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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo8:天の瑠璃

 アリセルは桶の傍に膝をつき、静かに手を伸ばした。ユーグが支えるルネの体を、彼女の手が補うように添えられる。二人がかりでそっと背を支え、ルネの足を湯に浸していく。湯面が揺れ、微かな水の音が染み渡る。ルネの身体は軽く、腕や脚は骨ばっていた。アリセルが脇を支えると、肩甲骨の角ばった線が掌にあたる。ユーグが腰を支え、アリセルが反対側から両腕を抱え、ゆっくりと身体を沈めていく。湯に触れた途端、ルネの肩が大きく震えた。傷に沁みたのだろう。細い腕に力がこもり、皮膚の下で筋が浮かぶ。湯面が波立ち、桶の縁から一滴が零れ落ちた。アリセルとユーグは手を止める。どちらからともなく動きを緩め、身体を沈めるのをいったん控える。浅く湯に浸かったまま、支える手を僅かに浮かせ、圧をかけぬよう姿勢を保つ。

「ルネ様、痛みますか?」

 返事はなかったが、緊張で固くなっていた肩の力がわずかに抜けた。アリセルはそっと頷き、ユーグと目を合わせる。再び身体を支え、湯へと沈めていった。

 ルネの身体が沈みきった所で、ユーグは手桶を取り、湯をすくって彼の肩口にかけた。アリセルは布をとり石鹸を擦りつけて泡立ててから、なぞるようにルネの肌へと滑らせる。

 湯に沈んだルネの身体は、どこもかしこも傷だらけで、腐臭を放つようだった。一体何をされたら、こんな事になるのだろうか。想像するのもおぞましく、アリセルは手元の動きだけに意識を向けた。布を濯ぎ直し、再び肌へと当てる。

 ふと、苦味のある香りがして、顔をあげる。見るとユーグが小さな布を指に巻きつけていた。布には薬草がまぶされている。

「少しだけ辛抱してくれな」

 ユーグはルネに向かってそう言うと、彼の顎に手を添え、そのまま親指で下顎を押し下げた。口が開いた瞬間、ルネの喉が小さくひくついた。ユーグは指をそのまま口内へ差し込んだ。薬草の布で歯の奥をこすり始めた途端、ルネの身体がぴくりと動き、呼吸が不規則に乱れた。咽びそうな音が喉奥に引っかかり、肩がわずかに浮きかける。口からは濁った唾液が溢れ、顎を伝って垂れていく。

 躊躇いもなく、乱れもなく、嫌悪も一切見せず。ただ必要な事として、指を奥まで差し入れ、確かな手つきで歯をこすっていく。そんなユーグの様子に、アリセルは目を伏せた。

 どうしてこんな事が平然とできるのだろう。ただ慣れているだけではない。誰かのために手を汚すことを、受け入れているようなユーグに湧き上がるのは、密やかな尊敬の念だった。

 やがて指が抜かれると、ルネの顎ががくりと落ちた。アリセルは濡れた布を取り、その口元を拭いてやる。ルネは息を荒くしていたが、目は閉じたまま、何も言わなかった。

「よく耐えたな」

 ユーグはルネの肩に、そっと手を置く。返事はなかったが、わずかに喉が動いたのが見えた。

 アリセルは布を湯に浸し直しながら、身を乗り出し、ルネの頭を両手で支える。次にすべき事はもう決まっている。

 ルネの髪に触れると、思っていたよりも硬く、束になって固まっていた。乾いた血と汗とが絡まり合い、まるで薄い樹皮のように、所々張りついている。桶で湯をすくい、そっと髪に注ぐ。髪の束がわずかにやわらぐのを待ちながら、指先を慎重に差し入れていく。爪を立てぬよう、指の腹で少しずつなぞり、絡まりを探っては、根気よく解いていく。そうしてから布に石鹸を擦りつけ、泡立てた。石鹸の清らかな香りが広がり、空気に淡く滲んでいく。泡を手のひらに取り、そっと髪に馴染ませる。頭皮に触れるたび、瘡蓋や腫れた傷が指に当たった。アリセルは指先の圧を抜きながら、撫でるようにして洗っていった。

 湯は何度もくすみ、泡はやがて白さを帯び始めた。ルネの髪が本来の明るさを見せ始めたのは、それから暫くしての事だった。ようやく現れたそれは琥珀のような金の髪だった。

 アリセルはルネの頭を布で静かに包み、水気を吸い取る。柔らかな布越しに感じる頭の重みに、人としての温もりを感じた気がして、ほっとした。

 向かいでは、ユーグがルネの腕を取って洗っていた。石鹸の泡が広がり、時おり湯の面に淡く浮かび上がる。骨ばった腕に布をあて、丁寧に動かしているその手つきは、無言の気遣いを含んでいるようだった。

「さて、と。ルネ様、お顔も洗いましょうね」

 そう告げてルネの顎に軽く触れる。濡れた布を頬に当てて、ゆっくりと滑らせる。頬から額へ、額から鼻筋へとなぞる手が、ふと止まった。傷と汚れに覆われて今まで気が付かなかったが、ルネの顔立ちは驚くほど整っていたのだ。額の線も、鼻筋も、あどけなさを残しながら、王族らしい品のある輪郭をしている。

 不意に、伏せられた瞼がわずかに開いた。焦点の定まらない視線が、どこを見ているともなく宙をさまよう。そのわずかな隙間から覗いたのは、宝石をそのまま水に溶かしたような青い瞳だった。揺らめくその色に、アリセルは思わず息を呑む。ほんの一瞬、胸の奥に、ふっと光が差し込んだような感覚が走った。何か特別なものを見たような、そんな高揚が静かに胸を満たす。

 彼を見捨ててはいけないと、強く思った理由は自分でも分からない。だがこの目を見てしまった以上、背を向ける事はできないような気がした。

 冷たく濁った過去に覆われたその身体が、いつか人として当然の尊厳を取り戻せる日が訪れるまで。その時まで彼の傍にいたい。アリセルはそう、静かに思った。

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