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十師団物語

森の中間管理職は、彼に会いたい理由をごまかせない

作者: 降月
掲載日:2026/11/03

これは「沼から拾った騎士さまは、金ですか?鉄ですか?」(https://ncode.syosetu.com/n7851mx/)の続編となっていますが、違う主人公で、これ単体で楽しめるものとなっています。

◇◇ 書状の相手が目の前にいる ◇◇


 他人の恋ほど、おもしろいものはない。


 緑の師団の副師団長、ミナ・コケモモは、ずっとそう思ってきた。


 緑の師団は、王宮の背後の崖の上に広がる森を守っている。森の奥の村では、木の上にも家を建てて暮らし、街へ下りる者は少ない。


 去年の初夏にも、部下の家の入口に腰を下ろして、沼から拾った騎士さまは金だった、鉄だった、とからかった。泥でした、と言い返されて、そこから落ちそうになるほど笑った。


 その部下のノラ・クレメントは、この春に、樹上の見張りや伝令を担う梢隊(こずえたい)の隊長になった。ミナの持っていた最年少の記録を、あっさり破ってである。夜には石板を抱えて、黄の騎士への手紙を練っている。


 おもしろい。実に、おもしろい。ただ、このごろは笑いやんだあとの枝の上が、妙に静かだった……。


 ノラが実りの宴で騎士に手紙を渡してから、もうじき一年になる秋の朝、ミナは千樹の森(ちぎのもり)の西の外れを、崖の端まで見回りに出た。村の勘定と書状ばかり見ていると、じっとしていられなくなるのだ。


 森はそこで、いきなり切れる。足もとから風が吹き上げ、はるか下に、王宮の裏の屋根と長い石の壁が見える。この崖を王の背(おうのせ)という。紫の師団は森の者が上から王宮を眺めるのを好まないから、いつもは長居せず、さっさと引き返す。


 その日は、引き返せなかった。


 崖に面した壁の足場を、職人たちが石を担いで上り下りしていた。その真ん中に、背の高い男が立っている。


 濃い紫の長衣を着ているのに、袖を肘の上までまくって、裾を帯に挟んでいる。日に焼けた腕が、壁の石より濃い色をしていた。伝令のタムが言っていた。紫の副師団長は、袖をまくったまま王宮を歩いて、儀典寮に叱られているのだという。


「カイの親方! 日のあるうちに、上の段まで積んじまいましょう!」


 下からの声が、崖に当たって返ってきた。


 男はすぐには答えなかった。足場の横木に片足を乗せて踏み、しゃがんで、縄の結び目を一つ引いた。それから顔を上げずに言った。


「まだ上げるな。この結びを直してからだ」


 低く平らな声だった。大きくはないのに、崖の上までちゃんと届いた。職人が何か文句を言うのを聞き流して、男は結び目を自分で解き、結び直し、もう一度体重をかけて揺すった。


 カイ・ロスマン。五年も書状をやりとりしてきた相手だった。


 他の師団の返事は、たいてい「森の副師団長殿」で始まる。この男だけは、初めから「ミナ・コケモモ殿」と書いてきた。最初の返事には、材の本数に続けて、こんな一行が添えられていた。


 ――運ぶのは何人か。


 材の本数だけでなく、運び手の人数まで気にかける紫の者がいるのかと、ミナはあのとき紙を裏返して見たものだった。裏には何も書いていなかった。


 顔を合わせたことは一度もない。去年、坑道の火事の検分に来たときも、行き違いになった。どんな男かは、書状から思い描くしかなかった。


 思っていたとおりだった。でも思っていたより、ずっと背が高かった。


 次に頭に浮かんだのは、去年の自分の台詞だ。金だった? 鉄だった?

 金ではなさそうだった。鉄とも、どこか違う気がした。


◇◇ 会う口実より村の屋根 ◇◇


 翌日の昼前、タムが街から紫の師団の書状を持って戻った。


  ミナ・コケモモ殿

  崖側の壁の裏が、思ったより傷んでいた。足場と支えの材を急ぎ頼みたい。杉の角材四十本、板百枚。雪の前に上の段まで積み終えたい。

  運ぶ人数が分かれば、荷馬車を合わせる。

  カイ・ロスマン


「ああ、あの足場か」


「え?」


「なんでもない」


 ミナは筆を取り、三日後に山道の下で引き渡すと書いた。杉の角材は村の置き場に二十本、弓隊の作業場に十二本、残りは罠師衆が小屋の建て増しにとっておいたものを、頭を下げて回してもらう。二年干した材ばかりだ。


