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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo16:ただ少し、驚いただけ

 ユーグの家は、村の中心にある小さな一軒家だった。長らく空き家となっていたこの家に、ユーグが越してきたのは数年前のことだった。

 家の周りに飾りらしいものは何一つなく、生活の気配は薄い。ただ必要なものだけを置き、無駄をすべて削ぎ落としたような雰囲気だった。

「ユーグ、おはよっ。迎えに来たよ」

 家の扉を叩きながら、アリセルは言う。今朝、塔に行くためにユーグと待ち合わせをしていたのだが、約束の時間に彼は現れなかった。何かあったのかと気になって、家まで来たという訳だ。

 だが扉を叩いても返事はない。どうしたものかと逡巡していると、扉がゆっくりと開いた。

「……あ、ユーグ、おは……ぴゃっ!!」

 尻尾を踏まれた猫のような、奇妙な声をあげてしまったのは、現れたのが女性だったからだ。長い髪をざっくりとまとめたその女は、薄手の衣を羽織っていたが、肩口から派手な下着が覗いていた。目元には化粧の名残があり、口紅の輪郭もわずかに滲んでいる。

「間違えましたごめんなさいっ」

 家を間違えたのだろうと、アリセルは慌てて踵を返した。だが、その背後から声がかかる。

「もしかして、ユーグに用があるの?」

 思わず振り返ったアリセルに、女はあっさりと言った。

「ちょっと待ってね、今呼んでくるから」

 そう言って女は扉を開いたまま中へ引っ込み、アリセルは何がどうなっているのかも分からないまま、気づけば家の中に足を踏み入れていた。

 呆然としたまま周囲に視線を彷徨わせる。塗装のない板張りの壁も、木目のある天井も確かにユーグの家だ。それなのに、なぜ艶めいた女性が出てきたのか理解できず、思考は完全に停止する。と、その奥から足音がひとつ。

「ああ……アリセル」

 姿を見せたユーグは、髪も服も乱れたまま、額に手を当てている。目元は眠たげで、声にはかすかに酒の名残が滲んでいた。明らかに、ひどい二日酔いだった。言葉を失ったままのアリセルに、彼はぼそりと呟く。

「待ち合わせの時間に行けなくて、悪い」

「う、ううん……べつにいいよ」

「ちょっと今日は無理そうだ。本当にごめんな」

「うん、だいじょうぶ。おだいじに……それじゃあ」

 劇場の子ども芝居のような棒読みでアリセルは答え、背を向ける。そのまま一歩、また一歩と歩き出したが、途中でぴたりと足を止めた。

 一拍の沈黙ののち、息を吸い込み、踵を返す勢いで振り向く。

「……あの! そちらの方はどなたっ!?」

 大声を出すアリセルに、ユーグは呻くように眉をひそめ、額に手を当てた。

「いってぇ……」

「あ、ごめ…って、そうじゃなくて、どなたっ!?」

「どなたって、見ればわかるだろ?」

「もしかして奥さん!?」

「ちがうっ!」

 瞬時に突っ込んだユーグだったが、自分の声が響いたのか苦しそうに呻いた。そこに先程の女がやって来た。ユーグを支えるように彼の肩に両手を添えて、ふわりと花が開くように微笑む。

「ごめんなさいね、お嬢さん。ユーグってば昨日は珍しく酔い潰れてしまったの。彼の面倒は私が見るから、心配しないで。ね?」

「は、はい。あの失礼ですが彼とのご関係は……?」

 妙に畏まった口調になってしまうのは混乱のせいだ。挙動不審といっても言い程にぎこちないアリセルに、女は一瞬ぽかんとした表情を見せたが、やがて思わずといった風に吹き出した。

「やだ、もう可愛い。私は買われただけよ。身体だけの関係だから心配しないで」

 女はフォローとして言ったのだろうが、アリセルには刺激が強過ぎた。釣られた魚のように口をパクパクさせるが、言葉が出て来ない。

「まぁ、そういうことだから」

 ユーグが気だるげに告げる。痛む頭をかばうように片目を細めながら続ける。

「今日は約束破って悪かった。埋め合わせは必ずするから」

 本当にごめん、と重ねて言うユーグに、アリセルはただ、こくこくと頷くことしかできなかった。



 幽閉塔に着いたアリセルは、ルネの隣にそっと腰を下ろした。反応のない静けさに甘えて、ひとりぶつぶつと文句をこぼしはじめる。

「そりゃ、ユーグだって大人だもん。そういうこと位あるよね。別に変じゃないし、普通だし。……むしろ健全だし?」

 アリセルの視線は虚空をさまよいながら、言葉だけがどんどん転がり出る。

「でも、びっくりしたんだから。だって朝だよ、朝からあんな、ねえ!? 下着姿の女の人が出てきたら、びっくりするでしょ、誰だって! しかも身体だけの関係だとか、そんな、そういう事って、もっとこう……なんていうか、ぼかすとか!? それにユーグ、私には気軽に抱きつくなって、いつも言っていたのに、自分だって……! 自分だって抱きつく……いや、抱きつくって言わない? あれ、なんていうの? ……抱いた?」

 ルネは何も言わない。だがアリセルは気にしない。むしろ話し相手が黙っていてくれるのを良いことに、勢いは止まらなかった。

「ああ、でもあの人綺麗だったなあ。大人の女性ってかんじ。ユーグはああいう人が好みなのかなあ……。うぅ、なに言ってるんだろ」

 言葉が急に詰まった。頬まで赤くなっているのが自分でも分かり、恥ずかしくてどうしようもない。しばらくの間、膝に顔を埋めて唸っていたアリセルだが、やがて、がばっと顔をあげて籠から昼食を並べだした。

「ルネ様、お昼にしましょう。ユーグの分まで作ってきちゃったの。たくさんあるから、いっぱい食べて全部忘れます」

 パンを掴み上げ、勢い良く齧り付こうとしたアリセルの動きが、そこでふっと止まった。今まで何の反応も示してこなかったルネが、ごく自然に、砂糖漬けのカシスをひと粒つまみ、そのまま口に運んだのだ。

 一瞬、時間が止まったようだった。目の前の光景を、うまく理解できないまま、アリセルは息を詰める。

 つい先程まで頭の中はぐちゃぐちゃだった。玄関に現れた、あの女の人。

 受け止めきれなくて、胸の奥がざわついて、まともに呼吸もできなかった。そんなとき、ルネが――目の前で、初めて、自分の手で食べ物を口にした。 

 訳が分からなかった。先程のざわめきと、今の驚きがごちゃ混ぜになって、どこか変なところで感情が絡まった。

「……あれ?」

 手の甲に、ぽたり、と涙が落ちた。なぜ泣いているのか自分でもよく分からない。ただ感情が伴わないまま溢れ出した涙は頬をつたって落ちていく。霞んだ視界のなか、不意にルネと目が合った。サファイアのように澄んだその瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。

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