黄昏に憑かれる 其の三
「えっなんで?」
「つき合い始める記念よ。あなたの『初めて』いただこうと思って」
おいおいなんだこの神展開は夢か幻か? でなきゃ俺の背後には恋愛の神様でも降臨しているのか。
「お、おう」
俺はとりあえずその場の流れのまま従い、目を閉ざす。彼女の恋に関する基本方針が『勢い』だというのならこのまま流れに乗っしまおうと思ったのだ。 恋愛の過程に段階があるとしたら俺は今日で一気に何段進んだんだろうか。
おそらく目をつぶればキスをしてもらえると俺は勝手に予想し、唇に来るであろう未知の感触に期待し興奮する。自分でも今どういう思考状態なのかよく分からなかった。
しかし、俺の予想を裏切り、唇に柔らかい接吻は訪れず、代わりに甘い幻想をうち砕く衝撃が胸を貫く。呼吸は一瞬、全く出来なくなると共に俺の体が宙に浮く。体勢はちょうど棒高跳びの背面飛びのような状態で防御ほぼ不可能な体勢だ。後ろには階段、しかも確か三十段程の高さ、死を瞬間的に意識する。目の前にうつる彼女は変わらずの笑顔。その笑みにはどういう意味があるのだろう。やっぱり俺はなんか騙されたのだろうか?そうだよなそんな都合のいいことあり得ないよな。死の瞬間とは今までの人生の走馬燈が見えると聞いていたが全然見えねぇな。
そんな事を考えながら俺の体は引力の法則に従って地面に引っ張られようとしたその瞬間である。凄まじい速度何者かがで三条 見坂の横をすり抜け俺に向かい右手を伸ばして跳躍する。そして俺の胸ぐらを乱暴につかみ左手で手すりをつかむ。一瞬、全ての勢いが相殺され空中で静止する。そのままそいつは力任せに俺を階段の脇の植木の茂みに投げつけた。
茂みに叩きつけられた衝撃と共に細い木の枝が顔や手に刺さったり、引っかかったりする痛みが走る。何が起こったのか俺は全く理解出来ず、混乱し、思考も完全に停止し、茫然自失の状態になっていた。
どれくらいたっただろうか……いや実際のところ経過した時間はほんの一、二分だったかもしれない。ただ俺にとっては悠久の時間をたゆたっているような気分だった。
そんな惚けていた俺を鋭い罵声が現実に連れ戻してくれた。
「おい! そこの馬鹿。いつまでぼうっとしているつもり!」
俺は起きあがり、声のする方へ向く。そこには手すりに腰を掛けこちらを睨みつけている女性がいた。制服を着ているのでうちの生徒である事は間違いない。美人というよりは可愛いよりの顔で髪は肩にかかるかどうかぐらい、どこか小動物を連想させる少女だった。
「こんな所で背面飛びの練習か? 随分、酔狂なご趣味をお持ちだ」
彼女は皮肉めいた笑みを浮かべる。
「いや、違うんだ。さっきまで女といっしょにいて、いい雰囲気だったのに何故か、突き飛ばされて……」
「まぁあなたにはそう見えたんでしょうね」
「ん? どういう意味だ」
「こっちの話よ。それより今回の事の経過を簡単に説明してくれないかな?」
彼女はポケットからメモ帳を取り出す。話そのものに興味がありそうなのは物腰と態度でなんとなく分かるが彼女の真意がよく分からなかった。
「そんなもの聞いてどうする? 」
「ん? まぁ純粋に興味があるだけだが嫌かな? 」
「まぁな。結局、俺は騙されたわけだろ? 今、冷静に考えるとかなり浮かれていたようだな俺は。恥ずかしい話だ。話すのはちょっと抵抗があるよ」
その女は茂みに座り込んだ俺を見下ろし、足を組みながら少しあきれた表情を浮かべていた。
「そう言わずにさ。別に言いふらそうっていうじゃないんだから。それにだよ君の目の前にいる人物は君の命の恩人だよ。 それくらいしてくれたってバチは当たらないだろう?」
それを言われてはグゥの音も出ない。仕方なく私は事の一部始終を彼女に説明する。聞いていた彼女は俺が言葉紡ぐたびに表情にあきれの色を濃くしていった。そして話し終わると同時にため息をひとつつく。
「お前、そんなの途中っと言うよりも最初からおかしいって気付けよ。どこの世界に図書室の片隅で引きこもっている人間に興味を持つ奴がいる? 全く……」
彼女は冷たく言い放つ。同感だ。
冷静になった当人でもバカだったと感じているのだ。第三者から見れば尚更俺の行動は愚かしく映ることだろう。
「しかし、あの女……一体」
「さぁ、怪異の目的なんてあってないようなものだしね」
ん? 今、こいつ『怪異』って言わなかったか?俺は同級生の女に殺されかけたと思っていたのだが?
「怪異? 」
「ああ、別に気にするな。どうせすぐに信じろっていっても無理な話だ。ただこの
世界には少なからずそういう『モノ』もいるという事だ」
「いきなりそんな非現実な事言われてもいまいち、ピンとこないな」
「気になるようなら、その女について調べてみればいい。名前くらいは聞いているんだろう? おそらくだが同級生にはおろかこの全校生徒の中にもそんな女は存在しないだろうさ」
随分な自信である。まるで全ての答えを知っているような口ぶりだ。
「あんた、何か知っているのか? 」
「さてね。そろそろ私は行くよ。あと、図書室のその場所もう行かない方がいいぞ」
その女はそう言いながらゆっくりとした足取りで階段を上がっていく。
頼まれたって行くか。せっかく聖域だったが、こんなケチがついてしまった以上、しばらくあそこには行く気にはなれないだろう。
「あんたの名前、一応教えてもらえるか?」
特に理由があるわけではなかったがなんとなく彼女の名前が知りたくなった。
彼女は階段の最上段で立ち止まると少し考えた後に一言。
「桜沢 潤だ」
桜沢 潤ねぇ……
後日談。面倒だとは思ったがやはり決着を見ないのは俺としても気分が悪い
ので三条 見坂について独自に調べてみたがやはりこの学校どこにもそんな人間は存在しなかった。過去にそういう生徒がいたか調べればもしかしたら出てくるかもしれないが俺の情報収集能力がはやくも限界に到達、断念。まぁ在校生に存在しないというだけで結果は出たようなものだが。
恋は錯覚だというのなら俺は間違いなくあの瞬間、恋に落ちていた。夕日の光が照らす三条 見坂の姿に。もしかしたら同一の存在に出会えた嬉しさに俺はときめいていた。そして殺されかけるという過程を経て、錯覚から覚めたというわけか。恋は錯覚というがいやはや……。
平凡で素晴らしい日常を退屈だと思った矢先の出来事だ。まさかわずか一日の間に恋に落ち、生命の危機に瀕し、自分の世界観が変わるとは驚きだ。分からないものだね、人生。
「とりあえずもう少し歩いてみますか」
私は自室の窓から黄昏を眺めながら静かにそう呟いた。