 引き渡しは、いつもなら組頭に任せる。今度は自分で行ってもいい。あの男が来るとは限らないが、行ってもいい。


 その晩、ミナは髪を洗った。


 材が揃ったのは二日後の夕方だった。村の中心には、親木(おやぎ)と呼ばれる古い大樹がある。その北の置き場に覆いを掛けた荷を積み上げ、翌朝の運び手を八人決めた。


 笛が鳴ったのは、その夜更けだ。夜番の短い笛が三度。三度は火だった。ミナは寝床から跳ね起きて、外套もつかまずに吊り橋へ飛び出した。村の西の端で、肉を燻す小屋から赤いものが噴き上がっていて、強い風がそれを枝の上の家々へ運んでいた。樹皮でふいた屋根に、もう火の粉が根を下ろしている。走りながら、自分でも驚くほど通る声が出た。「西の橋を三本落とせ! 渡ってくるのは火だよ! 水の桶は親木の井戸から手渡し! 年寄りと子どもを先に下ろしな!」 ノラ隊長の梢隊が闇の中を枝から枝へ渡って、燃え移りそうな枝を片端から切り落とす。下では弓隊が落ちてきた枝に飛びついて水をかける。背負った婆さんに耳もとで「針箱を忘れた」と怒鳴られながら縄を下り、また橋を駆け戻り、桶を受け、気がつくと空の端が白んでいた。


 火は消えた。親木には届かなかった。


 死んだ者はいなかった。火傷を負った者は老薬師のハコベが診ている。焼けた家は、枝の上に四軒、地面に三軒。その七軒の家族が親木の根元に固まって座り、誰も口を開かなかった。乳飲み子を抱いた若い母親が、焦げた毛布を子の頭にかけ直している。


「雨になるよ」


 針箱の婆さんが、海のほうの空を見て言った。


「明日の夕方には、降るね」


 ミナは親木の北へ歩いた。置き場の荷は、覆いの下で少しも濡れずに、きちんと積まれていた。杉の角材四十本、板百枚。


 森には木がいくらでもあるだろう、と街の者は言う。だが切ったばかりの木で屋根を掛ければ、ひと冬で反って割れて、雨が漏る。すぐに使える乾いた材は、この村に今、これしかない。


 ミナは荷に手を置いた。この五年、紫の師団との約束を遅らせたことは一度もなかった。カイ・ロスマン副師団長に、何と詫びればいいのか。今日、山道の下へ行くこともなくなった。髪まで洗ったのに、と思って、ばか、と自分に言った。


 息を三つ数えた。


「タム!」


 タムが煤だらけの顔で走ってきた。


「運びの者を、全部こっちへ回しな。行き先は親木の下だよ」


「え、でもこれ、紫の師団の――」


「あたしが詫びを書く。あんたは板を担ぎな」


 タムが板を担ぎ上げる間に、ミナは紙に短く書きつけた。村で火事があり、約束の材は再建に回すため、本日の引き渡しはできない。詳しい事情と次の便の見込みは、追って知らせる。自分の名を添えて封をし、梢隊の一人に持たせ、紫の師団へ走らせた。


 雨が来る前の晩までに、七軒ぶんの屋根の骨と板が、どうにか組み上がった。釘を打つ音がやんだあと、ミナは灯の下で紙を広げた。


 貴重な紙を三枚使って、書状を書き直した。火事のこと。材を自分の判断で村へ回したこと。村の外から乾いた材を集め直し、半月後に半分、残りはひと月後に届ける見込みであること。言い訳に見えるところは消して封をした。


