後編
第三子を産んだ直後のことだった。
部屋には静かな緊張が満ちていた。厚いカーテン越しの光はやわらかい。医師と侍女が控え、乳母が赤子を抱いていた。
扉が開き、夫が入ってくる。
「旦那様、奥様も坊ちゃまもご無事でございます」
乳母が一歩前に出る。夫は何も言わず、赤子を覗き込んだ。
長い沈黙。
赤子の髪は淡い銀色だった。私と同じ色。瞳も、同じ灰銀。
私は息を詰める。
――私に似ている、と。
その言葉を待っていた。
「……彼女によく似ているな」
胸がほどけかける。
「誰に、ですか」
私の声は静かだった。
夫はすぐに答えない。ほんの一瞬の逡巡。そのわずかな間に、何かが音もなく崩れる。
姉の名は出ない。それでも、誰のことかは分かった。
腹の奥が冷える。
私はゆっくりと身体を起こした。傷が軋み、視界が揺れる。それでも背筋を伸ばす。
「その子は、私が産みました」
静かに告げる。
「十月、腹に抱きました」
侍女が息を呑む。
「この髪も、この瞳も、私と同じです」
赤子の頬に触れる。震えそうになる声を押さえ込む。
「祝福を受けたのは、私です。あなたの妻は、私です」
一歩踏み出す。足元が崩れそうになる。それでも立つ。
「それでもなお、我が子に他の女を見るのですか」
沈黙。
夫は目を伏せた。
「……すまない」
それだけ言って、背を向けた。
逃げるように。
扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
◇
数ヶ月が過ぎた。
私は公の場に立たなくなった。出産で身体を損ねたということになっている。
実際には、夫の視線が私を通り抜けることに耐えられなかった。
祝福の日、庭園に立っていた花嫁は私だった。
皆が姉だと思い込んだ光景の中で、水晶が映していたのは確かに私だった。
私はそれを誇りにしていたし、
あの瞬間、ようやく姉の背に隠れずに立てたのだと思っていた。
選ばれたのは私であり、祝福は正しかったのだと、心から信じていた。
けれど、夫の中ではあの花嫁は今も姉のままだ。
夜、扉が開くことはあっても、以前のような温度は戻らない。視線が交わっても、そこにあるのは現在ではなく、過去だ。
私と過ごした年月は確かに積み重なっているはずなのに、彼のまなざしはそれを越えて、あの日の礼拝堂へと戻ってしまう。
ある夜、私は問うた。
「……私は、間違っていましたか」
夫はしばらく黙っていた。
「祝福は正しい。相手は君だ。間違っていない」
嘘ではない。その言葉は私を否定しない。
「だが」
夫は遠くを見るような目をした。
「あの日、礼拝堂で彼女が立っていた。
祝福が確認されなかったと告げられても、私は、まだ彼女がそこにいる気がしていた」
その声は、あまりにも静かで、あまりにも真実だった。
神に捧げられ、もう会えない姉。
確かめることも、否定することもできない存在。だからこそ、彼の中で姉は永遠にあの瞬間のままなのだと分かる。
庭園で微笑み、祝福の光に包まれた姿のまま、時を失わずに留まり続けている。
私はここにいる。
同じ屋敷で息をし、
同じ名を背負い、あなたの子を抱き、
同じ時間を過ごしてきた。
それでも、あなたが守り続けているのは私と生きた日々ではない。
失われた、たった一度の光景だ。
祝福は、私を選んだ。水晶が映した花嫁は、確かに私だった。あなたの妻は私であり、その事実は揺らがない。
それなのに、あなたの心は私を選ばない。
間違ってもいない。祝福も正しい。
だからこそ、この結婚は終わらない。
祝福された婚姻は、どちらかの死が訪れるまで解かれない。
私がどれほど悔しくても、あなたがどれほど過去に囚われていても、解かれない。
それまでは、私はあなたの妻だ。
あなたの隣に立ち続ける。あなたが、あの日の銀髪の少女を胸に抱いたままでも。
祝福は正しい。
正しいからこそ、逃げ場がない。
私は、祝福されたまま、生きる。




