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最終話 魔法学園からの手紙

 髪の毛、伸びたな。


 リアはブラシをかけながら鏡の中の自分を見つめる。


 みつあみを作ろうとして、ふと思いなおす。

今日はこのまま下ろしておこう。


 ドレッサーボックスの隅に置いていた髪飾りを手にとる。


『一生宝物にする』


 あれはいつだったか……ギラギラと日差しが照りつける、太陽そのものみたいに賑やかな街角、ルロイの横ではしゃいでいた。


 リアは髪飾りを戻して蓋を閉じると、ドレッサーボックスを鞄の中に入れた。





「魔法は使うものによって道の先を照らす光にも、人を傷つける刃にもなりえます。この先、みなさんの魔法が世界を照らす光となりますことを願って式辞といたします」


 壇上で学園長のノイフェルトが真面目くさった顔で話すのをリアは不思議な気持ちで聞いていた。


 下卑た笑みを浮かべながらリアに貧乏神をなすりつけてきたクソジジイ(すごろくおじいちゃん)と本当に同一人物だろうか。


 いや……そんなものなのかもしれない。


 かつて日々を過ごし、主君を失った城で学生たちの成長を見守る。

時には友情破壊双六(クソゲー)でハメを外して、フィーアに呆れられながら。


 それが、クソジジイ(学園長先生)が長い旅の末に手に入れた安息なのかもしれない。


「卒業おめでとう」


 クソジジイはそう言って一礼した。





「2年間お世話になりました」


 教員室でリアはブラスに頭を下げた。


「おう、お疲れさん」


 ブラスはいつも通りの調子で言った。


「最初はどうなるかと思ったけど、よく頑張ったな」


 確かに魔学も実習も最終的に及第点まではもっていくことができた。

赤点をとって絶望してた時のことを思うと、こうやって無事卒業できたことは感慨深い。


 でも……リアはため息をつく。


「どうした?」


 ブラスは不思議そうに聞いた。


「私、結婚するんですよ……地元に帰って」


「ああ、そうだったな。おめでとう」


 おめでとうか……そう言われたのははじめてかもしれない。


「結婚して、幸せになれるんでしょうか」


 リアはぽつりと言う。


「それは知らん」


 ブラスは即答した。


「ええ……嘘でも『お前なら大丈夫』とか言ってよ」


 なんていうか、人生経験から来るアドバイス的なやつがもらえると少し期待したのに……ブラスがあんまりはっきり言うのでなんだか面白くなってきた。


「まあ、何でも試してみたらいいんじゃないか? 若いんだし」


 ブラスはそう言って笑った。


 そんなものだろうか。

それにしてもこんなに楽しそうなブラスははじめて見たかもしれない。


「元気でな!」


「はい、ありがとうございます」


 笑顔のブラスに再び礼をするとリアは教員室を後にした。





 教室棟の階段を降りると廊下に立っていたリチョウと目が合った。


「リチョウ……」


 リアを待っていたのだろうか。

リチョウは何も言わずにこちらを見ている。


「少し、話そうか」


 リアが言うとリチョウは静かに頷いた。





 3階まで来ると空き教室には誰もいなかった。


「もう卒業だもん、早いなあ」


 リアは窓から外を見る。


 春の柔らかい日差しの中、木々が静かに揺れている。


「最初は魔法理学が全然わからなくてさ、講義に出るのが嫌で仕方なかったんだ……赤点取っちゃったし」


 リアが笑いかけても、リチョウは黙ったままだ。

ずっと何かを言いたそうに下を向いている。

まあ、リアの思い出(あたまがわるい)話が聞きたいわけではないんだろう。


「本当に、帰っちゃうんすか?」


 リチョウが小さい声で言った。


「しつこくてすみません……どうしても、その、こっちに残るわけにはいかないんですか?」


