それでは今酔いも酔い夢を 其の五
とにかく、今の時点では特に何かしてくる様子はなさそうだがすぐにここから離れたい、そういう衝動に駆られる。
「先輩!」
「分かってる。目の前にある遊具が見えるよね」
いきなりなんの話だ。確かに俺達の前、三十メートルくらい先にテントウムシの背中のようなドーム状で穴だらけの遊具がある。
「あれが何か」
「ついてきて」
なんの説明もなく、先輩はノートパソコンを閉じ、脇に抱えるとその遊具に向かい歩き始めた。
「ちょっと! 先輩」
「あっごめん私の鞄、持ってきて」
おれはベンチに置き忘れられていた先輩の鞄を持ち、後を追う。一体、何をしようというのか。
あの不気味な女はまだベンチに座ったままだ。どうやらすぐに追って来る気はないらしい。先輩は何も言わずにさっさっとその遊具の中へ入っていく。わけがわからず。俺は遊具の外で立ち尽くす。なんのつもりだ?
「先輩、もしかしてまだ酔ってます?」
「いや、大分吐いたから気分は最悪だけど酔いは醒めてるわ。そんな事はどうでもいいでしょ。さっさっと入って来なさいよ。『奴』が来るでしょうが」
しぶしぶ、言われるままにその遊具の中に入る。中はほとんど真っ暗で外の街灯からのわずかな明かりのおかげ辛うじて完全な闇を免れている。というかこんな所に入って何をしようというのだ。こんな所にいてもし、あの女がここについてきたら最悪以外の何物でもない。ホラー映画ならこんな所に籠も
るなど死亡フラグである。
「はい、これ」
そんな事を考えていると先輩から俺は何かでかい短冊のような物を数枚渡される。
「何っすか。これ」
「それを舐めて」
一瞬、というかさっきからずっとわけが分からないが、なんなんだこの状況は。
「はい?」
「いいから! 札の裏側を切手みたいに舐めるの。後で説明するから」
先輩はきょとんとする俺に若干、いらついたのだろうかそれともなにか焦ってるのか? 少し、語気を強める。
その短冊はよく見ると文字のようなものが書かれていた。とにかく俺は言われるままに短冊の裏側を舐める。紙質はまるでザラ半紙を舐めているようでザラザラとしていて舌触りはかなり不快だった。
先輩は俺が舐めたその短冊を受け取ると素早い動作で遊具内側にセロハンテープで貼っていく。全部で四枚、四方向にその短冊を貼り終えると軽く息を吐き、ゆっくりと座りこむ。大した事はしていないのになんか一仕事終わったような達成感で満ちた表情だな。とりあえず一安心と思っているのは先輩の様子で分かるが一体、何をしたんだろう。
「先輩。これ何っすか?」
「結界だよ。見れば分かるでしょ?」
いや、そんなさも当然のように言われても。普通は分からねぇだろ。っていうか『結界』って……またかよ。この人達と付き合っていると普通、人生を歩んでいてほとんどの人が日常会話では一生、使うことのないような単語をよく耳にする。
「マジっすか」
「今さらマジもなにも、あんた、学習能力ないわねぇ。まぁ活動内容が内容だけにね。こういう簡易式だけど結界用の札が部員全員に支給されてるの。樋口君にももう少ししたら渡されると思うよ」
「使う日が一生来ないことを祈ります。それより効き目ちゃんとあるんですよね?」
「それは大丈夫。実証済みだし、まぁ初めてのあんたにとっては不安だろうけどね。その点は安心していいよ」
そう言われれば信じるしかないが、やはり不安な気持ちは拭いきれない。気を紛らわすため会話を続ける。
「さっき見つかったって言っていた今回の怪異の詳細教えてもらっていいですか。少し、気になるんで」
「いいわよ」
先輩はそう言いながら、ノートパソコンを膝の上に乗せると再び開ける。画面から放たれるの青白い光が先輩の顔を怪しく浮かび上がらせる。今のところあの不気味な女が周辺いる気配はない。結界が効いているのだろうか。
「正式名称は不明だけど一部の人、もしくはうちの部の報告書では『オイヤミさん』と呼称しているみたい。特徴はやはりあんたが言っていた異様な口元と異臭。で、基本動作は追尾する事。家の中までついて来られたり、被害者の関連性不明の事故死なんかも報告されているわ。正体は報告が近年に限られ
ている点から達の悪い徘徊型の霊と推測。以上が今回の怪異に関するざっとしたデータだ」
そんなものに遭遇した自分の運命を呪いたくなる。
「で、どうするんですかこれから。こんな所に籠もってしまって。次の手だてとかは」
「ないわよ」
「えっ」
一瞬、冗談だと思い込みたかったが先輩の真顔からどうやら本気らしいという空気が伝わる。
「ここに籠もって、朝まで籠城大作戦よ。残念ながら撃退方法までは書いてなくて。もし家の中にまでついてこられても嫌だし、朝まで待って消えるのを待ちましょうってわけ。君には災難になってしまったな。すまないな。私が呼び出したばかりに」
全くである。がこれもまた桜沢、そしてこの部に関わってしまった宿命なのかもしれない……と無理矢理自分を納得させようとしたがやっぱり無理だ。
「いいっすよ。もうあきらめましたから」
ちょっとイライラしている自分に少し自己嫌悪。
先輩は悪くないんだから落ち着け俺。いや、そりゃ確かに行動としては悪いけどこの状況は霊のせいだから……
なんていうかこういう状況でなければ女子と暗がりで二人っきりなどなど男性ならば誰もがドキドキする展開だろうに。
何者がこの遊具の周囲を歩いている足音が静かにそして大きく俺の鼓膜にこだまする。漂う腐臭はその足音の正体があいつである証左だ。やはり来たか。
「神馬さんか桜沢に連絡は?」
焦る俺の頭の中で考えられる一手はその手の事に詳しそうなこの二人に助けを乞うくらいしか思い浮かばなかった。
「今、試しにやってみてるけどやっぱりダメね。あの二人あまり携帯電話に出ない人だから。とりあえずメールは入れといたけど」
携帯電話の意味ねーと心の中でため息と共に呟く。
先輩の肩越しにある遊具の穴が視界に入る。再び体が硬直。
ああっ正面からモロに見てしまった。俺の瞳に映ったそれはおぞましい笑みを浮かべ禍々しい瞳で俺を睨みながら静かにたたずんでいた。