六話 変わり始めた僕
次の日の朝も豪雨だった。一向に晴れる気配すらない。僕は祖父の部屋で正座をしてテーブルの上にある石の入った木箱を見つめていた。これだけが鼓の手がかりだ。座ってから五分ほどの短い沈黙が流れた。祖父は曲がりはじめの背を伸ばし、目を瞑っている。まるで僕から話すのを待っているかのようだ。
「あの・・・じいちゃん?」
祖父は無言のまま。怒っているのだろう。そう思うのも無理はない。物置に無断で入り、神社の大事なものを無下に扱ったのは僕だ。
「じいちゃん。教えてくれないか?一体それがなんなのか・・・。」
僕は真剣な眼差しで祖父に視線を送った。それを感じるかのように祖父はゆっくり目を開き、部屋に入ってから初めて視線が交差した。
「これはな。神社に古くから伝わる海の宝物。海の恵みと呼ばれているものだ。」
祖父の話を要約すると、この石は海の神。ワダツミ様が人間の信仰と引き換えに海から分け与えたものらしい。神社ができるよりもずっと昔に。幾年かに一度、海への信仰を深めるべく、巫女が海へ飛び込み祈りを捧げている。との言い伝えだった。僕は納得できなかった。それは書物の絵と言い伝えが繋がらない。なぜ荒れ狂った海に飛び込んでいるのか。そして飛び込んだ女性は悲しい顔で石を持っている人たちだけが笑顔なのか。
「じいちゃん。これって・・・生贄なんじゃないの・・・。」
言葉が我慢できずに漏れてしまった。神主からすればいいようには捉えられない。でも僕にはそうとしか考えられない。深刻な表情で祖父の顔を見た。想像とは違い祖父の顔に悲しみが滲んでいた。
「これはもしかすると海から与えられたものではなく、盗んでしまったものじゃないか。儂はそうとも思っていた。」
「少なくとも今まで言い伝えのように巫女が海の中で祈るところは見たことがなかった。白帆祠には巫女がいないからの。」
僕は黙って聞いていたが、内心怒りがこみ上げていた。この話が本当であれば今まで何人の女性が海のために生贄になったのか。海なんてやっぱり大嫌いだ。心からそう思った。
「なんでそう思ってたのに、これを・・・。こんなものを!ずっとここに置いてたんだ!」
僕は勢いよく立ち上がり、祖父に対し声を荒げた。そして物置で起こった出来事を祖父にぶつけた。祖父は一瞬驚いた顔をするもすべて受け止めてくれた。
「碧。その子を助けたいか?」
「もちろん。」
祖父は再び腕組みをし、ゆっくり目を閉じた。
「この石だけは絶対に海に近づけてはならない。古くからそう言われていた。もし海に返してしまえば、いただいたものを返すという失礼な行為に当たると・・・」
僕は憎しみのこもった目で石をじっと眺めた。こんなもの。こんなものがあるから鼓は・・・。拳が白くなるぐらい握りしめた。
「・・・碧。今のお前では彼女は救えない。きっと彼女は戻ってこないぞ?」
「なんで!なんでそう言い切れるんだ!」
全ての怒りをぶつけた。こんなに怒ったことはない。祖父の言葉の意図が全く理解できない。声を荒げすぎて少し声が裏返った。僕が続けて声を上げようとした瞬間、祖父はパッと手のひらを向けた。あの時の鼓と同じように。
「彼女のことをよく見て、考え、何を思っているのか。自分の目ではなく。相手の心を感じようとしてみなさい。今のお前は荒れ狂った海そのものだ。」
僕は奥歯をぎりっと噛みしめ、言葉を飲み込んだ。鼓を奪い取ったあんなものと一緒にされたくなかった。祖父は鼻から長めに息を抜くと、ゆっくりと天井を見上げ、再び僕に視線を移した。
「荒れた海は危険だからの。本当は行ってほしくないが。約束だけしてくれ。危険なことだけはしないと。」
頭に血が上っていたが、考えてみれば孫がこんな天気で海に行くのだ。心配するなという方がおかしい。
「わかった。そこは約束する。」
「そしたら儂はできることをしよう。お前が帰ってくるまで祈祷をしよう。」
祖父が部屋から出ていくのを確認した後、僕は石の入った木箱を持って海へと向かった。
「これはすごいな・・・。」