 雲が太陽を覆ったのか、ふいに世界から隠されたかのように辺りが暗くなる。


「だって……悔しいっす」


 リチョウはうつむいたまま言葉を続ける。


「ルロイ先輩と一緒に行くってなら、わかるし、諦めもつきます。でも、その、全然好きでもないやつと結婚するんでしょ」


 リチョウはふぅーっと大きく息を吐いた。


「なんなんだよ、それ」


 窓の外から聞こえてくる風の音がやけに耳に響く。


 リチョウはやるせなさそうにこぶしを握りしめると、顔を上げてリアを見た。


「もっと、パイセンのこと知りたくて、もっと、仲良くなりたいって思ったのに……これで終わりなんですか?」


 震える声から、気持ちが刺さるほど伝わってくる。

リアにはもったいないくらい、まっすぐで真剣な思いだ。


 でも、受け取ることはできない。


「ありがとうね」


 めいっぱい背伸びをして、リアはリチョウの頭を撫でた。


「何なんすか、もう……子ども扱いして」


 リチョウが切なそうに言う。


「あのさ、私のこと、ずっと覚えててくれる?」


 リアはリチョウの頭に手を伸ばしたまま言った。

リチョウは何も言わずにただリアを見ている。


「私さ、地元に帰ってちゃんと役目を果たすから、頑張るから、私のこと、私が、魔法学園にいたこと……覚えててほしいの」


 リアが学園にいたこと、魔法を学んでいたこと、みんなが別々の道に進んで、すべてが新しくなったあとも、記憶の片隅には残しておいてもらえるんだろうか。


「私も、忘れないから……リチョウがここにいたこと」


 そう言ってリアは笑った。


「立派な魔法使いになってね」


 リチョウは何も言わなかった。


 何も言わずに両手でリアの手をとると、小さな生き物でも抱くかのようにしばらくながめてから、目を閉じて手の甲に優しく口づけした。


 肌に触れた温かい唇がくすぐったくて、リアは小さく体を震わせる。


 しばらくの間、時間が止まったように2人とも動かなかった。


 窓の外からは木々を揺らす風の音が聞こえてくる。


 雲の切れ間から差し込んだ光が教室を明るく照らし出したとき、リチョウはゆっくりと目を開けた。


「パイセンのこと、忘れないっす」


 静かな声で言ったあと、リアに向かって頭を下げた。


「お世話になりました」





 リアはゆっくりと階段を下っていた。


 手の甲に残るキスの感触が胸をしめつける。

優しく触れた唇から、リチョウの思いが体中に流れ込んでくるみたいだった。


 部屋に戻る前に、少し気持ちを落ち着けていこう。


 リアは図書室を抜けて裏庭へ続く扉を開いた。


 柔らかい日差しの中、優しい風がたんぽぽを揺らしている。


 壁際でヨゼフがクラムを抱きしめながらキスをしていた。

ヨゼフは一瞬だるそうにリアをチラッと見ると、何事もなかったかのように再び目を閉じた。


 失礼しました!


 リアはあわててドアを閉めた。





 廊下を歩きながらリアは大きく息を吐いた。

あまり用もないのにウロウロするもんじゃないな。


 遠距離になるから別れを惜しんでたのかもしれないけど、知り合いのそういうシーンはできれば見たくはない。


 さっきのリアも一歩間違えば誰かに目撃されていたのかもしれない。


 高ぶっていた気持ちが一気に冷めた気がする。


 なんだか可笑しくなってきて、リアは小さく笑うと軽い足どりで寮の階段を上った。





「それ、全部持ってくの?」


 メイリはリアの荷物をまじまじと見た。


 実家から持ってきたものに加えて、買い足した服と教科書、魔学式のノートを入れたらもう鞄はパンパンだ。


「うん、向こうでもたまには魔学式を組んだりしたいし、勉強道具も持って帰ろうと思って」


 初日からリアを苦しませ続けた魔法理学だけど、教科書を置いていく(それをすてるな)気にはなれなかった(んてとんでもない)

