと頬に笑窪を作りながら餌を漁るワイバーンを見守っている。
まあ、いいか。
マリーシアの全開の笑顔を見ていられるならば、もう少しの間、母親役を兼ねているのも悪くない。
ギーベルグラントは、半ば諦め、半ば喜びの気持ちで、小さく呟いた。
*
ワイバーンも随分大きくなった――というより、巨大になった。
一ヶ月も経たないうちにワイバーンは外に餌を求めるようになり、いったい何を食べてきたのか、みるみるうちに成長した。マリーシアが抱き締めていた頃の名残はなく、今となっては、人が二、三人は余裕で乗れるような巨体である。
だが、遥かに見上げるような図体になっても、マリーシアはワイバーンをキュイと呼び、小さな頃と同じように可愛がっていた。一方、ワイバーンのほうも、マリーシアのことを慕っているようである。彼女に近寄る時には、風圧で飛ばしてしまったり、つま先でウッカリ突き転ばせたりすることのないように、細心の注意を払っているのが見て取れた――ギーベルグラントのことは、隙あらば踏み潰そうとしているのが明らかなのだが。
外に餌を捕りに行った時でも、必ずその日のうちに帰ってきていた。成体のワイバーンは、馬を走らせたら三日間かかる距離を一日で飛ぶという。かなりの遠出をしても、帰れなくなるということはないようだった。
マリーシアは、朝は餌を捕りに出かけるのを見送り、夕方には必ず帰ってくるワイバーンを出迎えることが日課になっていた。
早くどこか遠くで巣作りでもすればいい、と腹立たしく思うギーベルグラントだが、ワイバーンが帰ってきた時のマリーシアの嬉しそうな声を聞くと、何も言えなくなる。
しかし、それも一週間ほど前までのこと。ここのところ、マリーシアの顔は曇りがちであった。
「今日も帰ってこないのかな」
窓から外を見つめたまま、マリーシアが呟いた。その目は、いつもワイバーンが降り立っていた庭に注がれている。
「元々、ワイバーンは群れる習性がないですから、巣立ってしまったらそのまま帰ってきませんよ」
むしろ、成体になったにも拘らず、きっちり毎日帰ってきていた今までの方が不可思議な状態だったのだ。
「そうなんだ……でも、仕方がないよね。大人になっちゃったんだものね」
いたら忌々しい存在だったが、マリーシアの沈んださまを見ているほうがつらい。まさに、親離れされてしまった母親の状態だ。あの手この手で彼女の気を引こうとしたのだが、今一つ効果がない。
ギーベルグラントは、しょんぼりと項垂れているマリーシアの身体を引き寄せ、抱き上げる。彼女もギーベルグラントの首に腕を回してきたが、その力は弱かった。
「いいことだと思うんだけど、さびしいな」
呟くマリーシアの艶やかな頭を、ゆっくりと撫でる。
「今度、ちょっと遠出をしてみましょうか?お弁当でも持って」
「本当? 嬉しいな」
笑顔にも、いつもの輝きが欠けている。ギーベルグラントは、以前のようなマリーシアの笑顔を見られるのであれば、もう一つワイバーンの卵を拾ってきてもいいかとすら考えた。
「湖がいいですか? 花畑もいいですね。もう、たくさん咲いていますよ」
「うーん、湖かなぁ」
マリーシアが浮かべた笑顔を見て、ギーベルグラントは、やはり、何か代わりになるような生き物を探してこようかと考える。今度は、普通に可愛らしく、害がなく、遠くへは行かないものを。
ギーベルグラントとしてはマリーシアとの生活に他のものなど要らなかったが、マリーシアが笑えないというのならば仕方がない。
ポンポンと背中を叩いてやってから、ギーベルグラントはマリーシアを降ろした。
と、その時。
バサリ、とマリーシアが心待ちにしていた音が窓ガラスを震わせる。
マリーシアはまだ彼女の身体に添えられていたギーベルグラントの手を振り払うと、窓辺へ駆け寄った。そこに悠然と舞い降りる姿を認め、顔を輝かす。
「ギイ、キュイが帰ってきた!」
「そのようですね」
内心で舌打ちしながら、ギーベルグラントはいかにも「良かったですね」という笑みを彼女に向けた。
スカートを翻して中庭に向かうマリーシアの後を、ギーベルグラントは渋々ながら追いかける。彼女が喜ぶ姿はとても嬉しいのだが、あの笑みを自分が引き出せなかったことが業腹だ。そんなことを考えながら、中庭に向かう。マリーシアの姿はとっくに見えなくなっていた。
と。
「ええ!? なに、これ?」
