Echo6:息づくもの
昼の鐘が遠くの村から小さく聞こえてきた。塔の中に満ちていた澱んだ空気を背に、二人は重い扉を押し開ける。金属の蝶番が軋んで、軒下に溜まった埃が陽の光に舞い上がった。
外に出ると、爽やかな風が緑の匂いと微かな花の香りを運んできた。空はどこまでも青く澄み、雲が遠く高く流れている。中と外とではまるで別世界のようだった。
塔の脇を回りこむと、小さな水場があった。谷から引かれた細い水路のひとつが浅い石の樋に流れ込み、そこに木桶が据えられている。かつて修道士たちが手を清めるために用いていたものらしい。
水は冷たく澄んでおり、陽を受けた水面が燦めいていた。アリセルは袖をたくし上げて、手を沈める。爪の隙間に入った汚れを丁寧にこすり落とし、袖口の汚れを軽く洗う。ユーグも横に並び、無言で顔を洗い、うなじに水を流した。石の縁に置かれた布でそれぞれ手を拭くと、ふたりは塔の裏手の木立へと向かって歩き出した。
塔の裏手は草が刈られ、簡素な木の柵で囲まれている。柵の向こうには若いクルミの木が数本並び、木陰を落としていた。二人はそのうちの一本の木の根元に腰を下ろした。アリセルは傍らに置いた小さな籠を膝に引き寄せる。蓋を開けると、内側にはリネンの布が敷かれ、香草と肉が挟まれたパンのサンドや、朝に摘んだばかりの果実、乾燥肉がそれぞれ小さな包みに分けて収められている。地面に敷いた布に、それらを並べていく。
「おつかれさま」
最後にガラスの小瓶を取り出した。中に入っているのは、ミントと柑橘の冷たい蜜水だ。透明な器に注ぎ、ユーグに手渡した。ユーグはそれを一気に飲み干してから、感心したような目で品々を見る。
「こんなにたくさん、よく作ったな。お前、将来は良い嫁さんになるよ」
「どうも」
ユーグの軽口を受け流して、香草パンを差し出した。わくわくしながら見上げるアリセルに、ユーグは軽く眉を寄せて「なに?」と問いかける。
「なんでもない。いいから早く食べて」
「そんなに見られてると食べにくいんだけど」
「いいから」
ユーグは少し警戒するような顔をしながらパンに齧り付いた。薄く焼けた皮が、ぱりっと音をたてる。
「どう?」
アリセルの質問にすぐには答えず、ユーグは咀嚼して飲み込んでから口を開く。
「店でも出せるんじゃないかって位、うまいよ」
「やった! 実はセロリ入っているの」
セロリ、という単語に反射的に顔をしかめるユーグに対して、アリセルは得意気に胸をはった。
「分からなかったでしょ」
「ああ、青臭さが全然ないし……。なんで?」
「バターとにんにくとローリエで炒めてから蒸したのよ。これならユーグも食べられるかなって」
言いながら自分も香草パンを齧る。中から、塩漬け肉のうま味と、火を通した野菜のやわらかな舌触りがにじむ。噛むたびに、タイムやローリエの香りが淡く鼻に抜け、パンの生地の甘みと一緒に、じんわりと口の中に広がっていった。我ながら上手い出来だ。「うまいよ」と言ったユーグの言葉に偽りはなかったらしい。あっと言う間に食べ終える様子に、頑張った甲斐があったと、アリセルの唇には笑みが浮かんだ。
「なぁ、この後はどうする?」
ユーグは木苺を摘んで問いかける。アリセルはモグモグと口を動かしながら、目を泳がせた。この後の掃除は窓にするか、寝床を整えるのが先か、それとも壁を磨いたほうがいいのか。思いつく場所はいくつかあるけれど、どれもいまひとつ決め手がない。
「うーん……どうしようかな」
「あのさ。早いとこ、あいつを風呂に入れてやった方がいいんじゃないかと思うけど」
それはアリセルも思っていた所だった。だが髪に触れようとした途端に大きく肩を震わせたルネの姿が脳裏に浮かぶ。触れようとしただけで、あの有様だ。入浴させるなど難しいのではないか。言葉に詰まるアリセルに、「健やかな魂は整えられた身なりに宿るってな」とユーグは続けた。