 雨の降る中、タムは書状を届けに街へ下りた。カイの返事を持って村へ戻ったのは、三日後だった。


  ミナ・コケモモ殿

  事情は承知した。村の屋根を先に。こちらは手順を変える。次の便で、用意できる分を知らせてくれ。

  カイ・ロスマン


 ミナは紙を裏返した。裏には何も書いていなかった。


 手順を変える、と男は書く。材が届かないのに、どう変えるのか。職人たちに何と言われたのか。そこには一つも書いていない。


 翌朝、再建の現場でノラ隊長と並んで床の梁を上げていると、ノラがぼそりと言った。


「ミナさん。その梁、さっきから三回見てます」


「梁は大事だよ」


「紫の師団の人に謝る話ですか」


「謝ったよ。ちゃんと書状で」


 ノラは釘を一本打って、次の釘を口から取った。


「書いて済むなら、私は一年も石板を抱えてません」


 ミナが顔を上げたとき、ノラはもう次の釘を打っていた。


「……生意気になったね」


「そうですか」


 ミナは梁をもう一回見た。


◇◇ 伝令の支度なのにどうもおかしい ◇◇


 焼けた七軒のうち五軒に壁が立った日の夕方、ミナは緑の師団長であるヴェルデの部屋を訪ねた。


「このごろ、黄とも鋼とも往来が増えたでしょう。これからは梢隊の者が街へ行くことも増える。その前に、あたしが次の伝令として街を見ておきたいんだよ」


 ヴェルデは窓の外の暗い森を見たまま、何も言わなかった。この人は話す前に、必ず間を置く。ミナは黙って待った。指の二本ない右手が、膝の上で一度だけ動いた。


「……村は」


「あと二軒で、壁が済むよ」


「済んでから、行け」


 ミナは頭を下げて部屋を出た。街の様子を見たいのは本当だ。カイに会いたいことは、言わなかった。


 その晩、ミナはカイ・ロスマン副師団長に書状を書いた。次の伝令には自分が行く。街の様子を見るついでに、先日の件で、会って詫びたい。


 返事は三日後に届いた。


  望月の日の昼。王宮の南、噴水広場。


 宛名と名前のほかは、これだけだった。ミナはその紙を読み終えると、着る物の入った箱を開けた。


 箱の底から、若いころに祭で着た薄い麻の上着を引っ張り出して着た。その上にいつもの外套を羽織ってみたが、せっかくの上着が隠れてしまう。外套を脱いで箱の脇に置くと、今度は肩が寂しかった。外套につけている、階級を示す木彫りの葉がないせいだ。それでも外套は置いたまま、髪の緑の飾り紐に手をやった。結び直したが、曲がって見えて、もう一度結び直した。


「ミナ副長、次の便の札なんですけど」


 家の入口から、タムが顔を出した。それから首をかしげた。


「街を見るだけなのに、そんなに支度するんですか」


「街じゃ、こういう格好をするんだろう?」


「俺、いつもこの服ですけど」


 タムは自分の外套の裾をつまんでみせた。雨と埃で、もとの色がよく分からなくなっている。


 ミナは飾り紐に手をやったまま、さりげなく尋ねた。


「それはそうと、紫の副師団長は背が高いのかい。当日、見つけられなかったら困るだろう。公務だから」


「高いですよ。街じゃ頭一つ出てますから、見つけやすいですよ」


 タムは札を差し出しながら、少し不安そうにミナを見た。


「本当に、街を見に行くだけなんですよね」


「他に何があるって言うのさ」


 背中を汗が一筋、流れていった。


「あんた、暇なら山道の倒木を見てきな。今すぐ」


「今から? もう暗いですよ」


「梢隊だろう」


 タムが出ていくと、ミナは箱を閉じた。


◇◇ 謝る前に笑ってしまう ◇◇


 望月の日の朝、ミナはまだ暗いうちに村を出た。


 外套がないと、夜明けの森はひどく冷えた。枝の上ですれ違った若い組頭が、ミナの姿を見て足を滑らせ、樹上で体を支える革の吊り帯でぶら下がったまま挨拶をした。ミナは聞こえないふりをして走った。森の入口の大木を過ぎ、崖の南の端を巻く山道を下り、麓の道を北へ。ここまでは、足が覚えている。


 ところが、王都の家並みに入ると、どちらへ進めばいいのか分からなくなった。


 街では屋根が日を隠し、曲がるたびに同じ色の壁があった。呼び声と鍋を叩く音が四方から来る。橙のロアン副師団長が、街へ下りるなら案内を買って出ると言っていたのを思い出した。断ったのは、誰と会うのか聞かれそうだったからだ。


「噴水の広場? そこを二つ曲がったところだよ」


 魚の籠を持った女はそう言った。三つ曲がっても、噴水はなかった。


 王宮のほうで、昼の鐘が鳴りはじめた。


 ミナは走り出した。人の間をすり抜けるのは、枝の間を抜けるのに似ていなくもない。ただし枝は急に立ち止まらない。水の音が聞こえた。正面に、奇妙な建物の角があった。家の壁が刃物の先のように細く尖って、音のするほうへ突き出している。ミナはその尖った角を回り込み――目の前が、濃い紫になった。


