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看守の娘  作者: 山田わと
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Echo13:ふたつの静脈

 塔に通う日々が重なるにつれて、空気の色が、わずかに変わったように感じられるようになった。

 最初に足を踏み入れたとき、牢内の石床は、ただ汚れているという程度ではなかった。乾いた血の跡や、固くこびりついた汚物があちこちに残され、鼻を突くような悪臭があたりにこもっていた。人が人として扱われていない空間――そう思わせるほど、そこは荒れ果てていた。

 だが今では、石床の表面にこびりついていた汚れは取り払われ、ざらついていた感触も次第に和らいで、掃き清めたあとに残る埃の量も目に見えて減ってきた。

 ユーグと二人、交代で雑巾を手にし、時には鍋で湯を沸かしては壁を拭き、窓の桟の隙間に詰まった汚れを掻き出した。誰も来ない場所の、誰にも見られない部分ばかりを黙々と磨いていくうちに、そこに自分たちの気配が根づいていくのを、アリセルは不思議な感覚で見つめていた。

 ルネもまた、ほんの少しずつ変わっていった。髪は切られ、何度も洗われて、今では自然な艶を取り戻しつつある。衣服も毎日洗濯され、寝具も整えられ、彼の姿からは、かつての荒れ果てた陰りが少しずつ薄れていった。

 けれどその変化は、声には結びつかなかった。壁にもたれてじっと石床を見つめる姿は変わらず、目が合っても、なんの反応もない。それでもアリセルは、彼が手を払うことも、拒むこともせずに受け入れていることに、どこか救いを感じていた。

 塔の中に静けさは満ちていたが、それはもう、かつての荒れた無音とは違っていた。人の手が入り、人の気配が宿ったことで、その静けさは、ほんの少しだけ、あたたかみを帯びているように思えた。



 その日、ユーグは窓の下に棚を取りつけるのだと言って、木材を組み合わせていた。使っているのは、古びた金槌と釘、それに小さな鋸。目測で板の長さを決め、迷いのない手つきで端を切りそろえていく。アリセルは両膝に手を添え、その様子をじっと見つめていた。

「ユーグって、なんでもできるよね」

 思わず漏れた言葉に、彼は手を止めることなく答えた。

「そうでもない。できないことの方が多い。……料理とか、全然ダメだし」

「そうなの? なんか意外」

 アリセルがくすっと笑うあいだにも、ユーグは釘を板にあてがい、金槌で軽く叩きこむ。打ちつける手つきは荒っぽいようでいて、力はきちんと加減されていた。

 やがて彼は棚板をそっとはめ込み、手のひらで押してぐらつきを確かめる。一歩下がって「こんなものかな」と呟いた。アリセルは完成した棚に目を見張った。

「……すごーい!」

 思わず声が弾む。寸分のずれもなく、板と板がぴったり噛み合い、釘の打ち込みも正確だ。

「ねぇ、見て。ルネ様! ユーグが作ってくれたわ」

 アリセルは小さな器に水を張って、摘んできた野花を一輪挿した。その隣にランタンと小鳥の画集を置く。

「ここに、好きなもの並べられるね。何がいいかな……砂時計とか、茶器とか。ドライフルーツを詰めた瓶も、光が当たると綺麗かも」

 思いつくままに口にしながら、アリセルは顔を上げてユーグを見た。

「ありがとう、ユーグ。とっても素敵」

「どういたしまして」

 ユーグが道具を片付けながら返事をする。そのとき、牢の扉がぎいっと軋む音を立てて開いた。アリセルがそちらに目を向けると、立っていたのはジョゼフだった。

「やあ、アリセル。少し様子を見に来たんだ。ユーグ君もいつもありがとう」

「どうも」

 軽く頭を下げるユーグにジョゼフは柔らかく微笑んで頷く。牢内に足を踏み入れ、周囲を感心したように見渡した。

「ずいぶん綺麗になったな。最初に見たときとは別の場所みたいだ。……これ、二人で?」

「ユーグががんばった」

「俺だけじゃない。お前もだろ」

 なぜか得意気に胸をはるアリセルを、ユーグは苦笑しながら軽く小突く。ジョゼフの視線が塔の中を静かに巡る。そして数歩、静かに歩みを進めたのち、ジョゼフの双眸はルネの方へと向けられた。彼は膝をつき、ルネの前で静かに傅く。

「ルネ殿下。お変わりありませんか。お身体の具合は、いかがでしょう」

 ルネはまるで何も聞こえていないかのように、姿勢ひとつ変えない。ジョゼフとしても返答を期待していなかったのだろう。ゆっくりと立ち上がり、アリセルとユーグの方に体を向けた。

「ここまで手を貸してくれて、本当に助かっている。ユーグ君、君にはきちんと報酬を渡したい」

「娘さんに毎回昼飯作ってもらってますから。それで充分です」

 ユーグが軽く肩をすくめながらそう言うと、ジョゼフの顔つきがわずかに険しくなった。父の表情が変化した理由がわからず、アリセルは瞬きをひとつする。だがジョゼフはすぐに口元を和らげ、「そうか」と静かに頷いた。

「それよりもジョゼフさん。前看守とは知り合いですか? そいつ何とかしたほうが良いと思いますよ」

「どういうことだね?」

「ルネの身体、見ればわかるでしょう。不当な扱いにも程がある。然るべき罰を受けるのが当然だと思います」

「……そのことについては、私にも思うところがある。だが、今はまだ、軽々しく動くべき時ではない」

「今でも遅いくらいだと思いますけどね」

 ユーグの言葉に、ジョゼフは彼を見返した。静かな視線だったが、底の読めないものを含んでいて、アリセルは思わず息をのんだ。重い沈黙が、場を覆う。

「いずれ、然るべき時が来る。そのときは、私の責任として対処しよう」

 ややあって、ようやくジョゼフがそう告げた。言葉は穏やかだったが、その声音にはどこか線を引くような、近寄りがたい硬さがあった。その言い回しの奥にある意味を、アリセルは読み取れず、心の中で小さく首を傾げる。

 ジョゼフはもう一度、無言のルネに視線を落とし、やがてゆっくりと踵を返した。

「また様子を見に来るよ。……アリセル、無理をしないようにな。それとユーグ君、君の協力に感謝するよ」

 優しく、よく通る声だった。だがその背に、どこか決然としたものが滲んでいた。牢の扉がきぃと軋む音を立てて閉まり、階段を下っていく足音が遠ざかっていく。

 静けさが戻った塔の中で、空気の色がほんのわずかに変わったような気がした。

「まぁ、死んでも対処なんてできないだろうけどな」

 ふと、そんな言葉が耳に届いた。顔を上げると、唇の片端を歪めて、露悪的な笑みを見せるユーグの姿が目に映った。その笑みが何を意図しているのかは分からない。ただ、言いようのない気配に触れた気がして、アリセルはひととき息を止めた。

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