Echo38:信頼
デイジーの授業では、怒られてばかりだった。
所作が甘い、姿勢が悪い、声が小さい。羞恥に赤くなるのは構わないが、言葉まで詰まらせては意味がない。そうやって毎度のように注意を受けるうちに、アリセルはすっかり学ぶことが憂鬱になっていた。
内容は、あくまで性にまつわる教育だった。けれど、ただ恥ずかしいというのとは少し違う。ふわふわした恋の話などどこにもなく、どこか現実的で、やけに切実な身体の話ばかりが続く。しかも、今すぐにも実践が求められるのではないかという空気が、授業のたびにうっすらと漂っていた。
興味がまったくないわけではなかった。大人びた言葉や、聞いたことのない仕草を学ぶのは、どこか秘密を覗くような心地もして、それなりに面白くはあった。
だが、その一方で、自分が何のためにこれを知るのか、どうして覚えなくてはならないのか。考えれば考えるほど、心が冷えていくのだった。
恋も知らないのに、形ばかりが整えられていく。気がつけば、アリセルの気持ちは、ゆるやかに腐っていた。
誰に文句を言うでもないが、何かが違うと思う自分がいて、その違和感を飲み込むたびに、心の奥がじくじくと萎れていくのがわかった。
それでも、叱られないように頑張っているふりはした。真面目な顔で頷いて、言われた通りに振る舞った。たぶん、腐っていることには気づかれていない――少なくとも、そう思っているうちは、まだ大丈夫。
そんな事を考えている矢先だった。
「アリセル」
「なに?」
「お前、最近、相当腐ってんな」
塔の裏庭で一休みしていた時に、ユーグにピタリと言い当てられて、アリセルは思わず固まった。なんとも言えない目つきでこちらを見てくるユーグに、思わず声が上ずる。
「……な、なんでわかるの?」
「顔に書いてあるし」
「書いてないもん」
ぷいとそっぽを向いたが、頬が熱くて、それが余計にばれている気がした。隠していたつもりの気持ちが、まるで肌に浮かび上がっているような気がして、恥ずかしくてたまらなかった。
「……なんで、分かるの……? 他の人には何も言われなかったのに」
小さな声で、ぽつりとつぶやく。問い詰めるわけではない。ただ、どうしても腑に落ちなかったのだ。
デイジーにも、両親にも、何も言われなかった。いつも通りの顔で頷き、きちんと受け答えをして、叱られないように振る舞っていた。そうしていれば気づかれないと信じていたし、実際に誰も気づいていなかった。
それなのに、なぜかユーグには見抜かれていた。視線をそっと上げると、彼はあきれたように笑っていた。けれど、どこか優しくて、からかうような光も少しだけ混じっていた。
「そりゃあ、見てれば分かる」
軽く言われた言葉に、アリセルは唇を引き結んだ。
「……そんなに、分かりやすいの?」
「俺にはな」
その一言に、ふっと胸の奥がゆるむのを感じた。見透かされたことに、悔しさも、恥ずかしさもあった。けれどそれ以上に、気づいてもらえていたことが、なぜだか嬉しかったのだ。
「私、納得していないんだと思う」
ぽつりと零れた言葉は、自分でも驚くほど素直だった。けれど、口にしてしまえば、次の言葉もするすると出てきた。
「お父様とお母様は、ちゃんと考えてくれているの。私が困らないようにって、将来のためにって……」
言いながら、膝の上で組んだ指先に視線を落とす。絡めた指に、わずかに力が入っていた。
「でも……なぜ、そうやって準備をしなきゃいけないのか、私は……心のどこかでまだ、よく分かってないのかもしれない」
「それ、両親には言ってないのか」
ユーグの問いかけは、淡々としていた。責めるでもなく、からかうでもなく、ただ事実をなぞるような声音だった。アリセルは小さく頷いた。
「うん……」
「どうして?」