 ミナは横へ跳ねて止まった。相手も長い腕を振って、どうにか踏みとどまる。見上げると、太い眉と日に焼けた顔があった。目尻には、しわが何本か刻まれている。


「カイ・ロスマン!」


「ミナ・コケモモ!」


 声がそろった。


 三晩かけて考えた「過日は当方の都合により」の続きが、出てこなかった。


「あんた、足場に自分で上がるだろう」


 口から出たのは、それだった。


「……なんで知ってる」


 崖の上まで届いた、あの低く平らな声だった。


「見たんだよ。崖の上から。見回りのときに、たまたま」


「顔は見えなかっただろう。それで、なんで俺だと思った」


「袖」


「袖か」


 カイ副師団長は、肘の上までまくった自分の袖を見下ろした。それから言った。


「俺は飾り紐を探していた。今日来ると分かっていたから、朝から広場を三度回った」


「約束は昼だよ」


「三度回った」


 ミナは別の話を切り出した。


「タムが、背の高い男なら見つけやすいと言っていたよ」


「俺は、あんたなら人混みでも平気だと聞いていた」


 タムだ。あの子は両方から聞かれて、両方に答えていたのだ。


「木の間と家の間は、勝手が違うんだよ」


 カイが吹き出した。


 つられてミナも笑った。ふだんの低い声がどこかへ行って、少女のような声が噴水の音の上まで跳ねた。


 ひとしきり笑ってから顔を上げると、カイが笑うのをやめて、きょとんとしていた。


「なんだい」


「いや。書状だと、もっと低い声だと思っていた」


「書状に声がついてるもんか」


「ついていた」


 そう言ってカイは、水盤のそばの腰掛けへあごをしゃくった。


 水盤のそばの石の腰掛けに並んで座ると、ミナは笑いを収めた。


「改めて言うよ。約束の材を、回せなかった。村の者に屋根を掛けるために、あたしが決めた。すまなかった」


 頭を下げた。


 カイは「いいんだ」とは言わなかった。


「足場は予定の半分の規模に組み直した。上の段を待たせて、下の段を先に積んだ。職人を二人、よその現場へ返した。手間賃は余計にかかったし、親方連中には文句を言われた。雪の前に上まで積めるかは、次の便しだいだ」


 ミナは頭を下げたまま聞いた。書状に書かなかったことが、一つずつ出てきた。


「村の屋根は、掛かったのか」


「掛かった。七軒とも」


「雨の前にか」


「前の晩に」


「なら、俺からはもう何もない。頭を上げてくれ。話がしにくい」


 次の便は角材二十本に板五十枚、運び手は八人。顔を上げたミナと段取りを確かめ、カイは荷馬車を二台出すと言った。


 仕事の話は済んだ。どちらも立たなかった。


「あんた、忙しいんだろう」


「忙しい」


 カイは噴水を眺めたまま言った。


「街を見に来る、と書いてあったな」


「書いたよ。公務でね」


「見るか」


◇◇ 書状には書かなかったこと ◇◇


 カイ副師団長の案内は、ひどかった。


 まず広場の真ん中で、足もとの石蓋を指さした。下を水路が五本通っているのだという。


「水路の上を道にしたら、道の間に残った地面が三角になった。そこに無理に家を建てたから、どの家も角が尖る」


「なんであんな変な形なのかと思ったよ。で、この水はどこから来るんだい」


「あんたの所だ」


 カイは東を指さした。屋根の向こうに、王の背が灰色に立っている。その上に、森が細い緑の線のように見えた。街から見るのは初めてだった。


「森に降った雨が、崖の中を抜けて王宮の水路へ落ちてくる。落ちた分の勢いで、ここで上がる」


 ミナは振り返って、自分の背丈の倍まで上がっている水を見た。


「へえ。あれ、うちの雨かい」


「雨だけじゃないがな」


「村じゃね、師団を抜けて街で暮らすことを、街に落ちるって言うんだよ」


「落ちるのか」


「木の上から見ればね」


 カイは水を見て、ふうん、と言っただけだった。


 次に連れて行かれたのは、百年前の石積みだった。その次は、百五十年前の石積みだった。通りかかった店の前で、女たちが楽しそうに出入りしているので、あれは何の店かと尋ねると、カイは少し考えて答えた。


「布屋だ」


「中はどうなってるのさ」


「入ったことがない」


 ミナは笑って、今度は看板の絵を尋ねた。カイは答えられることには答え、分からなければ「知らん」と言った。いつもの書状と同じ調子だった。


 昼を食べそこねていたので、カイが屋台で蜂蜜を塗ったパンを二つ買った。受け取るとき、ミナはカイの左手を見た。親指の付け根から手の甲へ、白く盛り上がった古い傷が走っている。


