二話 鼓の秘密
「お~い!海は好きですか~?聞いてるんですけど~?」
足元の影が少し伸びてきた頃、僕は早足で神社へと向かった。手に持った袋の中は空き缶やらゴミがたくさん入っている。
足早に帰ろうとしているのは、後ろの女の子のせいだ。
僕の注意で海に落ちたからしょうがない。もとをただせば彼女のせいな気もするけど。その後が問題だ。僕が決死の思いでもぎ取った雑誌をこれ見よがしに見せてくる。あどけない顔をにやにやとさせて。僕は彼女を無視するように急いで掃除を終わらせた。
海は好き?
この問いには答えられなかった。好き?とまっすぐに聞いてきて、嫌いです。なんて僕には言えない。
「あの~聞いてますか?もしも~し・・・」
「・・・おっぱい聖人」
早歩きだった僕の足がピタッと止まる。後ろを振り向くと、彼女は覗き込むように僕を見つめた。ところどころ乾いた紺色の髪が小さな束になりフワッと揺れた。
「あのさ!助けてくれたのはありがたいんだけど。そういうこと言うのやめてもらえる!?」
日に焼けているのか、体温が上がっているのか。それとも恥ずかしいのかはわからないが、顔に熱を帯びた。
「あはは!やっとこっち見てくれた。」
「ねぇ。君は海が好き?」
この質問にまた困惑の色が浮ぶ。目つきの悪い目を彼女からそらし、
「あんまり好きじゃないかも・・・」
小さくぼそっとつぶやいた。あまり否定的なことは言いたくない。そういう性格だ。彼女がどういう表情をしているのか気になるが、彼女のほうを見られない。視線を地面に落とした。
「そっか~。わかった!じゃあ私が海を好きにさせてあげる!」
地面に映る影がクルっと回り、弾むような声色が耳に飛び込んできた。僕は口をぽかんとさせ顔を上げる。
「君。名前は?」
「天宮碧。」
「私は波乃鼓。鼓でいいよ!碧君!」
彼女の天真爛漫な笑顔が僕に降り注ぐ。東京の学校では見たことない雰囲気。僕は少し気おされた。
「じゃあ、神社まで競争だ!よーい!ドン!」
「おい!ちょっと!」
僕と鼓は白帆祠神社までの一本の道を駆け上がった。
神社に着くころには僕の息は上がりきっていた。手を膝の上に置き、肩で息をしていた。
「私の勝ち~!」
「お前。俺はゴミも持ってて・・・。長靴なんだぞ。」
子供のような笑顔で勝ち誇った顔をしながらピースサインをする彼女を体力が限界の僕は横目で見るしかなかった。
「碧。お疲れ様。鼓ちゃんも一緒だったか。」
「沖嗣さん!こんにちわ!海のお掃除手伝ってきました!」
「沖嗣さん?」
沖嗣とは祖父の名前だ。基本的には天宮の性で呼ばれるため、名前で祖父を呼ぶ人はあまりいない。
「なんだよ。じいちゃん。知り合い?」
話を聞くと祖父だけではこの神社や海まで手入れができないため、町内会の催しで神社や海の清掃を始めたらしい。鼓もそこに参加した子供の一人でその催しがなくなっても時折手伝っているそうだ。
「二人のおかげで助かったよ。ありがとう。」
祖父の柔らかい表情は久しぶりに見た気がする。小さい頃はよく見ていたが、あの時以来あまり見なくなった。昔を思い出して懐かしい気持ちになった。
「鼓ちゃん。碧はすぐに部屋に引きこもってしまうから遊んでくれるか?」
ー遊んでくれるかって。僕もう高校生なんだけど・・・ー
若干引き笑いを浮かべ、祖父に苦い視線を送る。
鼓は考え込むように顎に手を置き、思慮深い表情をしていると、ブーブーっとスマホのバイブ音が鳴った。鼓は帰んなきゃと言い残し、僕の横を通りすぎた。彼女を追うように視線を向けると、なにか思いついたようにこちらを振り向き、
「あっ!明日!今日掃除した場所にきて!絶対だからね~!」
そう言い残し、彼女は僕に大きく手を振りながら、走って一本道を下って行った。
その日の夜。一時的な大雨が降り、雨音がうるさい中僕は眠りについた。
次の日の海を見てみると、大きく荒れていた。僕はスマホをいじり、外を眺めていると祖父が部屋に入ってきた。
「碧。支度しなくていいのか?」
僕は素っ頓狂な顔で祖父の顔を見ていた。小さいころと比べ、肌は皺皺で髪は真っ白。もうすっかり後期高齢者だなと感じていた。
「くだらないことを考えてないで、支度して海に行ってきなさい。」
「いや~。さすがにここまで荒れてたらあいつもこないでしょ。またどっかで会ったときにリスケすればいいよ。」
そう言ってスマホに目を向けると、祖父が勢いよく取り上げた。怒られると思って薄目で祖父を見上げると神妙な顔つきで僕を見ていた。
「いいから行ってきなさい。いなければ帰ってきていい。」
祖父の顔つきに違和感を覚えるもひとまず海に行ってみることにした。外に出ても波の音が聞こえてくる。歩く道中にざぱぁっと白波が立っているのが見えた。
ーやっぱり海って嫌いだな。ー
昨日のことでさらに嫌いになったかもしれない。僕は心でそうつぶやき、ポケットに両手を入れ重い足取りで海へ向かった。
岩礁の近くに行くと荒れ狂った波の音が耳に飛び込んでくる。こういう時近くに海に来てはいけないってニュースでよく流れている。
岩礁に近づくのも嫌だが、その中に紺色のショートカットの女の子の姿があった。鼓だ。こちらを向いて静かに手を振っている。
大きな波が岩礁の端に当たり、しぶきが鼓の足元まで飛んできている。
「おい!危ないぞ!早くこっちにこい!」
僕の声は波の音にかき消される。鼓がこっちに来る気配はない。
「マジで!危ないからそこから離れろ!」
今にも波にのまれるのではないか。胸に焦燥感が沸いてくる。僕の焦りが大きくなった。何も考えているのかわからないが、鼓が岩礁の端に向かって歩いていく。しぶきが徐々に鼓の体に多く降り注ぐ。
「畜生!待て!」
海への恐怖よりも目の前で人が亡くなってしまうのではないか。その怖さが大きくなって走り出した。もともと鼓がいたぐらいの位置に来るが、僕の足にもしぶきがかかる。そこで脚が止まってしまった。鼓は今にも荒波にのまれるところまできている。
「えっ・・・」
僕は目の前の出来事に声をこぼした。
鼓が自ら荒れ狂う海の中へ飛び込んでいった。急いで岩礁の近くまで行くが、実際に荒れた海を目にすると恐怖心で体が動かない。
「鼓ー!」
情けないがただ声を上げることしかできなかった。その時、海の中で何かが光り輝いている。蛍の発光に近いが、色は青白い。僕の瞳にはその光しか映らなかった。
「呼んだ?」
海の中から鼓が顔を見せた。初めて会ったときと同じ表情。こちらをただ覗き込むように見つめていた。
この時僕はすぐに気づけなかった。
荒れ狂っていた海が、気づかぬうちに水面が鏡のように静まり返っていた。