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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo5:沈黙の棺に注ぐもの

 朝の空気は、夜の静けさを吸い込んだまま、ひんやりと澄んでいた。空の色は高い所から薄紫がほどけ、白んだ青へと滲み、薄い光の層が重なっていた。遠くの森の向こうでは、低く白い靄がたなびいている。まだ世界が目を覚ます前の早朝に、アリセルとユーグは幽閉塔に向かい歩いていた。

 ロバの蹄が草を押し分けるたび、乾いた音がひそやかに鳴る。踏まれた草は押し戻るように揺れ、足音は風とまじり合って、野に溶けていく。アリセルは傍らのユーグを見上げる。寝癖がついた髪はツンツンとしており、眠そうな顔に、普段の精悍さはなかった。欠伸を嚙み殺す彼に、なんとなく申し訳ない気分にもなってきた。

「ごめんね、朝早くて」

「いや、いいんだよ。用事でもないと起きれないし」

 そう言って、ふぁと欠伸をするユーグはだらけきった山猫に似てる。アリセルは手にした編み籠から青リンゴを取り出して、ユーグに差し出した。編み籠には香草パンや白パン、果物やミルクが入っていた。食べ物を用意している内に、なんとなくピクニックにでも行くような気分になってしまったのは、致し方なかった。ユーグは受け取った青リンゴを齧る。しゃくり、と乾いた音が朝の空気にほどけた。アリセルはユーグの隣に並ぶ。

「ねー、ユーグ」

「んー?」

「そう言えばユーグが手伝ってくれるって言ってくれたのが嬉しくて、つい忘れてしまったのだけど……」

 アリセルは途中で口を噤んだ。視線を地に落として、躊躇いながら言葉を継ぐ。

「ユーグのご両親って前国王に処刑されたって言っていたでしょ」

「ああ、それな」

 みなまで言わずに察したのだろう。ユーグはアリセルに顔を向ける。

「前国王は確かに憎いけど、ルネ王子に直接何かされた訳でもないし」

「王子に恨みはないの?」

「正直、実際に会ったらどう感じるのかは自分でもよく分からないんだ。だからアリセルの手伝いをすると言うより、自分の気持ちを確認したいって所かな」

 眠気が飛んだのか、彼の顔には普段の表情が戻ってきた。「そうだったんだね」と頷いて、アリセルは歩みを進める。

「ユーグはご両親が亡くなって寂しくないの?」

「どうかな、昔の話だし、寂しいかどうかなんてもう忘れたよ」

 ユーグはあまり自分の過去を語らない。どういった経緯でこの村に来たのか、以前は何をしていたのか。アリセルとしてはもっと知りたい所だが、すぐ煙に巻かれてしまうのが少しだけ寂しくて、悔しい。いずれにせよ誰にでも話したくない事はある。いつかユーグが話してくれる日まで待とうと密かに誓う。

 やがて陽は地平を越え、あたりを淡く照らしはじめた。草に残った朝露は、陽光を受けて煌めいている。道の縁に並ぶエルムの木の枝先から、鳥の囀りがこぼれた。澄んだ声がひとつ、またひとつと重なり、空に吸い上げられるように響いていく。

 幽閉塔が目前になり、アリセルの鼓動は早くなる。緊張や不安、恐怖とほんの少しの期待と。言葉では表せない感情に、知らず内に表情が硬くなる。するとユーグの手がぽんっと頭に乗った。

「大丈夫だって。俺がいるだろ?」

「うん。でもルネ様を見たらユーグもきっとビックリするよ」

「それは覚悟しておく」

 頷くユーグに微笑みかけて、幽閉塔の外扉の鍵をあける。かちゃり、と鳴る金属の音は眠っていた何かが、ひそやかに目を覚ます気配にも思えた。



 ルネのいる牢獄に足を踏み入れると、石の床がわずかに湿っていた。空気は重たく、拭いきれなかった古い汚れと水の匂いが混ざっている。部屋の隅の方には洗い流された跡がかすかに残り、そこだけ色がまだらに変わっていた。昨日よりは幾分マシだったが、まだまだ清潔とは言いがたい。

「おはようございます、ルネ様」

 ルネは胎児のように膝を抱えて身を丸め、横たわっていた。反応のなさは相変わらずだが、アリセルは構わず続ける。

「こちら、私の友人です。今日から一緒にお手伝いしてくれることになりました」

「初めまして、前王の御子息。ユーグ・アージュと申します。今後、ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます」

 流れるような動作で胸に片手をあてがい頭をさげるユーグの姿は、普段のくだけた彼とは違い随分と大人びて見えた。思わず見惚れてしまうアリセルだが、続いた発言にぎょっとする。

「なぁ、元王子様、聞こえてる?」

「ちょっとユーグ!」

「ま、どっちでもいいや。掃除するからさ、うるさかったらごめんな?」

 失礼よ、と言いかけた言葉は結局喉の奥にとどまった。ユーグの言葉こそ軽薄だが、そこに悪意も敵意も感じられなかったからだ。

 ユーグが木桶を持ち上げ、アリセルは昨日使った布を手に取った。石の床には薄黒い染みがまだいくつも残っており、水で擦っても、染み込んだ汚れは簡単には剥がれない。布越しに伝わるざらつきが、石の粗い肌とこびりついた過去の気配を思わせた。隅ではユーグが金属のへらで石の目地をこすっている。刃先が小さく跳ねる音が、静かな空間に断続的なリズムを刻んだ。しばらく無言のまま二人は作業を続ける。やがて床の石肌はまだ落ちきらない汚れが残っていたが、それでも見違えるように清くなっていった。

 アリセルは濡れた布を絞り、ユーグの隣にしゃがみ込む。ユーグの手元ではヘラが石の表面を滑り、止まりかけた。だが彼は手をゆるめず、角度を変えてもう一度力をかける。ガリッ、と大きな音をたてて乾いた塊が剥がれ落ちた。一人ではとてもここまで出来なかった。ユーグがいてくれて本当に助かったと、言葉にせず思っていると、目があった。

「お前、昨日一人でよく頑張ったな」

「えへへ」

 心の底から感心したように褒められてアリセルの頬は思わず緩む。エプロンについた汚れを払い落としながら、立ち上がった。

「ちょっと休憩しよう。お腹すいてきちゃった」

「そうだな」

 頷くユーグに笑みを見せてから、ルネの元に歩み寄った。

「ルネ様も一緒にお食事しませんか?」

 返ってくるのは棺の中のような深い沈黙だ。返事や反応を期待した訳ではないし、ルネが一緒に食事するなど到底思えない。だが言葉が自然とこぼれ落ちたのだ。アリセルは編み籠から布に包まれた白パンを取り出して、彼の傍にそっと置く。更に小さな陶の壺を取り出し、蓋を外した。中に入っているのは、ハーブと蜂蜜を混ぜて煮たミルクだった。家から持ってきた素焼きの器にミルクを注ぐ。

「エルダーフラワーとレモンバーム、あとほんの少しだけローズマリーを入れてみました。お口に合うかどうか分かりませんが、よろしければお飲みください」

 白パンの隣に器を置いて、編み籠を持ち上げる。ルネは何も言わず、身じろぎ一つしない。誰にも触れられぬ硝子の中にいるような、静けさだけが彼を包んでいた。

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