「それ、どうしたのさ」


「十二のときだ。親父ののみを打ちそこねて、槌が左手に当たった」


 父親は王宮の石工で、少年のころから補修についていったという。五年前に副師団長となった今も、貴族の幹部たちには職人上がりと呼ばれる。カイはパンをかじりながら、壁の話をするときと同じ声で語った。


 ミナは蜂蜜のついた指をなめて、傷からゆっくり目を離した。


 路地を抜けたところに、板屋があった。立てかけた杉板の前で、ミナの足がひとりでに止まった。一枚、指で叩く。もう一枚、端を持ち上げて、目の高さから反りを見る。


「これ、乾かしが足りないよ。来年の夏には反るね」


 奥から店の主人がにらんでいる。腕を引かれて路地の先まで連れて行かれてから、カイが笑いだした。


「街に出ても、村のことを考えているんだな」


「あんただって、さっきから壁ばかり見てるじゃないか」


 二人は川のほうへ続く緩い坂を歩いた。日が、少し傾いてきていた。


「三年前の夏だったな」


 カイが不意に言った。


「引き渡しを朝から日暮れ前に変えてくれ、と書いてきたことがあった。暑い盛りに山道を担ぎ下ろすと、運び手が倒れるから、と」


「……そんなの、よく覚えてるね」


「あれで荷受けの人足の順を全部組み直したんだ。忘れない。紫の中で、運ぶ者の足の話を書いてくる奴はいないからな」


 ミナは少し歩いてから、言った。


「あんたが先だよ。最初の書状で、本数の下に、運ぶのは何人かって書いてきた。あたし、紙を裏返したよ」


「なんで」


「裏に、別の人の字があるかと思ってさ」


 カイの口元がゆるんだ。ミナは前を向いたまま、ずっと聞きたかったことを尋ねた。


「みんな、森の副師団長殿って書いてくるんだ。あんただけ、最初から名前で書いてきた。なんでだい」


「あんたが名前を書いて寄越したからだ」


 カイは、それがどうかしたのかという顔をしていた。


「書いてある名を、書かない理由があるか」


 ミナは返事をしなかった。坂の下を流れる水の音が、やけによく聞こえた。


 崖の麓へ向かう道の入口まで、カイは送ってきた。夜のうちに村へ戻るには、そろそろ発たなければならない。日は王都の屋根の向こうへ落ちかけて、カイの顔の半分を赤くしていた。


「次の便は、三日後だな」


「ああ。山道の下で」


「ミナ・コケモモ」


 カイは、書状に書くときと同じように呼んだ。


「次も、詫びがないと会えないのか」


 ミナは口を開け、また閉じた。袖をまくった腕に夕日が当たっている。カイは急かさずに待っていた。


「次は、あたしが会いたくなったら知らせるよ」


「分かった」


 それだけ言って、カイはうなずいた。


 ミナは麓の道を歩き出した。振り返らないつもりだった。三十歩ほど行って振り返ると、背の高い影はまだそこに立っていて、片手を上げた。


◇◇ 今度は自分の望みを書く ◇◇


 樹の村に戻ったのは、その夜更けだった。


 ヴェルデ師団長の部屋には、まだ灯がついていた。ミナは薄い麻の上着のまま、吊り橋を渡って部屋に入り、師団長の前に立った。


「この前の願いだけど、理由が一つ足りなかった」


 ヴェルデは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。


「……足りんとは、思っていた」


「嘘じゃないよ」


「分かっている」


 ミナは足に力を入れた。火事の中でさえ、声を出すのにこれほど力は要らなかった。


「あたし、これからも街へ出たい。公務でね。でも、公務とは別に、紫のカイ・ロスマンに会いたい。あたしが会いたいんだよ」


 ヴェルデの指の欠けた右手が、膝の上で動かなくなった。今度の間は、いつもより長かった。


「おまえの口から、屋根と橋と材のほかの話を聞いたのは、いつ以来だろうな」


 ミナは考えた。思い出せなかった。


「村の仕事をおろそかにするな」


「しないよ」


「ならば、行け。……寒かろう、その服は」


 自分の家へ戻る橋の途中で、ミナはくしゃみをした。


 それから、ひと月あまりがたった。次の便も、その次の便も、ミナは自分で山道の下まで運び、カイ副師団長は荷馬車についてきた。街へ公務で下りる用も、なぜかそれまでより増えた。会えない日は、書状がその間を埋めた。材の本数のあとには、仕事以外のことも書き添えられるようになった。


