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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo9:小鳥の降りる窓辺

 筋肉痛だ。牢内に入るアリセルの足取りは、ヨロヨロと頼りなく、その顔はげっそりしていた。昨日、水の入った袋を担ぎ、階段を何往復もした疲れが今朝になって出てきたのだ。

「おはようございます、ルネ様」

 蚊の鳴くような声で告げてから、アリセルは牢内へ足を踏み入れた。ルネは壁にもたれかかり、膝を抱えていた。見慣れたはずの光景がどこか違って見えたのは、ルネの身が清められ、整った衣服に包まれていたからだろう。そして何より顔を伏せていなかった。

 伏目がちなまま、ぼんやりと石床を眺めている。

 アリセルは窓を一つ一つ開けていく。少しの動作でも全身に鋭い痛みが走り、無意識の内に眉間に皺が寄る。この状態では、今日は簡単な作業しか出来なさそうだ。労力を要する作業は早々に諦める事にした。

「いたたた……」

 ルネの隣に座り込みながら、アリセルは思わず呻いた。

「ユーグは今日お仕事なんだって。ユーグも筋肉痛になってなければ良いけどなあ」

 呟きは特にルネに聞かせるという訳でもなく、独り言に近かった。ユーグは普段、何でも屋として生計を立てている。今朝、隣人の牛が産気付いたとの事で呼ばれたため、一緒に来られなかったのだ。

 アリセルは編み籠から布に包まれたクッキーを取り出した。半分に割り「食べますか?」とルネに差し出す。聞こえているのかいないかすら分からないルネに、しかしアリセルは気にする事なく、クッキーの半分を一齧りした。今朝は起きるのもしんどくて、朝食を食べてこなかったのだ。さくりとした軽い歯触りのあと、じんわりと甘さが広がる。中に練り込まれたドライフルーツが弾け、酸味と果実の香りが舌の上に残った。噛むほどに小麦の風味と優しい甘さが溶け合い、疲れた身体を癒してくれるようだった。片方の手に残った半分のクッキーを見つめてから、ルネを見遣る。

「クッキーとっても美味しいのに! こんなサクサクで美味しい焼きたてクッキーを食べないなんて人生、損していますよ?」

 敢えて発破をかけるように、大袈裟に言ってみる。だが返ってきたのは、見事なまでの無反応だった。なんだか一人ではしゃいでいるようで、居た堪れなくなってきた。アリセルは軽い咳払いをして、残りのクッキーを口にする。もぐもぐと最後の一口を飲み込み、唇についた欠片をぬぐってから、ルネの顔を覗き込むように首を傾けた。

「ルネ様、今日は髪の毛切りますね。昨日のお風呂よりは大変じゃないから心配はいらないけど、失敗したらごめんなさい」

 語尾がやや物騒になってしまったのは、知人の前髪を切り過ぎて、惨事となってしまった前科があるからだ。

 編み籠から取り出した鋏と櫛は、母から譲り受けた手入れ道具だった。どちらも使い慣れたもので、持ち手の木には唐草模様が彫り込まれている。鋏と櫛を石床の上に並べた後、薄手のリネン布を取り出した。ルネの背に回り、そっと布を肩に掛ける。はだけぬよう、前へまわした端を胸元で結び留めた。

 支度を終えたアリセルは櫛を手に取り、ルネの髪に静かに滑らせた。彼の髪は肩の下まで伸び、ぼさぼさに乱れていた。毛先は乾ききってばらつき、所々絡まっている。櫛の歯が引っかかるたびに、アリセルは指先でほぐしながら整えていく。絡まりが取れると、鋏に手を伸ばす。

「いきますよ」

 覚悟に満ちた固い声でアリセルは言う。仮にもかつて王子だった人物の髪を切る以上、失敗は許されない。というか、失敗したらきっとユーグに大笑いされる。髪の一束をつまみ上げ、鋏の刃を慎重に添える。角度を確認し、深呼吸を一つ。しゃり、と切れた毛先が落ちるのを見届けてから、ほんの少しだけ安堵の息を吐いた。

