八話 君は海が好き?
祠から外に出るとあることに気が付いた。白いカーテンのような光が差し込む。水が耳を打つコポコポとした音。遠くまで見渡せるような透き通った海。僕たちと一緒に泳ぐ色鮮やかな魚たち。年季の入った甲羅を持つウミガメ。その時、耳に飛び込んできたのはクジラの声。神秘的で心が安らぐ。海そのものが僕たちを祝福するようだ。現実とは思えないような幻想的な空間がそこにはあった。
僕たちはしばらくの間、この海を楽しんだ。海面に上がってしまうと終わってしまう気がしたから。鼓が僕の手を引っ張って泳いでいた時にあの感覚を思い出した。
「鼓。初めて聞くけど僕たちって昔会ったことある?」
鼓は何も言わずに僕をじっと見つめる。光に当てられる彼女の顔はとても美しい。
僕は彼女に手を取られそのまま身体をゆだねた。その時、僕のそばにあの鮫がいた。鼻先で僕の身体を押すように泳いでいる。
小さい頃はこの二人に助けられたのかな。自分の中で納得感はあったが、わざわざ答えを出す必要はないかな。とも思った。
ある程度泳ぐと鮫はその場に停止した。こちらをじっと見つめる。僕がありがとう。と伝えると鮫は海底へと。
海面に近づくにつれて、僕の意識は徐々に薄れていった。
荒れていた海は嘘のように静かだ。明るい日の光が海を照らし、美しく輝いている。海のそばではカモメが飛び、緩やかな風が木々を揺らし、さざ波の音が耳に入る。
「沖嗣さん・・・これは・・・。」
「だから言ったであろう。ワダツミ様の怒りを買うと。」
祖父と鼓の父。そして工事関係者たちが工事現場に来ると彼らの顔が青みがかる。工事現場はまるでそこにはなにもなかったかのように、何も残されていなかった。海にすべて呑まれたのだ。
「あれ!あそこに人がいるぞ!」
作業服の男が声を上げた。岩礁に人が倒れているのが見える。祖父と鼓の父は何かを思い出したように血相を変えて車に乗り込んでそこへ向かった。
「碧!碧!しっかりしなさい!」
「あぁ・・・。鼓。どこに行っていたんだ。心配したんだぞ。」
大人たちの騒ぎ声は耳に入らない。僕と鼓は互いの手を取り合い、穏やかな表情。祖父たちの沸き立つ焦燥感と違い、僕たちの心は今の海のように凪であった。
後から聞いた話だが僕たちは気絶していただけで、外傷も何もなかった。一応街の病院で精密検査も受けたが、異常はどこにも見られない。
夏休みの大部分をここで暮らしていいたので、真っ白だった僕の肌はかなり日に焼けていた。水族館に行ったり、海の潜ったり、バーベキューをしたり。僕の価値観を大きく変えた夏。僕は鼓とラインを交換した。なかなかここには来れないから。最後に彼女と約束した。6年後またここに戻ってくると。
心地よい振動に揺られながら海を見ているとあっという間に駅についた。あの時よりもだいぶ背も高くなり、体つきもしっかりした。大きなキャリーバックをガラガラと引く。駅を出ると、祖父の代わりに次の神主候補の人が迎えに来てくれた。天宮家の人ではないが、もうそんなことに縛られなくていい。継ぎたい人が継ぐべき。祖父の考えも変わった。
車から見える景色は随分と変わっていた。ビーチには多くの人が訪れ、古民家しかなかったところは古民家風の宿に改装されていた。観光客が多く訪れるこの場所でも名物はドルフィンスイムらしい。ある時からイルカがこの海にも回遊してきたらしい。駅にも大きなポスターが貼ってあったな。と思い出した。
「ありがとうございます。荷物はあとで下ろすので乗せておいてください。」
僕はそういうと肩掛けの大きなカバンを持って軽い足取りで海へ向かった。現在東京の大学で海洋微生物の研究をしている。大学院にも無事進めることが決まり、これで研究に専念できる。将来は海洋生物の研究者として生きていくつもりだ。企業との研究で微生物を使い、海に浮いているごみを分解するプロジェクトも進めている。
懐かしい岩礁。鼻をくすぐる潮の香り。僕が今の僕になることができた思い出の場所。後ろから足音が聞こえる。待ち望んだ。振り返ると鼓がいた。短かった紺色のショートヘアはロングヘアに。あどけなかった少女の顔は綺麗な女性に。でもガラスのように透き通った瞳はそのままだ。白いワンピースが大人の女性と少しあどけなさを感じさせる。
風が二人を包む。波の音が心地よく耳に入る。太陽の光に反射した海面がキラキラと輝き、二人の再開を祝福する。
鼓は僕に近づいてきて、覗き込むようにして言った。
「ねぇ。君は・・・海が好き?」
「あぁ。大好きだ。」
濁りのない透き通った思い。僕たちはこの美しい海を守っていくと改めて約束した。