  次の杉は真っすぐでよかった。上から二段目まで積んだ。親方連中が文句を言わなくなったのが、かえって気味が悪い。


  七軒とも床が張り終わった。西の端の婆さんが、もう新しい家に文句を言っている。


  それは何よりだ。あんた自身は休めたのか。


 ミナは、最後の一行を読んだまま、しばらく動かなかった。


 村で聞かれるのは、床はいつ張れるか、冬の塩は足りるか、である。返事を書きかけて、三晩、筆が止まった。紙が足りなくなってノラ隊長のところへ行くと、ノラは自分の紙を半分にちぎって差し出し、何に使うのかとも聞かなかった。その黙り方が、聞くよりもよほど腹立たしかった。


 結局、自分が休めたかどうかは、書状には書かなかった。


 晩秋の曇った日、街へ下りたミナは、用を済ませると、王宮の崖側の現場まで歩いていった。足場の下の石に腰を下ろした。日が暮れかかるころ、最後に足場を下りてきたカイ副師団長が、ミナを見つけて足を止めた。


「いつから居た?」


「あんたが三度目に結び目を確かめたあたりから」


「声をかければいいだろう」


「仕事の途中の男に声をかけるのは、村でも嫌われるんだよ。昼は食べたのかい」


 カイは少し考えた。その顔で、答えは分かった。


「だろうと思った。あんた、あたしに休めたのかって聞いたね」


 ミナは立ち上がって、外套の裾を払った。今日はいつもの外套だった。


「あたしから聞くよ。あんたは休んだのかい。ご飯に行くよ。店はあんたが選びな。布屋はだめだよ」


 カイが連れて行ったのは、石工たちが通う煙たい店で、豆と塩漬け肉の煮込みしか出てこなかった。カイは二杯おかわりをして、途中で匙を持ったまま眠りかけた。ミナは起こさなかった。向かいの席で、麦酒を少しずつ飲みながら、その頭のかくりと落ちるのを数えていた。


 初雪の匂いのする朝に、最後の石が積まれた。


 足場をばらす日、ミナは現場を訪ねた。組み上がった壁は崖の影の中で、継ぎ目がどこか分からないほど静かに立っていた。カイ副師団長は壁を一度叩いて、それから懐から折りたたんだ紙を出した。


「見てくれ」


 開くと、二階建ての小さな家の図面だった。読み方は、この男の書状で覚えた。


「親父の家だ。石工町にある」


「それが、どうしたのさ」


 カイは二階の東の壁を指さした。そこだけ、新しい線が引いてあった。


「ここに窓を開ける。東を向いているから、崖の上の森が見える」


「なんであたしに、その図面を見せるんだい」


「あんたが住むからだ」


 風が、紙の端を揺らした。


「ミナ」


 書状には一度も書いたことのない呼び方だった。


「一緒に暮らしたい。嫁に来てくれ」


 カイは壁の話をするのと同じ声で言った。ただ、図面を支えている指に、余分な力が入っていて、爪の先が白くなっていた。


「あたし」


 うれしい、と言いかけて、ミナは息を止めた。


「あたしには、村の仕事があるよ。冬囲いの勘定はあたしの頭の中にしかない。屋根の釘も春に打ち直す。書状の相手も、十いくつある。渡せる相手を育てなきゃ、やめるなんて言えない。やめたあとだって、村で火が出たら、夜中でも走って帰るよ。そういう女だよ」


「だろうな」


「だろうなって、あんた」


「知っている。屋根を先に、と書いたのは俺だ」


 カイは図面を持ったまま、壁を見た。


「石は急がせると崩れる。引き継ぎが済むまで待つ」


 ミナは、自分の手が紙の端を握りしめていたのに気づいて、指をゆるめた。それから図面の二階をのぞき込んだ。


「あたし、地面の上で眠ったことがほとんどないんだよ」


「だから二階だ」


「窓の枠に座って、足をぶらぶらさせるよ」


「枠の石を厚く取る。あんたの体なら乗っても割れん」


「それから、何もしないでいるのは無理だね。街で何をすればいいのさ」


「王宮の修繕をする造営方には、材の目利きがいない。この前も乾かしの足りん板をつかまされた」


「あの板屋だろう」


「あの板屋だ」


 ミナは笑いかけて、やめた。まだ一つ、言うことがあった。


「村に帰りたくなったら、帰るよ」


「ああ。戻ってきたら、話を聞かせてくれ」


 ミナは図面を丁寧に折りたたみ、カイに返した。それからカイの左手を取った。親指の付け根の傷に、自分の親指を当てる。硬くて、乾いていて、思ったより熱かった。その手が、かすかに震えていた。


