三話 海の気持ち
鼓が荒れた海に飛び込んだ時に、僕は何もできなかった。多分あれは運よく波が落ち着いただけだ。目の前で人が死んでいたかもしれない。そう思うと怖くてたまらなくなった。
僕は岩礁の上で膝を抱えて、嘘みたいに静まり返った海を遠目で眺めていた。その横に座っている鼓は穏やかな表情で風を感じている。
「ねぇ。私が海に入った時どう思った?」
二人の間に沈黙が流れる。耳に入るのはさざ波の音。僕は怒りをこらえられず拳を握りしめた。
「どう思ったじゃないだろ!たまたま生きていただけで死んでたかもしれないんだぞ!ふざけんな!」
視界がぼやけてくる。心拍数が高くなる。息が荒くなる。僕は鼓を睨みつけた。
「でも私生きてるよ?」
「それはたまたま・・・」
僕が口を開いた時、鼓の人差し指が僕の唇に触れた。鼓の無垢な表情が目に映る。鼓は首にかけてあるネックレスをくぐるように外した。
「これ。これのおかげだよ。」
鼓の手の上には青緑色の石の欠片でできたネックレスがあった。
「手を出して。」
鼓は僕の手のひらにそのネックレスを優しく置いた。その石は不思議と目が釘付けになる。そしてどこか温かい。怒りが静まっていく。僕はネックレスを返した後、鼓は大事そうに手で包んだ後、その手を胸に当てた。
「これはね。お母さんの形見なんだ。これを身に着けて海に潜るの。それで海の神様に願いを込めるとさっきみたいになるんだよ。」
僕はにわかには信じられなかった。そもそも海が荒れるのは気圧や海面を吹く風が主な原因だ。そんなことは高校生なら大体わかっているはず。
でも鼓の真っすぐな瞳は嘘をついているようには見えない。
ーほんとうにそんなことあるのか・・・ー
疑念が頭をよぎる。しかし、どうであれ、荒れた海に人が飛び込むなど心臓がいくつあっても足りない。
「わかったよ。信じるからもうやめてくれ。」
「ありがと!碧君はやさしいね。」
鼓の笑顔をじっと見てられなくなり僕は再び海へ視線を移した。
「よし!じゃあ私が今から碧君の先生です!海を楽しみましょう!」
僕は鼓に手を引かれ、つんのめるように走り出した。
苦行の始まりだ。嫌だと言っているのに無理やり海に入らされた。浅瀬から始まり、どんどん深くなっていく。腰まで海に使った時は、身体が硬直した。それを見た鼓がクスクスと小さく笑う。
「はい。これつけて。」
鼓から渡されたのはゴーグルだ。僕は渡されたゴーグルをキュッと握りしめた。
ゴーグルを装着し、いざ潜ろうとするができない。身体が拒絶する。何回か挑戦するもできない。
正直もうやめたい。こんなことして何になるんだ。と心の中で呟いた。
「もういい・・・」
僕はそう言い捨てた。情けない。毎回こうだ。やろうと思っても上手くいかないとすぐ諦める。僕はなんてだめなんだ。奥歯をぎりっと噛みしめた。
その時、鼓は母の形見であるネックレスを外し、僕の首にそっとかけた。
「えっ・・・」
と反応し顔を上げると、鼓が真っすぐに僕をみている。
「お守り。貸してあげる。」
僕は深呼吸を繰り返す。心の中にある恐怖をすべて外へ出し切るように。
そして僕は水面を顔面で殴りつけるように海へ潜った。
鼻が痛い。強く水面に打ちすぎた。しばらく目をつぶっていたが、パッと目を開くと驚いた。
ー別になにもないな。ー
海中をきょろきょろと見渡すと、小さな魚の群れがいた。手を伸ばすと魚たちは散って、また小さな魚群になった。
ぷはっと顔を上げる。小さな浅い呼吸を繰り返しながら、僕は呆然と海を眺めた。奥まで何もないこの広大な海を。
「どう?海好きになった?」
「まだわかんないかな。」
僕は鼓にネックレスを返すと、再び海に潜った。
僕たちはずっと泳いでいた。海の中の新しい発見は少し面白い。都会の学校でずっと成績に追われていた。すぐに諦める自分が嫌いだった。海の中ではそんな僕なんて関係ない。ただ生き物が生きている。それだけだ。
日が暮れあたりがオレンジ色に染まる時間。僕たちは体を冷やさないように着替えた後、沈む夕日をただ眺めている。
「あのさ・・・」
「ん?」
「楽しかったかも。」
「なにが?」
僕が小さな声でボソッと言うと、鼓は耳に手を当て聞き返してきた。
「だから!楽しかったかもって言ってるの!」
鼓を見るとニヤニヤと笑みを浮かべ、僕に視線を送る。恥ずかしくなり鼓から目を背けた。
二人はこの場所でただ波の音だけを聞くだけで満足していた。
そんな中、この場にそぐわない機械音が二人の耳に飛び込んできた。
「何の音?鼓?」
鼓は急いで立ち上がり、音のする方へ走っていった。
「おい!待てって!」
僕は全速力で走る彼女の後を追いかけた。
しばらく走った後、見えたのはただの工事現場だった。少し大規模ではあるが東京では珍しくない。どうやら海の埋め立てをする工事のようだ。
鼓は工事現場にいるスーツ姿の男性に向かってさらに速度を上げて走っていった。
「お父さん!」
僕も必死についていったが、もう限界。息が苦しい。それに対し鼓は軽く息が上がっている程度。
ーお父さん?ー
白髪の混ざった背の高いスーツ姿の男性。年は五十代ぐらいで威厳のある顔つき。どこかで見たことがある気がする。その時、近くに止めてある車を見て思い出した。
あの時、神社に来た人だ。
「この工事ってまだ沖嗣さんの許可とってないよね!なんでこんなことするの!」
鼓は声を荒げた。透き通っていた声が荒れた波のように。
「鼓。前にも話したがすでに自治体の許可は取れてるんだ。わざわざあの人の許可はいらないんだよ。もう日が暮れるから家に帰りなさい。」
鼓は悔しそうに俯き、拳を震わせていた。悔しさが体中から溢れている。
「鼓。大丈夫?」
鼓は下を向いたまま僕のそばを横切った。僕はペコリと頭を下げ、鼓と一緒に帰った。道中会話する雰囲気でもないため、僕たちはただ歩いていた。
「碧君。ごめんね。またね。」
鼓はそう言い残すと走り去っていった。
夜が更け布団の中で鼓の様子が気になっていた。もちろん海が好きでその海を埋め立てられるのは嫌かもしれない。でもそこまで怒ることなんだろうか。そんなことを考えているうちに僕は眠りに落ちた。
コポコポと小さな太鼓のような音が聞こえる。目を開くと光のカーテンが海中に広がる。流れが僕の身体を心地よく揺らす。あたりを見渡せば優雅に泳ぐ魚の群れたち。サンゴ礁の周りにはさらに小さな小魚たち。しばらくこのままで。ずっとこうしていたい。
そんな時、急にあたりが暗くなった。見渡すと今までいた魚たちの影がない。急な寒気が襲ってくる。瞬く間に僕の身体は激流に飲み込まれた。ミキサーの中でかき混ぜられたように、上下左右の感覚を失った。
ー誰か助けて。ー
そんな時、何かが右手を引っ張る感覚と左のわき腹が押される感覚。
必死に僕を押している方に目を向けた。
ー鼓?ー
僕をドンと押すと少女は薄暗い海底へと沈んでいった。必死に手を伸ばすが僕は引っ張り上げられ、意識が薄れていった。