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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo23:夜の牢

 昼を過ぎた頃から、空が鈍く曇りはじめていた。

 塔の中も次第に薄暗くなり、石壁の間に湿った空気が滲みはじめている。風はほとんどなく、どこか重たく淀んだ気配が室内にこもっていた。

 アリセルはジョゼフと並び、ルネの様子を見つめていた。

 寝台の上で、毛布にくるまって横たわるルネの呼吸は浅く不規則で、額には細かな汗が浮かんでいた。目を閉じたまま、うなされているのか、ときどき喉の奥から苦しげな声が漏れていた。

 ジョゼフが屈み込み、ルネの額に手を当てた。その手がすっと離れると同時に、眉間に皺が寄る。

「熱があるな」

「……やっぱり」

 アリセルは思わず呟いた。

「市場に連れて行ったの、負担だったのかな……。がんばって歩いてたから……」

 ジョゼフはすぐには返事をしなかった。ただ寝台の上で苦しそうに身じろぎするルネの様子を見つめている。

「顔色も悪いし……、苦しそう。どうしよう……」

 アリセルは不安に駆られながら、毛布の端にそっと手を置いた。隣では、ジョゼフが黙ったままルネの顔を見下ろしている。何も言わず、じっと見つめるその横顔に、父は何を思っているのだろう、とアリセルは視線を向けた。病状を見極めているのか、それとも、自分の判断が間違っていなかったかを確かめているのか。それとも……。そう思いかけたとき、不意に父の声が落ちてきた。

「今晩は、お前が看病してやりなさい」

「……うん、分かった」

 頷くアリセルだが、心の中には不思議なざわめきが広がっていた。

 父の命を受けたのは初めてではないし、ルネの傍にいることも、もはや特別なことではなかった。だが「今晩、看病してやれ」と言うのは、つまり、塔で夜を明かして良いということなのだろうか。

 今まで外泊を許されたことなど一度もない。

 それなのに今夜は、ここに残って良いのだと、父は言った。戸惑いと、わずかな喜びとが、胸の奥で複雑に溶け合う。これが「信頼」というものなのか、それとも必要に迫られただけなのか。

 どちらにせよ、アリセルにとっては、一つの大きな変化だった。



 ジョゼフが牢を後にして扉が閉まると、室内にはひときわ静けさが満ちた。

 外はすでに夕暮れに差しかかっており、空は重たい雲に覆われている。あたりに射していた僅かな光も、次第に色を失い、牢の中は薄暗く沈んでいった。


 アリセルは手元の燭台を取り上げ、火をともす。蝋燭の灯りがぱちりと音を立てて揺れ、やわらかな橙の光が石壁を照らしはじめた。だがその光の届かない隅には、まだ深い影がしっかりと根を張っている。

 牢の夜が、これほどまでに寂しいものだとは、思いもしなかった。音もなく、人気もないこの場所で、ルネは毎晩をこうして過ごしていたのだろうか。誰の声も届かない石の囲いの中で、たったひとりで。

 その事を想像しただけで、胸が締めつけられた。冷たい床も、厚い壁も、すべてが彼を閉じ込めていたのだと、今さらながらに思い知らされる。

 アリセルは寝台の脇に置いておいた洗面器に手を伸ばした。布に水を浸して絞ると、ルネの額に軽くあてがう。彼の瞼は固く閉ざされたままだった。しばらくして、唇がわずかに動く。

「……ごめんなさい……ごめんなさい」

 かすれた声が喉から洩れた。震えるような息とともに、同じ言葉が何度も繰り返される。

「ぼくが……ぼくのせいで……みんな……寒くて、飢えて……。それなのに…ここにいて……ごめんなさい……」

 アリセルは息を呑んだ。

 その言葉は、誰に向けたものでもない。ただ、意識の底に沈んでいた思いが、熱に浮かされて口をついて出ただけのようだった。それなのに言葉の端々には、どこか刷り込まれたような響きがある。きっとこれは、幼い頃から何度も誰かに言われてきた言葉なのだと思った。