「分かったよ。嫁に行く」


 カイが息を吐いた。長く吐いて、握られた手を握り返してきた。石を割る力加減を、よく知っている手だった。


「震えてるよ、あんた」


「寒い」


「寒くないよ」


「黙っていてくれ」


 ミナは、親木の上まで届きそうな声で笑った。


◇◇ 街に落ちる副師団長 ◇◇


 冬至の少し前の晩、ミナはヴェルデ師団長の部屋で、退団と嫁入りの願いを正式に述べた。


 話は長くかかった。とはいえ、話したのはほとんど引き継ぎのことだった。春までに何をどこまで渡すか。書状の相手の癖。冬囲いの勘定。そして、後を誰に任せるか。ヴェルデが何度も間を置き、その間にミナは名前を一つ、繰り返した。字は遅いよ、それは承知の上だよ。でもあの子は、沈んでいる人がいたら、頼まれなくても縄を下ろすよ、と。部屋の灯が消えたのは、夜が白みはじめてからだった。


 その朝、ヴェルデ師団長は村にいる全員を親木の下の広場に集めた。


 雪がちらついていた。地面も吊り橋も枝の上も、緑褐色の外套でいっぱいになった。ヴェルデは親木の根に立ち、いつものようにしばらく黙っていた。


「残念な知らせと、いい知らせがある」


「まず残念な知らせを!」


 後ろのほうで誰かが言った。


「うむ。残念な知らせだが」


 また、間があった。


「ミナが、街に落ちる」


 広場がどよめいた。ヴェルデが次の言葉を継ぐ前に、タムの声が飛んだ。


「どうしてですか!」


 人をかき分けて飛び出してきたタムの顔は、真っ赤だった。


「ミナ姉さんが街に落ちるなら、俺も行きます! 俺が、姉さんを幸せにします!」


 拍手が起こった。ミナ姉さん、とは、見習いの「若葉」だったころの呼び方だ。ずっと「ミナ副長」だったのに。ミナが声を出すより先に、ヴェルデが口を開いた。今度ばかりは間がなかった。


「そうじゃないんだ、タムよ。ミナは嫁に行くんだ」


 さっきの倍のどよめきが来た。


 タムの膝が折れた。雪の上に、そのまま崩れた。


 ミナはタムの前にしゃがんだ。タムの頭に雪が一つ、落ちて溶けた。


「ありがとね」


 タムが顔を上げた。


「でも、一緒に暮らしたい相手は、あたしがもう決めたんだ」


 タムの口が何度か動いた。


「……紫の、副師団長ですか」


「そう」


「俺、あの人に、ミナ副長の飾り紐のこと、教えちまった。どんな人だって聞かれて」


「知ってるよ。あたしも、あんたにあの人の背丈を聞いたからね」


 タムは雪に額をつけた。周りから、遠慮のない笑いと、肩を叩く手がいくつも降ってきた。


「いい知らせは」


 ヴェルデの声が戻ってきた。広場が少し静まった。


「今の知らせと、もう一つ。次の副師団長に、ノラを任命する」


 また、おお、と声が上がった。枝の上にいた小柄な隊長が、吊り帯ごとずり落ちかけた。


「そ、そんな、私に務まるわけ――」


 ミナは立ち上がって、ノラを見上げた。


「また、あたしの最年少任命記録を破られちまったよ」


 にやりと笑うと、ノラ隊長は真っ赤になって黙った。


「ミナよ。街に落ちるまでに、副師団長の務めをノラに叩き込め。……以上だ」


 引き継ぎは、冬じゅうかかった。ノラ隊長は、字を書くのは相変わらず遅かった。一方、書状は丁寧に読み、読み飛ばしがなかった。勘定を教えると、二度目には間違いを見つけるようになった。ミナは毎朝、枝の上の自分の家でノラに書状の書き方を教え、合間に荷物を少しずつまとめた。