 思ったより上手くいった――ような気がする。だが油断は禁物だ。左右の長さを見比べ、少し切っては止まり、また切っては首を傾げる。アリセルは黙々と手を動かし続けた。

 切り進めるうちに、ルネの髪にはわずかに癖があることに気がついた。まっすぐに見えていた髪が、切り揃えても微妙に跳ねる。何度か微調整を繰り返し、ようやく首筋が見える程の長さに落ち着いた。横から眺めてみると、まあまあ真っ直ぐで、左右の長さにも大きな差はない。

 アリセルは鋏を置き、小さくひと息ついた。目に見えて分かるような失敗はしていない。それだけで十分だった。

 散らばった髪を払い落とし、小さな鏡を取り出した。鏡面に息を吹きかけ袖で拭いてから、ルネの前に膝をつく。

「……見えますか? けっこう上手く切れたと思うんですけど……多分」

 そう言って鏡を差し出す。顔が映るよう、手元で角度を整えると、切り揃えられた髪と、無表情のままのルネの顔がそこに映った。反応がないまま時間が過ぎていく。アリセルはじっと鏡を持ったまま、小首を傾げた。

「……ほんのちょっとだけ、かっこ良くなったと思うんですけど。気のせいかな」

 言いながら少し不安になり、語尾は自然としぼんでいった。鏡の中のルネが何も反応を示さないのを見て、どこか宙に向かって問いかけているような心持ちになる。とはいえ、ルネが無言なのはいつものことだ。断じて髪型が気に入らなかったという訳ではない――はずだ、と無理やり結論づけて、アリセルは鏡をしまった。

 足元に散らばった髪の切れ端を丁寧に集め、布にくるんでひとまとめにする。ふと視線を上げると、開け放たれた窓の下にも、細かな髪がいくつか舞い散っているのが見えた。そのまま窓辺に歩み寄り、落ちた髪を拾い上げていると、不意に頭上から小さな鳴き声が聞こえた。顔を上げると、窓枠に一羽の小鳥がとまっていた。小さく、丸みを帯びた体に灰青色の頭と淡い赤茶の胸。柔らかな日差しの中で、白い斑が静かに浮かび上がって見えた。羽毛をふわりと膨らませ、小鳥は首を傾げて、ぴ、と小さく鳴いた。嘴の根元には、まだ黄色みの残るやわらかな縁取りが見える。アリセルはそれに目をとめ、巣立ったばかりの幼い鳥なのだと気づいた。

 そっと籠の中を探り、残っていたクッキーの欠片を一つつまみ出す。指先で細かく砕き、小鳥に見えるように窓辺に置いた。小鳥はぴょん、と小さく跳ねて近づき、欠片を確かめるように見つめてから、嘴をつい、と伸ばした。

 アリセルは小さく息を呑み、自分の掌にも欠片をのせて、小鳥に見えるようそっと差し出した。小鳥は軽く羽をふるわせてから、ひょいと身を乗り出し、そのまま手の上へと跳び移った。細い爪が指にふれ、重さもないくらいの軽さでちょこんととまる。クッキーをつつくたび、掌にくすぐったさを感じる。小さな命が一心に食べる姿は、見ているだけで愛らしく、アリセルの唇には笑みが浮かび上がった。

 小鳥の動きを追っていた目を、何気なくルネの方へ移す。ルネはじっとこちらを見ていた。目を伏せることもなく、静かな眼差しで。見られていたことに、アリセルはほんのわずかに驚いた。いつものように、俯いているものと思っていたのだ。

 軽く逡巡してからルネの元に、静かにしゃがみ込む。躊躇いながら片手を伸ばし、そっとルネの手を取った。触れても拒絶されなかった事に安堵し、自分の手を重ねるようにして、クッキーの欠片を乗せる。小鳥はアリセルの手から、ルネの手へと飛び移った。ルネの視線が、小さな体に吸い寄せられるように落ちていく。動かず、瞬きもせず、じっと食べる様子を見つめていた。

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