マリーシアよりも遅れて中庭に到達したギーベルグラントの耳に、彼女の素っ頓狂な声が届く。何事かとやや脚を早めて庭に出ると、マリーシアが声をあげた理由が嫌というほどよく解った。
そこで彼が目にしたのは、ワイバーンの爪に掴まれてもがく、立派な角を持った牡鹿。
よくよく見ると、ワイバーンにもそこここに引っかき傷が見て取れる。ワイバーンは、いかにも「褒めて」というふうに胸を張っていた。
「何で、鹿? 生きてるの?」
暴れる鹿を呆然と見ていたマリーシアだが、はたと気付き、ワイバーンに声をかける。
「キュイ、放してあげて。あなたも鹿も、怪我してるじゃない」
ワイバーンがきょとんと首を傾げる。
そして、思いついたように、ガパリと口を開け、鹿の頸を折ろうとする。
「ダメぇ! 殺しちゃ、ダメ!」
マリーシアが青くなって張り上げた声にワイバーンはぴたりと止まったが、何故止められたのかは解らないようだ。
「多分、あれは、あなたへのお土産ですよ。ほら、猫が親と思った相手にネズミを持ってくるような……」
「えぇえ、そんな!」
マリーシアはギーベルグラントを見上げて心底困った顔をするが、すぐにくるりとワイバーンに向き直り、切々と説く。
「お土産を持ってきてくれたのは嬉しいわ。でも、お願いだから放してあげて。殺しちゃダメよ」
ワイバーンは何度かマリーシアと鹿を見比べた後、ゆっくりと羽ばたき、鹿から離れた。
自由になった牡鹿はその場に倒れこみ、再び立ち上がろうともがいて角を振り回す。
「脚を怪我しているようですね」
「大人しくさせられないかな?」
「薬を使いましょう。少し待っていてください。くれぐれも、まだあの鹿に近づいてはダメですよ」
ギーベルグラントの念押しにマリーシアは頷いたが、それでも気がかりそうに振り返りながら、彼は邸の中に戻っていった。
マリーシアは鹿の角に引っかからないように遠回りしながら、ワイバーンに近づく。
「キュイ、わたしをお母さんだと思ってくれてありがとう。嬉しい。でも、お土産はいいの。あなたが食べる分だけ捕まえて。余分に殺しちゃダメなのよ?」
彼女の声に、ワイバーンは頭を傾げながら聞き入る。土産を喜んでいないことを察したのか、徐々に頭が下がっていく。
項垂れるワイバーンが可哀相になって、マリーシアはその巨大な鼻面を撫でてやる。
「怒ってるんじゃないのよ? ただね、必要じゃないのに殺して欲しくないだけ」
ワイバーンは甘えるように「キュイ」と鳴いた。
「解ってくれる? いい子ね。わたしはあなたが大好きよ」
鼻先に小さなキスを落とす。
薬を持って戻ってきたギーベルグラントは、その光景を半ば驚嘆しながら見ていた。
動くものはみな攻撃すると言われているワイバーンが、まるで借りてきた猫のようだ。しかも、マリーシアの言葉を理解しているように見える。
自分がマリーシアに魅せられたように、ワイバーンも彼女に引き寄せられているのだろうか。
マリーシアは非力な少女に過ぎないのに、なぜ、こんなにも惹かれるのか。
ヒトが成長するのは早い。
ギーベルグラントの時の流れに比べると、まさに流星のようなものだ。
いつか、彼女を失う瞬間を迎えた時、自分がどうなってしまうのかわからない。
いっそ、時を止めた籠にでも閉じ込めてしまおうかと考えたこともある。だが、それではマリーシアの輝きは消えてしまうのだろう。
彼女を彼女のままに、けれど失わないようにするためには、どうしたらいいのか。
ぼんやりと見惚れていたギーベルグラントにマリーシアのほうが気付き、駆け寄ってくる。ギーベルグラントは何度考えても答えの出ない物思いをやめ、薬や治療道具を手に、もがき続けている牡鹿へと向かった。
*
治療を終えた牡鹿は、マリーシアの手厚い看護を受け、再び立派に走れるようになった。
もちろん、ギーベルグラントは屋敷の外へと放して自然に返そうと試みた。
だが、すっかりマリーシアに懐いてしまった鹿は、屋敷の周りをうろついて、悲しげな声で彼女を呼んでしまうのだ。
ギーベルグラントがマリーシアの懇願の眼差しから目を逸らすことができていたのも、三日ばかりのこと。
結局牡鹿は「ピイ」と名付けられ、ワイバーンよりは可愛らしく、害がなく、遠くへ行くこともない、マリーシアの「次男」となった。
この「次男」も、ワイバーンと同様、隙あらばギーベルグラントの事を投げ飛ばそうとたくらむようになるのである。