ここ最近で一番海が荒れている。今にも襲い掛かってきそうなほどに。僕はあまりの凄さに感嘆の声を上げてしまった。すぐには気づかなかったが、目を細め遠くの工事現場。鼓の父と初めて会ったところで人がいるのが見えた。目を凝らしてもあまり見えなかったので、スマホのズーム機能で覗いてみると、なにやら大人が十人ほどで揉めている。スーツ姿の男性は鼓の父だろうか。少し観察してみると、この豪雨で海が荒れているのに工事を進めている。さすがに無謀じゃないか。と思っていたが僕も似たようなことをやることに気が付いた。
ーこれを海に返すんだ。待ってろよ。鼓。ー
僕は心の中でそう強く唱えた。強く唱えないとこの海に心も体も飲み込まれそうな気がしてならない。
ギリギリ波が来ないところまで歩いたが、まだ遠い。僕は波が引いた瞬間、急いで走り出した。そして石を海へ投げ入れると、急いで海から離れた。しかし、無情にも波が僕を襲う。ヤバい。と一瞬危険を感じたが何とか波に飲み込まれることはなかった。
ー頼む。これで何とかなってくれ。ー
僕は海と睨み合った。しかし、何も起こらない。何も変わらない。岩礁の上で俯き、一人表情を沈めた。身体がだんだん冷えてくる。
ーだめなのか・・・畜生。畜生。畜生。ー
悔しさから腹の奥底が熱くなる。こんな気持ちになったのは初めてだ。昔からすぐに諦めてしまう性格だった。器用貧乏でなんでもそこそこにできた。小さい頃やっていたサッカーも勉強も上手くいかなくなると辞めてしまう。あと一つ壁が破れず、冷めてしまう。
でも今は違う。少し変われた気がした。僕一人では変わる兆しさえなかった。今まで生きてきた16年をひっくり返してきたあの子に。まだありがとうって言えてない。
「おい!もし生贄がなんでもいいなら僕ならどうだ!僕を持っていけ!その代わり鼓を返せー!」
その瞬間、大きな波が岩礁へとぶつかり、水しぶきが僕の身体へと降り注いだ。その後、僕は海の中へと溶けて混ざり合った。
身体がゆっくりと沈んでいく。僕はそっと目を閉じた。少しずつグラデーションのように光が失われていく。底へ落ちていくとき、激しい激流に捕まった。僕は天宮の家系への天罰だと思い、抵抗しなかった。しかし、飲み込まれて数十秒たったとき、何かに右手を引っ張られた。目を開けてみるが、暗くてよく見えない。大きい魚のような何かだった。
ーこの感じ。昔もどこかで・・・ー
ぼーっとしながらそのまま引っ張られていると海底に青白く輝く石を発見した。僕の身体はそこへと連れていかれるようだ。徐々に石の光によって周りが見えてくると、僕は心臓がドクン、ドクンと大きく跳ねるのを感じた。右手に大きな鮫が食らいつき、僕を引っ張っていた。体長は二メートルほど。恐怖で身体が固まる。身の毛もよだつ恐怖を感じた。
青白く光る石のもとに連れていかれると、鮫は食らいついていた右手から離れ、僕の周りをゆっくりと回遊した。
ーなんだんだ。この鮫は僕を食べようとしたわけではないのか?ー
僕がねぇっと話しかけると鮫はピタッと泳ぐのをやめてこちらを向いて止まった。
「君はなんなの?僕にどうしてほしいの?」
それを聞いた鮫は光る石に大きな尾を二回ほど打ち付けた。僕が石を持ち上げると、光が太いレーザーのように収束した。鮫はその方向に泳いでいったので、僕も後を追いかけた。
鮫は時折僕の方をチラチラと確認してくる。ちゃんとついてきているか確かめるように。なんなんだ。と声を漏らした。徐々に持っている石の光が強くなる。レーザー状に収束していた光がほどけていく。
目の前に大きな祠が現れた。物置で見た時とは違う。僕はこの近くに鼓がいると思い、声を上げた。
「鼓?どこにいるんだ?返事をしてくれ!」
返答はなかった。僕の声は海にかき消された。
僕が呆然と立ち尽くしていると、鮫が横からトントンと鼻でつついてきた。なんだ?と思い、追いかけると鮫があるところで止まった。近づくとそこには神棚のようなものがあった。不自然に真ん中にスペースが空いている。何をすべきか理解した。
ーお願いします。鼓を返してください。ー
手に持つ光る石を丁寧に神棚へと献上した。すると石の光が祠を這うように全体に広がる。その後、扉の枠がぼんやりと青白く光り出した。僕は深呼吸をし、その扉に両手で力を込めて開けた。
その奥にはうずくまった女の子が膝を抱えていた。