闇の香りはリンスと共に 其の五
「さぁ、こっちも行動するわよ」
桜沢はそう言いながら銃を肩に引っさげ、窓を開ける。水上が囮になっている間に窓の外を伝って依頼人 下灘 百合が倒れている(と思われる)女子トイレへ救出に向かうという作戦なのだが。
「桜沢、そんな格好で行くのか?」
明らかに機動性に難のありそうな浴衣を着たまま、外に出ようとするのを見て思わず声を掛ける。
「仕方がないでしょ。時間ないんだし、着替えも下に置いてきたままなんだから」
「ええっと、さっき思ったんだけど、お前まさかここに住んでる?」
「そんなわけないでしょ! さっさっと行くわよ」
なぜか少し恥ずかしそうな表情と感情をごまかすようにそう言いながら窓の外にあるわずかな幅の足場に降りる。
二階とはいえさすがにちょっと抵抗があるが、向こう側では水上が必死に闘っているのだから躊躇してはいられない。桜沢のすぐ近くに降りると夏場特有の生温い風が桜沢のリンスの香りを運び、鼻孔をくすぐる。
「行くわよ」
そう言いながら、桜沢はゆっくりと前進し始める。トイレはさっき水上がぶち込まれた教室の隣だから距離的にはそんなにないはずだが……妙に距離を感じる。足幅が狭いせいか、それともこの特殊な状況のせいか。
教室の外ににさしかかると一ヵ所、窓が開いている。おそらく水上はあそこから出たのだろう。教室の中をなんとなく見るがある意味予想通りの光景が広がっていた。一言でいうと台風一過っ感じか。机と椅子が入り乱れ、まるで知恵の輪のように難解に絡まっているように見える。水上の食らった一撃がいかに凄まじかったかをもの語っている。
「マジかよ」
思わず呟いてしまう。
とりあえずトイレの直前の所までは到着する。桜沢が急にしゃがむと俺に対して手を使って、しゃがめとジェスチャーするので指示通りしゃがむ。桜沢はそのまま、さらに前進し、ちょうど窓のすぐ下の位置で再び止まる。俺もそれに倣い桜沢のすぐ隣に移動する。
桜沢は上を指し、俺の眼をジッと見つめ、無言の指示。どうやら俺に見ろと言っているらしい。嫌なのは間違いないが反論している場合じゃない事は重々、承知しているつもりだ。まぁそれ以前におそらく拒否権すらないだろうけど。少しだけ間を置き、潔くあきらめる。ただ、自然とため息が出た。
腰をゆっくりと上げ、不安と恐怖でパニックになりそうな感情を抑えつつ、目の前の光景を渾身の眼力で直視する。
視界に映る光景がどんなものであれ、恐らく俺はびびっただろう。仮に何もなかったとしてもだ。ただ、今、俺の瞳に映っている光景から考えて、俺はどう反応すべきなのだろう。分からない。ただ自分の心臓の鼓動が妙に全身に響くような感覚を覚え自分の心臓の存在をなぜか、今、あらためて実感している。
彼女は一体、何をしているんだ。
そこにいたのは確かに下灘 百合、本人に間違いない。ただ状況が奇異だ。
彼女は窓とトイレの入り口のちょうど中間にあたるぐらいの場所でうずくまっていた。なぜか彼女の前にはスケッチブックのようなものが開かれており、そこに右手を置いている。そしてそこから出ている思われるドス黒い花のような模様、あれは血か?息を飲む光景ではあるが依頼人が生きているのは何よりではある。ただそれ以上に衝撃的な仮説が俺の頭に過ぎる。
まさかこいつが……そう考えた刹那、下灘の狂気を孕んだ顔ががこちらへ向く。振り乱した髪、憔悴したような雰囲気ついさっき会った時とはまるで別人だ。まずい、気付かれたか。
下灘はこちらに手をかざし、狂気の表情をさらに苦痛で歪めさせながら何かを叫ぶ。
信じられない、正確には信じたくなかったが正しいか。彼女が手をかざしたすぐ先にさっき、俺達の前に現れた剛腕の異形が出現した。
最悪の状況だ。おそらく奴は窓ごと俺を薙ぐつもりだろう。先程から見せられているあの豪腕の威力なら窓越しという点を加味しても充分過ぎる上に釣りが来るだろう。なんとか初撃だけでも避けなければ、しかし、相手こちらにその手段を考える時間すら与えてはくれない。
軽く前へステップするとその強大な腕を上へと振り上げる。
「どうしたの。何があったの? ねぇ」
そう言いながら、桜沢が俺と同じ位置に視線を上げようとしている。
それどころではない。とにかく俺も桜沢もこの一撃を食らうわけにはいかない。そう考えている間にも異形の一撃は死神の鎌を彷彿とさせる軌道を描きこちらへ来る。
「避けろ!」
俺はとっさに横にいる桜沢の肩をなるべく加減して蹴飛ばしつつ、俺もその反対側へ避ける。それの行動のすぐ後に強烈な破砕音が鼓膜を貫く。窓カラス及びその他の破片が辺りに散らばり、俺の体にもそれらがいくつか当たる。その異形なる豪腕は窓はもちろんのこと、その下にある壁すらも全体の三分の一程が完全に変形しているのを見て、本当に冗談にならない威力だと改めて実感する。
「桜沢、大丈夫か?」
多分、落ちてはいないと思うけど、とっさとは言え、あれはちょっとまずいかったかな? いろんな意味で、と今さら少し反省する。
「なんとかね。それよりお前、口で言ってよ、さすがに少し焦ったわよ」
「すまん、ちょっと色々と後手に回っちまって」
「一体、何があったの。あいつは今、水上が相手しているはずじゃ、まさか」
「いや、まだ水上はやられていない。このトイレの中には依頼人 下灘 百合がいて彼女が異形なるモノを召喚し、こっちに攻撃を」
「つまり、この件、最初全て、その女が元凶というわけね。厄介なモノ連れ込んで全く。」
桜沢、あきらたような物腰でそう言いながら立ち上がる。異形から放たれた先程の初撃から全く音沙汰がないのが少々、気になる。なぜだ。
「とにかくここじゃ不利だから一旦、建物の中に入るわよ。樋口はそっちから入って、私はここから入るから」
桜沢はそう言うととすぐ隣の男子トイレの窓からなんの躊躇もなく入る。女子なんだから少しくらいそういう仕草があってもいいと思うのだが、そんな状況でもないか。
そう思いながら俺も少し遅れて先程、通った水上がブチ込まれた教室へ入る。
そう言えばこの件が始まってひとりになるのは初めてだな。そう思うとたまらなくなんか怖くなってきた。とりあえず早く桜沢と合流しないとな。
そんな事を考えながら、俺は出口である戸に向かう。相変わらずの荒廃した教室内を一瞥し、戸の前に到着し、少しだけ戸を開け外の様子を窺う。さっきみたいに待ち伏せされていてはたまらないからな。
特に何もないようだと安堵し、戸を開けようとした瞬間、軽快な足音と共に何者かが俺の目の前を走り去っていく。
あれは、水上じゃないか。