「でもきっと怖がられるよ」
「反応ないよりはよっぽどいい」
「たしかに、そうね」
アリセルは小さく頷いた。怖がらせるかもしれないという不安はあるが、それ以上に、清潔にしてやりたいという気持ちのほうが強かった。
食事を終えて二人はしばらく、その場に座ったまま木陰の涼しさに身を委ねていた。風が緩やかに吹き、葉がサワサワと音をたてて揺れる。木洩れ陽が草の上にまだらな模様をつくっていた。長閑だった。まるで世界には何の不幸もないと言わんばかりに、鳥の囀りがいくつも重なり合い、枝葉をすり抜けて広がっていた。やがてアリセルはそっと体を起こした。遅れてユーグも腰を上げる。食べ終えた布を広げ、パンのくずを払う。アリセルが手を伸ばすより先に、ユーグが使い終えた包みをひとつ手渡してきた。ふたりで手分けして、食器代わりの布をたたみ、籠の中へ収めていく。空になったビンの口を締め直すと、ユーグがそれを籠の隅に押し込んだ。
「さて、もう少しがんばろうね」
「そうだな。こんなうまい昼飯を作って貰ったからには、その分働かないと」
「こんなので良いなら、お安い御用よ」
アリセルはくすくす笑ってから足元の籠を手に取った。
幽閉塔の扉を押し開けると、ひんやりとした空気が迎える。階段を上りながら、ルネに明日お風呂に入れる事を伝えなければと思う。恐らく反応はないだろうが、一応知らせておかなければ。
牢獄の鍵を開けて中に入る。まだまだ清潔とは言いがたいが、午前中の努力の甲斐もあり、初日とは空気がまるで違うように思えた。不意に前にいたユーグが肩越しに振り返った。その視線の意味が分からず、小首を傾げるアリセルだが、すぐさま彼の言わんとしている事を察する。ルネの姿勢が違っていたのだ。朝は胎児のように丸くなっていたが、今は壁を背に蹲り、膝に顔をうずめている。置かれた白パンには食べた形跡がないが、ミルクはほんの少しだけ量が減っている。弾む心を抑えてルネの前に駆け寄り、かがみ込む。
「飲んでくれたんだね、ありがとう。ルネ様いいこいいこ!」
思いがけない所で返ってきた最初の反応が嬉しくて、敬語が吹っ飛んでしまった。ルネの頭をよしよしと撫でてやりたい気持ちを堪えながら、アリセルは破顔する。
「偉かったな」
隣でアリセルと同じようにしゃがみ込み、そう告げるユーグの声音は柔らかく優しかった。小さなものを労るような口調で彼は続ける。
「ルネ。俺たちは少しでも、あんたにマシな環境を与えてやりたいだけなんだ。何もとって食おうって訳じゃないから、そんなに警戒するなって。大体、俺ならまだしも、アリセルみたいな世間知らずの箱入りが、誰かに危害加える訳ないだろ」
「ん? 今、さり気なく私の悪口言ったでしょ」
アリセルはユーグを小突いてから、膝に肘をのせて頬杖をつくように自分の両頬を包んだ。
「ルネ様、明日はお風呂に入りましょうね。これからも毎日のように、お掃除をして、お食事をお持ちして、寝床も整えます。だから、どうかよろしくおねがいします」
改まった物言いになったのは、嬉しさが先立ったからだ。ルネがミルクを少し飲んでくれた。たったそれだけの事で心がこんなに満たされるとは、自分でも思ってもみなかった。こうなると彼の反応をもっと見てみたい。声を聞いてみたい。その顔をじっくりと見てみたいと、心の奥に次々と想いが芽生えていく。それでも焦らず、怯えさせず、少しずつ――。今日よりは、明日。明日よりはあさって。そうやって時を重ねれば、その手を取っても拒まれない日が来るかもしれない。胸に灯った希望は小さく、しかし確かな輪郭をもって心の奥でそっと脈を打ちはじめた。