鐘の後の事
このお話は少しの間お休みします。
どうぞご了承ください。
鐘がなって、なおも一真は走り続けた。
しかし、足取りは重たかった。
今しがた使っってしまった暗殺剣と、沙代を探してまわった五日分の疲労、そして沙代が殺される時刻とされている六つ時の鐘が鳴ってしまった事。
それが一真の足取りをより一層重たくしていた。
あのサシバという忍は冷酷である。
安次郎が立ち会ったときに、一真はそういう印象を持った。
無抵抗の弱い女子を殺すなどという事にも一切情などの感情をもたないであろう。
いま一真を動かしているのは、ひょっとしたら、万が一、という希薄な望みだけである。
サシバという人間が情をかけているかもしれない、刀に支障が出て沙代を斬る事ができなかったかもしれない、といったようなありえない奇跡にすがる事のみであった。
しかし、その爪の先ほどの希望では、重くのしかかってくる虚脱感を拭う事はできなかった。
一真の足がついに止まってしまった。
棒のようになって、いう事を聞かない両膝に手をついて、ハアハアと喘ぎ、額の汗を拭った。
その時、向かいから女がやってきた。
女は一真の前で立ち止まると無言で一真を見下ろす。
一真は顔を上げて女を見た。
お鳥であった。
一真はお鳥とわかるなり顔を歪めた。
「何をしにきた。今はお前の顔など見たくないんだ。さっさとどこかへ行け」
露骨に嫌そうに睨んだが、お鳥は動じず神妙な顔をして一真にいった。
「西村沙代様は無事です。雷華はじめ配下の忍達が、先ほどサシバを捕らえました」
一真は驚いたようにお鳥をみた。
「沙代は無事なのか。そうか、お前も探してくれていたのだな。乱暴な口をきいてすまなかった」
お鳥は少し笑みを浮かべたが、すぐに表情を引き締めて一真を見る。
「いいえ、こちらも三羽烏を捕らえきれなかった事が原因ですから。それより随分とお疲れのご様子ですね」
「こんな事はなんでもない。それより、沙代を迎えにいかなくては・・・」
一真は歩き出したが、途端によろめいてしまい、お鳥がその体を支える。
「こんなにボロボロな状態で迎えにいかれてもどうしようもないですよ。迎えは兵庫さんにお頼みしましたゆえ」
意外な人物の名前がでてきて一真は少々驚くが、お鳥に抱えられながらフン、と鼻で笑った。
「兵庫に?馬鹿だなお前も。兵庫なんかに迎えに行かせたら沙代が喜ぶだけだぞ。あいつは兵庫に惚れてるからな」
お鳥は少し目を細め、眉を寄せた。
しかし、すぐに神妙な顔つきになり一真に問う。
「キヌガサはどう切り抜けましたが?」
「フン、そんな事までおさえてるんだな。斬ったさ。向こうの道端に転がってるはずだ」
一真の体は随分と疲労がたまっていたようで、抱えているお鳥の腕からはなれる力も残っていない。
そんな様子を見てお鳥は低い声で囁いた。
「暗殺剣を使ってですか?」
暗殺剣の名を出されてぐったりとしていた体に一瞬にして力が入る。
一真はお鳥の腕から逃れようと、懇親の力をこめ、体を動かした。
しかしお鳥の方が速かった。
お鳥は一真の体を抱え込んだまま、みぞおちに当身をした。
「う!」
一真は一声呻くと、ぐったりと気を失い、お鳥はその体をひょいっと担ぎ上げた。
「さて、これで佐倉一真は確保したぞ。サシバも捕まえたしな。まあ、ユギは逃げたが、雷華と並ぶ半人前だ、さして大きな害はないだろう。後は、キヌガサの死体だな。この先だと言っていたが・・・」
お鳥は道の向こうを見て、風のように走り出した。
しかし、道にそれらしいものは中々見えてこない。
やがて一本松が見えてきた。
お鳥は走りを止めた。
そして、片眉をぴくりと上げた。
「どういうことだ・・・?」
そこには戦いがあったことを物語る荒れた足跡と、切られた着物の布地がはらはらと散っていた。
しかし、わずかな血だまりが残っているだけで、キヌガサの姿はどこにもない。
「暗殺剣をくらって逃げるとは・・・」
虚空を睨みながらお鳥は呟いた。
そして、少し笑みを浮かべる。
「ふん。しぶといやつめ。しかしキヌガサ。お前はもう逃れられないぞ。黒鍬、伊賀者、他の大勢の忍がお前を狙っているからな。死にぞこなった事を後悔しても、後の祭りだぞ」
お鳥はそう呟くと、一真を背負いなおしやがてまた走り出した。