一時期は表紙を見るのも嫌だったな……リアは苦笑する。


 何が書いてあるかは最後までよくわからなかったけど、ずっと持っていよう。

もしかしたら、将来なにかの役に立つ(重要アイテム)かもしれない。


「メイリは荷物、それだけ?」


 メイリの持ち物は最初に持っていた皮袋ひとつに収まっていた。


 旅に出るにしても、少なすぎるんじゃないか。


「教科書とか、持っていかないの?」


 リアの言葉にメイリは頷いて頭を指さす。


「必要なことはもう頭に入ってるし……」


 メイリはふっと楽しそうに笑った。


「旅立ちは身軽なほうがいいから」


「そっか」


 リアもなんだか嬉しくなって笑った。

身軽になれるのは、きっと自分にとって大切なものをちゃんとわかっているからだ。


 メイリはこれから故郷へ向かって長い旅に出る。

旅路の先に何が待っているかはわからないけど、きっとジャンとはずっと手をつないでいくんだろう。


 リアは空っぽになった部屋を眺めた。


 これからこの部屋には、どんな学生が入ってくるんだろう。


 最初はぎこちない会話から始まって、知らない間にいちばん近い存在になっていくのだろうか。

リアとメイリがそうだったように。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


 そう言ってメイリが立ち上がると、リアも頷いて鞄を持った。


「重っ!」





「2年間お世話になりました」


 リアとメイリは揃ってフィーアに頭を下げた。


「困ったことがあったらいつでも来なさいね。ここはあなた達の第二の故郷だから」


 フィーアはそう言うと優しく笑った。


 かつて、この城に王がいたとき、フィーアはお姫さまだった。

ある日突然日常は奪われて、放り出された外の世界は決してやさしいものではなかっただろう。


 フィーアはここにたどり着くまでにどんな道を歩んできたんだろうか。

横には、いつも学園長先生がいたんだろうか。


「じゃあ、旦那とうまくいかなくなったら帰って来ようかな」


 リアの言葉にメイリも笑って同調する。


「あ、じゃあ私も村の暮らしに飽きたら戻って来ようっと」


 フィーアはニヤリと笑った。


「いいけど、そのときはちゃんと働いてもらいますからね」





「この城ともこれでお別れかあ」


 そう言ってメイリは校舎を振り返る。


「今までありがとう。ジャンと仲良くね」


 リアが言うとメイリも笑って頷いた。


「うん、お互い頑張ろう」


 メイリが差し出した手をリアはしっかり握る。


「楽しかったね」


 メイリがリアの目を見て言った。


「うん、楽しかった」


 リアもメイリを見つめ返して笑った。


「じゃあ、元気でね」


 メイリはそう言って手を振ると、長い家路を帰っていった。





「パイセン!」


 元気な声に振り返ると、クラムとヨゼフの姿があった。


「さっきは、あの、すいません変なとこ見せちゃって……」


 クラムは少し気まずそうに言った。


「ああ、こっちこそ邪魔しちゃってごめんね」


 たぶん用もないのにあのドアを開けたリアが悪いだろう。

そして、去年リアも似たようなことをしてたとはとても言えない。


「あの、パイセン……」


 クラムは改まったように口を開いた。


「私、なんて言ったらいいのか……会えなくなっちゃうのは寂しいですけど、その、地元に帰っても、パイセンらしく頑張ってください」


 そう言ってしょんぼりしてる様子はすごく可愛くて、リアはぎゅっとクラムを抱きしめた。


「きゃあ!」


「ありがとう。クラムも頑張ってね」


「おいバカ! 離れろ」


 隣でヨゼフが焦ったように言った。


 ケチだな……いいじゃんちょっとくらい。


 リアは腕を解くとヨゼフの方を向いた。


「ヨゼフもいろいろありがとう。グロスヒューゲルに行っても頑張ってね」


 ヨゼフはまじめな顔で頷いた。


「お前もな、地元戻っても双六は続けろよ」


 こいつ……鉄道系双六(キングボンビー)に取りつかれてやがる。


「なんでよ、しないよ双六なんて」


 リアは苦笑する。

なんだか気が抜けてしまった。


「まあ、これからは地元で頑張ってみるよ。だって『魔法も含めての私』だからね」


 魔法使いなことを大っぴらにするわけではないけど、かたくなに隠すことももうやめようと思う。

学園で勉強したことを無駄にしないためにも、魔法との付き合い方をちゃんと考えていこう。


「頼むからやめてくれ……」


 ヨゼフは恥ずかしそうにうつむいたけど、口元は笑っていた。


「今までありがとう!」


 リアは明るく笑って2人と別れた。