「生まれなければ…よかった……あの人たちの子どもで……ごめんなさい」

「ルネ様……」 

 アリセルは、ルネの頬にそっと掌をあてがった。彼は両親が処刑された日さえ、きっとすべてを理解できないまま、その光景を見ていたに違いない。王宮が焼かれ、民が苦しみ、憎しみの矛先が一家に向いたその日々を、彼はただ小さな身体で受け止めるしかなかったのだ。

 けれど――それは、ユーグも同じだ。彼もまた、両親を処刑されている。たったひとりで生きてきた。笑ってはいても、軽く冗談を飛ばしていても、きっとその奥には、言葉にできない喪失があるのだろう。

 どちらがより不幸だったのかなんて、比べられるものではない。何が正しかったのか、誰が間違っていたのか、それすらも分からない。

 ただ、胸がいっぱいになった。泣くつもりなどなかったのに、気づけば視界が滲み、アリセルは腕で目元を拭う。震えそうになる声を励ましながら、そっと声をかけた。

「ルネ様、お水飲みましょう」

 耳元で優しく囁く。苦しそうに眉根を寄せたルネだが、その瞼がゆっくりと開いた。どこまでも深く澄んだ青の瞳は、熱に浮かされて一層色濃く際立っている。

「……ア…リ……セル…」

 かすれた声が、苦しげな息の合間にこぼれた。

「はい、ここにいます」

 アリセルは返事をしてから、片手を彼の背中と肩の間に滑り込ませた。熱で力の入らない身体がぐらつかないように、脇からそっと腕を回し、抱き起こすようにして上体を支える。

「少しずつでいいですから……」

 水を入れた器を口元へと運ぶ。ルネはわずかに喉を鳴らして、水を数口飲むと、力が抜けたように息を吐いた。

「……えらいですね。ちゃんと飲めました」

 そう言って微笑みながら、アリセルは器を置き、もう一度、静かに彼の身体を寝かせ直した。毛布を整えようとしたそのとき、ルネの手がゆっくりと動いた。熱に浮かされた指先が、探るようにアリセルの袖をつまむ。

「……行かないで……」

 小さな声だった。かすれた呼吸にまぎれるような囁きは、幼い子どもが不安に駆られて母親を探すようだった。

「……行きません。ずっとそばにいますから」

 アリセルは微笑みながら、その手を包みこむように両手で握った。熱で火照った掌は、頼りなく、それでも必死に何かを求めていた。そっと指を絡め、抱きしめるようにぎゅっと握る。

「ねぇ…アリセル……ぼくは、ここにいて、いい……のかな…?」

 ルネは呟く。問いかけというにはあまりに弱々しく、夢の底からすくい上げるような声だった。アリセルは、彼の手をきゅっと握り直す。

「はい。いいんですよ」

「手を…離さないで」

「はい。離しません」

 するとルネは、ほんのわずかに呼吸を緩めた。しかし尚、夢の淵から抜けきれぬように、ぽつりとまたこぼす。

「……本当に……?」

 その声は問いではなく、願いの名残のようだった。アリセルは黙って頷いた。けれど彼の瞼は閉じたままだから、それが届いているかどうかは分からない。だから今度は、ゆっくりと言葉にして返した。

「大丈夫です。ルネ様は、ここにいていいんです。わたしはそばにいます。手も、握ったままです」

 そう言いながら、アリセルはもう片方の手を彼の額にそっと添えた。指先で髪を梳くように撫でると、ルネの呼吸がわずかに緩んだように思えた。

 アリセルは、小さな声で歌いはじめた。

 幼い頃、母が寝かしつけの時に歌ってくれた子守歌だった。旋律は覚えやすく、静かで、何もかもを包んでくれるようなやさしさがあった。彼女の声は牢内の空気に溶けるように響き、音のない夜を温めていく。

 ふと、ルネの頬を、一筋の光が滑り落ちるのが見えた。

 目は閉じたままで、身じろぎ一つしない。だがそれは、たしかに涙だった。何かを感じているのか、それとも夢の中にいるのか、アリセルには分からない。ただその涙を見つめながら、歌をやめることなく、彼の手を包みこんでいた。

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