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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo3:無音の牢獄

 生活の基本はまず清潔な住まいにある。汚れは穢れとなり、そんな場所にいれば誰だって病気になるし、いかに栄養価の高い食事を与えられようと、健全さなど育めない。

 元王子の看守手伝いを任命されたアリセルが、まず第一に思いついたのは掃除だった。あの不潔な牢獄を、徹底的に綺麗にしてやろうと思ったのだ。願わくば父にも掃除を手伝って欲しかったのだが、急な仕事が入り出張となってしまった。

 アリセルの住む村から、ルネが幽閉された塔まで歩いて小一時間程。馬に乗ればもっと早いのだろうが、生憎とこの村で飼っている者はいない。馬の代わりにロバの手綱を握り、先導しながらアリセルは呟いた。

「私がもう少し小さかったら、キミの背中に乗って行くんだけどなぁ」

 ロバの片耳がピクリと動く。言葉を聞いているような反応が可愛らしくて、アリセルはロバの頭を撫でた。掃除道具を背に乗せて、ただ従順に歩みを進めてくれるロバは、思えば忍耐強い動物だ。この忍耐強さを自分も見習わなければと真剣に考える。

 草原に囲まれた長閑な小道を歩き続ける。幽閉塔は遠目にも分かる程高く、天に向かって聳え立つ。塔の入り口まで辿り着いた所で、ユーグから貰った指輪を紐に通して首にかけた。髪をきっちりと結い直して、口元をスカーフで覆った。右手にモップと雑巾を握り締め、大掃除の準備は万端だ。

 父と共に歩いた石造りの螺旋階段を、今日は一人で昇って行く。部屋へと続く鉄扉の前には水桶が並んでいた。話を聞いた父の知人が準備をしていてくれたのだ。掃除に一番必要なのは汚れを洗い流す水だ。この重たい水桶をアリセル一人で何個も運んでいては、それだけで日が暮れてしまうだろう。こうやって準備をしていてくれるのは、とてもありがたかった。

「ルネ様、おはようございます。アリセルです」

 部屋にこもる臭気は相変わらずだ。鉄扉から射し込む光を厭うように逃れる虫を極力見ないようにして、アリセルはルネの元に歩み寄る。壁に全身を預け、深く項垂れたルネの顔を覗き込もうと、膝を屈めて見上げる。しかし長い前髪に隠されて、その顔立ちを見ることは叶わなかった。

「今日はお掃除に来ました」

 返事はない。まるでアリセルの存在そのものに気が付いていないように、ルネは微動だにしなかった。



 扉を閉めると、音が吸い込まれるような静寂が訪れた。アリセルは手にしていた木の桶を床に置き、束ねた三つ編みを背に滑らせて、部屋を見渡す。部屋の壁に沿い等間隔で並ぶ窓は、どれも内側から薄い板が打ち付けられていた。板の隙間からは、かすかな外光が漏れている。アリセルはそのひとつに近づき、小さな鉄ばさみを手に取った。錆を避けながら、丁寧に板を一枚ずつ剥がしてゆく。最後の板が外れると、薄汚れた窓ガラスが現れた。窓の留め金を外して軽く押す。ぎしり、と重い音をたてて開く窓から陽の光が射し込み、新緑の香りがする爽やかな風が吹き込んできた。部屋の空気が動く。長い間滞っていたものが、ようやく動き出すような、そんな気配がした。

 床に目を落とせば腐敗した食べ物や、吐瀉物とも汚物ともとれない跡が黒ずんでこびりついていた。桶から少しずつ水を撒き、モップを押し広げては引き、何度も繰り返して磨く。昔、牛舎の掃除を手伝ったことがある。地に撒く水の音、鼻をつく匂い、手に馴染まないモップの感触など、どこかそれとよく似ていた。

 ルネは相変わらず項垂れたままだった。彼からは生の気配が完全に抜け落ちており、まるでこの部屋にいるのは自分だけのような気がしてくる。形だけそこにある、魂のない人形。

「……ルネ様、寒くないですか?」

 気付けばそんな言葉が口からついて出た。あまりに静かなルネに不安を覚え、反応が欲しかったのかも知れない。しかし問いかけに、矢張り返事はない。ルネの髪には黒に近い赤褐色の血がこびりつき、固まっていた。すでに乾ききり、時間が経ち放置されたその痕跡は生々しく、そして痛ましい。アリセルは立ち上がり、桶の水に手を浸した。粗末な布をひとしぼりして持ち上げると、水滴がぽたりと床に落ちて滲む。小さく息を吸い、アリセルはルネの傍らに膝をついた。できるだけ静かに、できるだけそっと。しかし彼の肩に触れたその瞬間。ルネはまるで撃たれたかのように、ビクリと震えた。

「ごっ、ごめんなさい」

 髪にこびりついた血をぬぐってやりたい。ただそれだけだった。しかし思いがけない程大きな反応に驚き、反射的に手を引っ込める。

「あの、血がついているから。痛くないかなと思って、だから、その……」

 何と続けて良いのか分からず言い淀む。慌てるアリセルにルネは身体を固く強張らせて、まるで手から逃げるように頭を抱えて顔を覆い隠してしまう。彼にとって自分は恐怖の対象なのだとアリセルは理解する。軽くルネに頭を下げてから、モップを取り直し、再度床をなぞり始めた。彼にこれ以上、負担はかけたくない。それでもこの場所が少しでも綺麗になる事は、彼にとってささやかな慰めになるかも知れない。人の手が入り、暮らしの痕跡が生まれれば、凍てついた心が僅かでも和らぐのではないか。いや、そうであって欲しい。祈りともつかない願いを込めて、アリセルは掃除を続ける。

 桶の水は何度変えても黒ずみ、気が遠くなる程の作業だったが重なった汚れが少しずつ薄れてゆく。

 ふと、背後に視線のようなものを感じた。空気が、かすかに変わった気がして振り返る。ルネは、変わらず壁際にうずくまり、頭を抱えたままだったがほんの少しだけ、肩の位置が変わっているようにも見えた。気のせいだろうか。それとも一瞬だけでも、彼がこちらを見たのだろうか。アリセルは目を伏せた。確かめる事はせず、再びモップを手にして、床をこすり続けたのだった。

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