闇の香りはリンスと共に 其の三
逃げるべきだろう。普通に考えればあんなもの相手にするわけがない。ましてや神馬さんや桜沢がいないこの状況での異形との遭遇、最悪の展開だ。
足が震える、油のような汗が全身を覆うのを感じる。すぐ左にある部屋の戸に視線を走らせる。
(あの女はどうする?)
思考は逃亡一択なのに対してわずかな良心が俺の中で葛藤をし始める。
(どうすれば……助ける?無理だ。このまま逃げる?けど、それは)
不意に肩に手を置かれ、我に返る。
「落ち着け」
水上はこんな状況にも関わらず冷静に俺にそう声をかけ、ゆっくりと前へ歩を進めていく。だがさすがにいつものクール表情にやや険しさが感じられる。
「一応はやってみる。これでも戦闘担当だからな。とりあえず神馬さんには連絡し続けろ。そして状況を見て、ダメそうだったらお前、一人でも逃げろ。いいな」
そう言いながら水上は近くにあった掃除用具入れのロッカーを開ける。中からなぜか箒の柄だけ、しかも先端が鋭利に加工され、槍のような形状をしている。明らかに本来の目的とは違う代物だ。
「なんだ? それ」
「こういう事もあろうかと暇な時に作っておいたんだ。ああいうのに効くかは分からないけど素手よりはマシだ」
水上は箒の柄を槍のように持ち、構える。というかこいつ、なんだかんだで結構、やる気満々なのは気のせいだろうか。
今逃げたいのが本音だがそうもいかないよなぁ。そういう風に思考を巡らせつつ、無駄と薄々、分かりつつも神馬さんに電話を掛け続ける。
その異形は 水上の構えを確認し、一瞬だけ動きを止めるもののすぐにこちらへ悠然と歩いてくる。
それに対しての水上はいきなり構えを解き、やり投げの競技のように右手で箒の柄を大きく振りかぶり、その異形に向かって投擲。軽いはずの箒の柄に重量感を感じさせる速度で異形へ向かう一撃。
しかし、異形はそんな意表を突く攻撃に臆する雰囲気を微塵も出さずにその豪腕を右方向に薙ぐ。箒の柄はまるでポッキーのように驚くほど軽い音を立てて、砕け散る。やはりあの左腕、当たれば死亡確定だな、あれは。
しかし、そう思った刹那、俺の視界に水上の姿は消え、驚きと同時に瞬きをした次の瞬間、異形の懐といえる位置にその姿を認識。何が起こったのか理解しようとするが水上の行動の速度がそれを許さない。
左から繰り出される水上のフックは無防備な異形の右頬にめり込む。夜の静かな校舎に気分が悪くなるような鈍い音が響く。さらに水上ほとんど間を置かずに右手でアッパーカットを先程の音の終わり際にさらに音を重ねる。
格闘技をテレビでたまに見るがあんなのまともに食らった場合、確実にKO必至のはずだ。現に異形のモノもさすがにのけぞっている。だが水上は完璧主義者らしく、さらに体を一回転させたと思うと左の回転上段回し蹴りが異形の頭を削ぐような速度で容赦なく蹴り抜く。
異形の頭は廊下の窓をブチ抜き、ガラスが砕け散り、辺りに散乱する。
その怒濤の連撃に俺は思わずこれは終わったんじゃないかと安堵した。
急に水上の体が一瞬、硬直したかと思うと大きくバックステップで後退し、再び大きく間合いをとる。
異形の者はというとまるで何もなかったかのようにゆっくりと体勢を整え、立ち上がると再び悠然とこちらへ前進してくる。
あれだけの打撃をモロに食らって平然としているところを見ると今さらながらこいつは人ならざる者だと実感する。
水上の方へ視線を移すと脇腹に黒い染みのようなものが出来ているのに気付く。
「水上、それ……」
「大丈夫だ。掠っただけだ。しかし、参ったな、クソ!」
異形の者の方へ目をやるとその右手にはナイフのような物が握られている。おそらく連撃の終わり際の隙をついたといったところか。
さすがの水上にも少し、焦りが見える。こちらの攻撃が全く効かないと判明したわけだから当然といえば、当然の反応だ。普通ならどう考えても逃げるべきだが状況がそれを許さないという面倒な場面、確かに参った。
攻撃が効かない以上倒すのは不可能。あと考えられる手はさっきと同じような方法で間合いを詰め、攻撃はせずにすり抜け、女子トイレで倒れていると思われる下灘を連れ、逃亡するくらいか。
そんな考えを口に出そうとしたその時、微かなな風と共にリンスのような香りが鼻をくすぐると同時に目の前に全く想定外の人物が現れる。我が部の部長、桜沢潤だ。
一瞬、誰だと思ったがそれも当然の話だ。服装はなぜか浴衣、しかもその腕に抱いているのは洗面器に入っているのはいわゆるお風呂セット、まるで銭湯帰りである。普段の制服姿とはあまりにも違いすぎる格好に若干、混乱する。
そんな突然、現れた桜沢がこちらを見て発した第一声は
「なんであんたたちがこんな時間にこんな所にいるのよ」
こっちの台詞だと突っ込んもうとした瞬間、水上がとっさに桜沢の声に反応しこちらへ振り向く。ほぼ同時だろうか、異形の者はその隙を逃さなかった。気が付いた時にはその豪腕は水上を捕らえ、水上は次の瞬間、視界から消える。鈍い音と共に教室の戸に叩きつけられ、その戸と一緒に教室の中へ。机や椅子やらがぶつかり合う音と同時に轟音が響き、教室から煙のような埃が舞う。
「水上!」
叫んではみたものの、どうすればいいのか最早、判断もつかず、ただまた冷静さが失われていくのがなんとなく分かり、辺りがスローモーションになったように感じた。俺は万が一の時のために握りしめていた、護符で作った簡易対霊ナックルを振り上げ叫びながら、わけも分からず体重を前へと移動させる。
しかし、桜沢の行動はそんな命の惜しさや恐怖と混乱が混じった俺の動きよりも迷いがなくそして速かった。
俺の襟首を掴むと同時部室の扉を開けるとそのまま俺を引っ張り、入室し、畳に勢いのまま転がす。そしてすぐに戸を閉めると懐から何か札を取り出し戸に貼り付ける。すぐに凄まじい衝撃と音が室内に響く。ハンマーか何かを戸に叩きつけるようなそんな感じの衝撃が断続的に戸を叩く。おそらく本来な
らばさっきの水上がぶち込まれた教室同様、一撃でオシャカになっていただろう。となるとやはりこうして保っているところを見るやはり今、桜沢の貼った札のご加護といったところか。普段はむかつく女だがさすが今回は仏様に見えた。