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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo4:穢れと光と

 幽閉塔を後にしたアリセルは、ゆっくりと帰り路を歩いていた。手綱を握る指に、木製の手桶の柄が食い込んでいる。無意識にロバの頭に触れると、ロバは小さな鳴き声をもらした。道はなだらかに下っており、木々の隙間から夕陽が差している。風が吹き抜け、枝葉が揺れるたび、影が足元を滑っていく。誰もいない帰り道は、静かで、長かった。

 今日のことを思い返す。黒ずんだ床の汚れ。澱んだ臭気を孕む空気。頭を抱えて蹲る青年の姿。あれは、本当に生きている人間のいる部屋だったのだろうか。何もかもが古びて腐り逝くもののようで、現実味がなかった。けれど、確かにそこには人がいた。反応はなくとも、息をしていた。思い返すほどに気持ちが澱のように沈んでいく。痛みと呼ぶには小さく、言葉にするには曖昧な重い感覚。

 やがて道の先に、川が見えてきた。山から流れるその川は、町の外れを静かに縫うように走っている。夕陽に照らされた水面が、金色に揺れていた。透明な水は底石まで見通せるほど澄んでおり、緑の水草が揺れる様子までハッキリと見てとれた。

 アリセルは立ち止まり、手桶を傍らの草に置いて自分の袖口を見る。気がつけば、全身すっかり薄汚れており、しかも何だか臭う気がする。この川で水浴びしたら最高に気持ち良いだろうと思ったが最後、靴を脱ぎ捨てた。衣服も脱ごうと手をかけた所で周囲を、キョロキョロと見渡す。幸い人影はなかった。そのまま一気に服を脱ぎ、シュミーズのまま川に足を入れた。両腕を広げ、ざぶんと水の中へ飛び込む。冷たい水に思わず息を呑むが、すぐに頬が緩んだ。

 清らかな川の水は、塔の中のすべての汚れや、淀んだ気分を流してくれるようだった。手ですくった水を高く放ると、水滴一つ一つが小さな宝石のようにキラキラと、日差しに反射して落ちていく。草の上に脱いだ服を引き寄せて、ぐるぐると布をもみ込む。茶色く濁った水が、布の端からじわりと滲み出した。

 ひとしきり全身と服を洗ってから、川岸の浅瀬に戻る。水に濡れた下着が肌に張り付き、歩くたびに冷たく纏わりつく。川べりの大きな平たい石に腰を下ろし、髪を両手でぎゅっと絞る。

「アリセル」

「ふぁ!?」

 唐突に背後から声をかけられて、素っ頓狂な声が口をついて出た。振り返らなくても声の主は分かる。恐る恐る振り返れば、案の定ユーグがそこに立っていた。

「ユーグ、なんでそこにっ!?」

 わたわたと濡れた服で身体を隠すアリセルに、ユーグは少し呆れたような顔をする。

「なんでって仕事帰りだよ。水車の歯車を直してやったとこだ。アリセルは例の看守の仕事か?」

「そうよ、お掃除凄く大変だったんだから思わず水浴びもしたくなるってなものでしょうだから後ろ向いてこっち見ないでっ」

「はいはい」

 アリセルは息もつかず一気に早口で言い放った。ユーグは笑ってから後ろを向く。肌にまとわりつくシュミーズの冷たさに肩を竦めながらも、急いで服の袖に腕を通し、腰のリボンを締めた。髪を背でひとまとめにしてから、深く息をつく。

「……もういいよ。着たから」

「風邪ひくぞ」

 そう言って、ユーグが自分の上着をアリセルにかぶせる。彼の上着は太陽の名残を含んでいて、ひやりとした肌に優しかった。

「あ、ありがと」

「どういたしまして」

 ユーグはロバの手綱をとり、手桶を持って歩き出す。アリセルは半歩遅れて彼の背を追った。西の空にかかる山々の稜線が、まばゆい橙の光に縁どられていた。空はゆるやかに金から薄藍へと移ろっていく。

「どうだった? 初仕事は」

「掃除すごく頑張った」

「それだけ?」

「それだけって、すごくすごく大変だったんだよ。しかもまだ全然終わりそうにないの」

 この後、石床の汚れの削り落としをして、石灰を撒いて消毒して、壁の拭き取りして、窓掃除してと指折り数えるアリセルに「そんなにあるのか」と、ユーグは驚いた顔をする。

「ねっ、大変でしょ?」

 その驚いた顔に胸がすいた気分になり、思わず頬を緩めると「何笑ってるんだよ」と軽く額をつつかれた。

「一人で全部できるのか?」

「うーん、お父様が帰ってきたら手伝って貰おうとは思っているけど」

「ジョゼフさん、いつ帰ってくるんだ」

「分からない」

「だったら俺が手伝おうか?」

「えっ!?」

「余計なお世話だったら別にいいけどさ」

「ううん、ユーグそんな事ない。すごく助かるありがとう!!」

 思いがけない申し出に驚くと同時に、胸の奥がぱっと明るくなっていく。掃除の大変さもさることながら、ルネの痛ましい姿を一人で見守るというのは、辛くもあったのだ。だがユーグが一緒ならば、心強い事この上ない。嬉しさのあまりユーグの前に回り込み、両手で手をぎゅっと握って上下にぶんぶんと振る。だがそこで、アリセルはハッと動きを止めた。

「あ、でもどうしよう。私、ユーグにお給料払えないよ」

「そっか。それは困ったな。じゃあ手伝うのやめた」

「ええっ!? そうだ、お父様に相談してみるから、そしたらきっといくらかは……」

「嘘だよ」

 くつくつと笑うユーグに、からかわれたと悟る。「びっくりした」と唇を尖らせるアリセルの肩を、ユーグは優しく叩いた。

「給料はいらないからさ。かわりに香草サンド作ってくれればそれでいいよ」

 表面を軽く炙ったパンに香草と塩漬け肉、野菜を挟んだ「香草サンド」はアリセルの得意料理だ。何度かユーグに差し入れをした時、喜んでくれたものだった。

「それならお安い御用よ。明日のお昼に作って持っていくね。あっ、だったら具材買いに市場寄りたい!」

「いや、無理だろ」

「そうね、無理だ」

 即座に冷静な声で突っ込まれて、自分がずぶ濡れだという事を思い出す。

「適当なもんでいいって」

「家にある野菜はキャベツでしょ、あとラディッシュに人参、セロリ……」

「えー俺セロリ嫌いなんだ」

「ワガママ言わないっ」

 ユーグの言葉に覆いかぶせるようにして、アリセルはぴしゃりと言う。

「はーい」

 不貞腐れた子どものような返事をするユーグが可笑しくて、くすくす笑いながら明日に思いを馳せる。出来ればルネにも香草サンドを食べさせてあげたい。いや、彼にはそれよりももっと消化の良い食べ物の方がいいか。例えば根菜のスープをしみ込ませた白パンや、ハーブ入りのミルク湯など。

 空を見上げれば茜色は薄れ、代わりに宵紺が増してゆく。かすかに光る一番星が静かに夜の始まりを告げていた。

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