 芽吹きまであとひと月という朝、書き物をしているミナの家の入口が、ふっと暗くなった。


「ミナさん、起きてますか」


「起きてるよ。見れば分かるだろう」


 ノラ隊長は入口に腰を下ろし、高い枝の上で足をぶらぶらさせた。


「紫の師団からの書状の束に、こんなのが混ざってました」


 ノラは紙を一枚、ひらひらさせた。ゆうべのうちに読み終えてきた顔をしていた。


「『窓枠の石は厚く取った。座り心地は、あんたが確かめてくれ』。これ、何の勘定ですか」


 ミナの筆が止まった。墨が一滴、落ちた。


「返しな」


「副師団長の仕事だと教わりました。紫の師団からの書状は、全部読めと」


「返しな、ノラ」


 ノラは紙を返さず、身を乗り出した。見覚えのある、にやにやした顔だった。誰が教えたのか。


「噴水で拾った副師団長は、金でしたか。鉄でしたか」


 ミナは筆を置いて窓の外を見た。耳の先まで熱かった。


「……石だよ」


 ノラは手を叩いて笑い、入口から体が大きく傾いた。


「落ちるんじゃないよ、隊長」


「次の副師団長です」


 ノラは笑いながら言い、紙をミナの膝に置いた。


◇◇ 待ち合わせの続き ◇◇


 春分の芽吹き祭が終わった翌朝、ミナは村を出た。


 いつもの外套と肩の葉の飾りは、前の晩のうちにヴェルデ師団長へ返してあった。髪の緑の飾り紐だけは私物だから、そのままだ。今朝は一度で結べた。


 広場から吊り橋まで、村の者が鈴なりになっていた。ノラ副師団長は肩に三枚の葉をつけて親木の前に立ち、怒ったような顔でミナを見ている。


 ミナは鼻の奥がつんとした。腹の底から息を吸った。


「屋根の釘は、この春のうちに打ち直しな! 燻し小屋は、風の日に火を入れるんじゃないよ! 紫の師団の書状には、三日のうちに返事を書く! スグリ! その枝は細い、走るな!」


 よく通る声が森に響いて、鳥が飛び立った。誰かが笑って、誰かが鼻をすすった。


「あとは任せたよ!」


 それで、言うことは終わりだった。


 ヴェルデが親木の根を下りてきた。ミナは足を止め、いつものように待った。


「……帰る道は、覚えておけ」


「忘れるもんか」


 ヴェルデは指の欠けた右手を、葉のように広げた。ミナも手のひらを広げて応えた。それから背中を向けて、もう振り返らなかった。


 タムが荷物を担いで、山道の下までついてきた。荷物といっても、背負い袋に少しの衣と、近況の書き添えられた書状の束だけである。タムはいつもの色の分からない外套を着て、ずっと黙っていたが、麓に着いてから急に言った。


「俺、月に二度は街に行きますから」


「知ってるよ」


「これからは、俺が村の話を持っていきます。今度は、ミナ副長が街の話をしてください。……あ、もう副長じゃないのか」


「そうだね」


「じゃあ、なんて呼べばいいんです」


「あんたが決めな」


 タムは担いでいた背負い袋を下ろし、ミナに渡した。それから、しばらく考えていた。


「ミナ姉さん」


 そう言って、照れくさそうに笑った。街道の宿場へ向かうその背中が、木立の向こうに見えなくなるまで、ミナは見送った。


 王都の家並みに入っても、ミナの足は迷わなかった。


 あの魚の籠の女がいた角を過ぎる。布屋の前を過ぎる。一度だけ、あの人を無理やり押し込んで一緒に入った店だ。あの板屋の前で、立てかけた杉板を横目で見て、口を出すのは明日にしようと思う。走らなかった。昼の鐘には、まだだいぶ間があった。


 水の音が聞こえてきた。


 刃物の先のように尖った家の角が、正面に見えた。ミナはそれを、今日はゆっくりと回った。


 広場が開けた。森に降った雨が、春の日の中を、ミナの背丈の倍まで噴き上がっていた。


 水盤のそばに、カイ副師団長が立っていた。


 紫の長衣の袖を、肘の上までまくっていた。約束は昼だというのに、朝から何度この広場を回ったのか、靴がうっすらと白く埃をかぶっている。人混みから頭一つ出たカイがこちらを向き、ミナの髪の緑の飾り紐に目を留めた。


 カイは歩いてきて、左手をぎこちなく広げた。手のひらを葉のように。ミナが教えた緑の挨拶だ。葉にしては、ずいぶんごつごつして大きかった。


 ミナは荷物を背負い直して、その手を取った。親指の付け根に、硬い傷があった。


「待たせたね」


「引き継ぎは済んだのか」


「済んだよ。今日は、あたしの用事で来た」


 カイの手が、ゆっくりと閉じた。


 二人は噴水に背を向けて、東へ歩き出した。屋根の向こうの崖の上に、細く緑の線が見えていた。二階の窓は、もう開いているはずだった。


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「沼から拾った騎士さまは、金ですか?鉄ですか?」(https://ncode.syosetu.com/n7851mx/)をまだお読みでない方は、そちらもどうよろしくお願いします。

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