「なんだその荷物……商売でも始めるのか?」


 ルロイはリアを見ると面白そうに言った。


「これは……服とか、アクセサリーとか、いろいろ」


 メイリほどではないけど、ルロイも荷物は少ない。

なんだろう……荷物を小さくする秘訣(ふくろシステム)でもあるんだろうか。


「貸せよ、持ってやる」


「ありがとう」


 ルロイに鞄を渡してリアは歩き始めた。


 穏やかな木漏れ日が降りそそぐ山の中、風に乗って花の甘い香りが運ばれてくる。


 いままで、何度こうやって山を歩いたんだろう。


 入学式の日、あまりに山道が険しくて、こんな場所でやっていけるのかと静かに絶望していた。


 はじめてドライツェンまで下りた日は、オシャレな街にはしゃぐ反面、勉強についていけるのか不安でたまらなかった。


 その帰り道にルロイと出会った。


 それからは、ずっとルロイの後ろ姿を追いかけて、気づけば山を歩くのにもすっかり慣れていた。


 夏休みにはルロイと一緒に山を下りて、海を目指して冒険した。

嬉しすぎて楽しみすぎて、足が勝手に駆け出してしまったのをよく覚えている。


 冒険を終えてドライツェンに戻ったときには、もう手をつなぐのがあたりまえみたいになっていた。


 秋も深まったある日、ルロイに誘われてついて行った先には洞窟があった。

暗くて長い洞窟の中には、この学園の悲しい秘密が眠っていた。


 雪がすべてを覆いつくしたような寒い日も、焚き火ごしにただルロイを見ていた。


 この山のどこを見ても、ルロイとの思い出でいっぱいだ。


 深い木々の間を吹き抜ける風も、眼下に広がる景色も、すべてがリアのものだった。


 これからは、この山はまた新しい学生たちの場所になるんだろう。


 ルロイは重い荷物を持って、リアに合わせてゆっくりと歩いてくれる。


 もう少し、もう少しだけ、ルロイの横を歩いていたいけど、それが叶わないことはもう知っている。


 勾配がなだらかになって、リラの香りが濃くなったら、もうドライツェンの街に着く。





 敷き詰められた石畳に、街中を飾る色とりどりの花。


 はじめて来たときは、世の中にこんな素敵な場所があるのかと驚くばかりだった。

今ではすっかり見慣れた、いつもの街だ。


 ドライツェンの街を通り抜けると、街道に出た。


「火、くれよ」


「うん」


 リアが指先に火を灯すと、ルロイが身をかがめて煙草を近づける。

すっかり慣れたこのやりとりも、これが最後だ。


「いい天気だな」


 ルロイが煙を吐きながら言った。


「うん」


 見上げた空は、本当に、混じりけのないすっきりした青だった。


 ルロイが煙草を吸うのを、リアはただ眺めていた。


 きっと、この時間がすべてだった。

何ものにも代えられない、大好きで大切な『いま』だった。


 この時間を閉じ込めることはできない。

小さな箱に入れて、しまっておくことはできない。


 だから、きっと大事なんだ。

ただ通り過ぎていくものだから、輝くんだ。


 馬車の時間まで、もういくらもない。


 ルロイが煙草を吸い終わると、リアはそっと手を握った。


 もう、分かれ道は目の前まで迫っている。

リアがルロイと手をつないでいられる時間は、もう終わってしまう。


 リアは握った手にきつく力を入れる。


「リア……」


 ルロイはふとリアを見る。


 右手はつないだまま、左の手でリアの顔にかかっていた髪をそっと耳にかけた。


 耳に触れた指の感触がくすぐったくて、リアはきゅっと体を震わせる。

ルロイは切なそうな顔でリアの目をのぞき込むと、そっと頬に触れた。


「ルロイ?」


 次の瞬間、力強い腕にリアの全身はすっかり包み込まれていた。


 息が止まるかと思った。


 苦しいほどに鳴る心臓の横で、ルロイの心臓が激しく打っているのが伝わってくる。


 リアは目を見開いて、ただ空を見ていた。


「ありがとう……ありがとうな」


 耳元で、ルロイは本当に小さい声で言った。


 このまま、ルロイの中に溶けてしまうことはできないだろうか。

リアのほんの一部でいいから、ルロイの中に残ることはできないんだろうか。


 ふと寂しくなったときにそっと寄り添って、寒い朝には温めてあげて、そんな存在にはなれないんだろうか。


 目の前の空を小さな鳥が飛び立っていった。


 静かに、でも確実に遠くからひづめの音が聞こえてくる。


 砂ぼこりを巻きあげながら馬車が近づいてきたとき、ルロイはゆっくりと腕を解いた。


「じゃあな」


 ルロイはリアの頭を優しく撫でると、リアに背を向けて馬車に乗り込んだ。


 大都会へと向かう馬車はすぐに走り出した。


 ルロイ!


