闇の香りはリンスと共に 其の六
目の前を走り抜けていった水上につられるように俺も戸を思い切り開け、廊下に出る。視界に水上の後ろ姿を捉えるがもの凄い勢いで遠のいていく。
「おい、水上!」
そう叫びながら、追いかけるも聞こえていないのか振り向きすらしない。一体どうなっている。水上はどこへ行く気だ。そもそも、あの異形なるモノはどうなった。様々な思考を巡らせながら走っていると先程、通り過ぎた教室の戸が開く音がし、思わず速度を緩め、振り向く。
「樋口、これはどういう事? というかどういう状況?」
さすがの桜沢もこの現状を把握出来ずにやや困惑気味に聞いてくる。
「俺もよく分からない。ただ、今、水上が走っていて」
そうこう言っているうちに水上は廊下を右に回り、渡り廊下へ姿を消す。
「とにかく後を追うしかないわね」
「そうだな」
そう言いながら、俺と桜沢は水上の後を追い、渡り廊下の前に辿り着く。水上が姿を消してからのタイムラグは一分たらずくらいか。視界と体を渡り廊下の方向へ向ける。
渡り廊下では新校舎への入り口で血塗れのスケッチブックを持ち、しゃがみ込む下灘 百合。そして全長のほぼ中頃の位置で少し肩で息をしながらたたずむ水上。
状況から考えると水上がなんらかの方法でさっきの異形を倒し、その状況に窮した下灘はトイレから逃亡、それを見た水上が下灘を追跡した。しかし、とっさに入った渡り廊下だったが新校舎への扉は鍵が掛かっており、万事休すといったところか。
「水上、大丈夫だったか」
「ああ、なんとかな。それより……」
水上はわずかにこちらに視線を寄越すもまだ警戒しているらしく、下灘から眼を離さない。まぁ当然の事ではあるが。
「桜沢先輩、どうします?この女」
さすがに浴衣なのに加え、銃まで持っているので速くは走れないらしく遅れてたった今、到着した桜沢の気配を察し、水上は問いかける。
「そうね。少しだけ話したいんだけどいいかな?」
それはどちらに言った言葉なのだろう。両者に言ったのか?
「ええっどうぞ。ただ気をつけてください。奴の眼、まだ生きています」
「……」
下灘は無言だった。息をするたびにしんどそうに大きく揺れる体から見て体力的にかなりきているように見える。
「分かってるって」
そう軽い感じで返事をし、ゆっくりとした足取りで水上のすぐ隣に立つ。
「下灘さんだったわよね。少し、話をしませんか」
問いかけに対して下灘はただ無言の返答を返すも桜沢は気にせず一方的に喋り始める。
「聞きたいことはいろいろと腐るほどあるんだけど今のあなたの状態から考えて、まともな受け答えしてもらえなさそうだから、詳しくは後日聞くとして、ひとつだけ」
聞きたいことが腐るほどあるっ点に関して言えば、お前も同様だけどな。と俺は心の中で静かに呟く。
「わざわざ、こんなしょーもない男子二人を騙して、こんな所まで連れてこさせた上で召喚術なんてものまで使用しての襲撃。一体、あなたの目的はなんだったのかしら」
確かに。殺すことが目的ならわざわざ、こんな所まで来る必要がない。あれだけの化け物だ。水上は例外として、普通の人ならば俺も含めて秒殺出来る。また金銭目的ならば持ち金の知れている高校生など狙うはずがない。召喚の条件とかが関係しているとかか?
「ふっ…… 目的ねぇ。そんな難しい話じゃないわよ。ただここが」
下灘はそう言いながら、驚く程の速い動作で先程から抱えていたスケッチブックを廊下に開いて置き、その上に再度、血塗れの手を乗せる。
「水上!!」
叫ぶよりも先に、下灘へ向かい弾丸のような加速する水上。桜沢も叫ぶと同時に銃を構える。俺はというと周囲急な温度変化に付いていけず、とりあえず下灘に向かい、水上の後を追う。
「楽園じゃなかっただけよ!!」
下灘はそう叫びながらこちらに向けて手をかざす。水上との距離を考えるとほんの少しだが彼女の召喚の方が速い。間に合わないか。
「なっ出ない?なんで」
そう言い終わらない内に水上の容赦のない突き蹴りが下灘の右頬を捉え蹴り抜く。鈍く不快な音と共に蹴られた勢いのまま左頬を扉にぶつけ、引きずるように倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。だが水上は倒れた下灘の腕を掴み、無理矢理、引っ張り上げようとしている。
「おい、水上。これ以上何をする気だよ」
「いや、手と足の骨を一、二本折っておこうと」
「もういいだろ。充分過ぎる」
「桜沢先輩がまだ敵だと認識しているならばそれは俺の敵だ。敵は徹底的に潰す。」
味方の俺にまで攻撃してきそうな鋭い視線をこちらへ向ける。いつもの冷静沈着な水上から想像も出来ない凶暴な雰囲気だ。一体どういう事だ?
「水上、そこまでやれば上等よ」
桜沢が軽い感じでいいタイミングで声を掛けてきた。ナイスだ桜沢。
「これで充分よ」
(『これで』?)
そんな疑問が頭を過ぎるよりも速く、空気を排出するような音が周囲に響く。とっさに下灘の方へ視線を走らせると彼女の腹部に見覚えのある蛍光色のピンクのダーツが刺さっていた。
「これで少なくとも朝までは起きないはずだわ」
満面の笑顔の桜沢。
「お前も大概だな」
こうして、ラブコメ的な様相を呈していたはずがいつの間にかホラーになってしまった夜のクソ演劇もようやくフィナーレと言ったところか。いろいろと疑問は残るが今宵はただこの外に広がる深い闇を眺め、静かに幕を閉じるとしよう。ただなんとなくそう思った。