間を置かずに重ねられた声に、思考が少しだけ引き戻される。アリセルは、指先を見つめたまま、言葉を選ぶように唇を動かした。
「……たぶん、私のほうが、間違ってるから」
両親は、間違っていない。いつも自分のことを一番に思ってくれているし、その愛情を疑ったことはなかった。だからこそ、気持ちがついていかないとき、それをそのまま伝えるのは憚られた。納得できないのは、理解が足りないせい。もっと大人になれば、きっと自然と分かる日がくる。そう思おうとしていたし、そうであるはずだと信じてきた。
しばらくの沈黙の後、アリセルは、そっと肩の力を抜いた。
「でも、ユーグには言えるの、なんだか少し不思議」
そう呟いた声が、自分の耳にもどこか頼りなく響いた。理由はうまく言えなかった。ただ、両親には伝えられなかった言葉が、彼の前ではなぜか自然とこぼれてしまう。
それは、話しやすいからでも、聞いてくれるからでもない。どうしてか分からないのに、ユーグには話したくなってしまうのだ。ただ、彼がそこにいると、ほっとする。言葉を飲み込まずにいられるのは、きっと、そのせいなのだろう。
「アリセル」
「なぁに?」
小首を傾げて問い返すと、彼は片手を差し出した。アリセルは戸惑ったように目を瞬かせ、おずおずと手を伸ばす。指がふれる瞬間、ほんの少しだけ、手のひらに熱が灯った。
「ちょっと来いよ。いいもんある」
握られた手がわずかに力をこめて引かれ、アリセルは導かれるまま歩き出す。塔の裏手を抜け、普段なら足を踏み入れない草の深い斜面へ。道とも呼べないような獣道を、彼は迷いなく進んでいく。
道の先が少しだけひらけたとき、彼は足を止めた。くぼ地のようになったその一角に、光が静かに差している。
「……ほら」
ユーグがそう言って、つないでいた手をほどく。振り向いたその顔に、いたずらを思いついた子どもみたいな光が一瞬だけよぎった。
アリセルはそっと視線を移す。足元の草のあいだから、青紫の花がいくつも顔をのぞかせていた。背丈は低く、草の陰に紛れてしまいそうなほど控えめなのに、色だけはくっきりと浮かんで見えた。
「ゲンチアナだ……!」
思わず声が出た。その花の名は知っていた。切花として見たこともある。だが、こうして、土からまっすぐ顔を出して咲いている姿を見るのは、初めてだった。しゃがみ込み、花を見つめる。
「……こんなところに、こんなふうに咲いてるなんて知らなかった」
その穏やかな色は、一輪だけでなく、いくつもが寄り添い咲いていた。じっと見つめていると、胸の奥のほうがふわりと温かくなるようだった。
ユーグが隣にしゃがみ込み、アリセルの顔を覗き込んだ。
「……なに?」
問いかけた声には、自分でも気づかないほどの笑みが滲んでいた。そのことに気づいて、アリセルはほんのすこしだけ頬を赤らめる。だがユーグは、それを咎めるでもからかうでもなく、ただ目を細めた。
「アリセル……」
短く名を呼んでから、彼は一拍置いて言葉を継いだ。
「親だからって、全部に従う必要はないんだ。嫌なら嫌って、言っていい」
「でも……嫌って言ったら、悲しむよ」
アリセルの声に、怒りも反発もなかった。ただ、まっすぐな恐れと、やわらかな迷いがにじんでいた。
「お父様もお母様も、私のために、いつも言ってくれるから。私が嫌だって言ったら……きっと、傷つく」
ユーグはその横顔をじっと見ていた。すぐには何も言わない。けれど、その沈黙が責めるものではないと、アリセルには分かった。やがて、彼の声がゆっくりと落ちる。
「……悲しんでもいいじゃないか。たまには」
その言い方は、どこか投げやりなようでいて、優しかった。
「全部お前が引き受けなきゃ、立ってられねぇようなやつなら……それこそ、大人失格だろ」
アリセルは目を見開き、そして――ほんのわずかに、瞳を伏せた。心の奥に、はじめて吹き込む風のような、ことばだった。