 大声で叫び出したかった。


 ルロイ!


 ルロイの名前を呼びたかったけど、胸がつぶれてしまったみたいに苦しくて、どうしても声が出なかった。


 ルロイを乗せた馬車は小さくなって、やがて見えなくなった。





 行った。


 行ってしまった。


 リアはその場にずるずる座り込んだ。


 なんでなんだろう。


 こんな日なのに、空はどこまでも青くて、柔らかい風の中には花の香りがして


「行っちゃったな」


 聞きおぼえのある声にリアの感傷は破られた。


「カール!」


「おう」


 振り返ると、大きな荷物を持ったカールが立っていた。


「見てたの?」


 リアはあわてて立ち上がった。


「見てたっていうか……まあ見てたけど」


 カールはルロイが行った方を見る。


「俺も見送りに来たんだよ。でも、最後だし2人きりにしてあげた方がいいと思って」


 そうだったのか。

そういえば、カールとルロイはルームメイトだった。


「お前も帰んの?」


 リアは頷く。


「帰るけど、何日かはまだドライツェンにいるよ。田舎だから、毎日馬車が出るわけじゃないんだ」


「そっか」


 カールは荷物を背負いなおすと、のんきな声で言った。


「腹へらね? なんか食おうぜ」





 薄切りのトンカツが挟まったパンを頬張ると、ざくっと香ばしい味わいが口いっぱいに広がった。


「ああ……美味しい」


 ベーカリーでパンを買って、2人は川辺に来ていた。


 ゆるい日差しを受けて穏やかに流れる川は、いつまでも眺めていられそうだった。


「うまいな」


 隣でカールがのんびりと言った。


 講義のある日はいつもカールと一緒に昼ごはんを食べていたけど、こうやって学外で過ごすのは初めてでなんだか新鮮だ。


 パンを食べ終わってからも、何をするでもなく2人でただ川辺に座っていた。


 リアはふと山の上の学園を見上げる。


 つい数時間前までリアたちの場所だった校舎は、懐かしさとよそよそしさの混ざった不思議な表情をしていた。





「そろそろ行くかな」


 夕焼けで街が赤く染まり始めたころ、カールが立ち上がった。


「そうだね」


 リアも立ってスカートについた草を払う。


「じゃあ、頑張れよ」


「うん、カールもね」


 まるでいつもの放課後みたいに、軽い挨拶を交わして2人は別れた。


 違うのは、『また明日』がもうないことだけだ。


 ルロイは飛び去ってしまった。

そして、学園はもうリアの場所ではない。


 それでも、人生は続く。


『これで終わりなんですか?』


 ふとリチョウの切なげな顔を思い出した。


 そう、終わりだ。


 笑ったり、悩んだり、行きたいときに行きたいところへ行って、好きな人に好きって言ってみたり、そうやって過ごせる時間は終わったんだ。


 それはリアに限ったことではない。


 誰だって、きっとひとところに止まっていることはできない。

前に進まなければいけないんだ。


 強い風が吹いてリアの髪をまき上げる。


 結婚相手はどんな人なんだろうか。

こんな、やりたい放題のめちゃくちゃな女でも優しくしてくれるだろうか。


 いや、違うな。

相手がどんな人でも、きっと優しくしよう。


 うん、それがいい。

これからは、優しい人になろう。


 広場から夕陽に染まった山を振り返る。


 そのとき、リアが失ってしまったものの正体がはっきり見えた。


 ああ、なんだ……そうだったのか。


 寂しい気もするけど、これで前に進むことができる。


 だって、まだ道の途中だ。

来た道を戻るんじゃない、リヒトシュパッツに向かって進むんだ。


 リアは石畳に長く伸びる影を見ながら裏通りへと歩いた。





 重い扉を押すと、ベルの音が酒場の中に響く。


「いらっしゃいませ……あ!」


 カウンターの奥でグラスを拭いていたエーミール先輩は少し驚いた顔でリアを見た。


「リア!」


「えへへ……こんばんは」


 リアは照れたように笑ってカウンターに座る。


「そうか、卒業式か」


 エーミール先輩はリアの荷物を見て言った。


「一杯おごるよ。卒業祝いだ」


「ありがとうございます。じゃあ白ワインを」


 まだ早い時間だからか、酒場は落ち着いていた。


「おまたせしました」


 エーミール先輩はグラスにたっぷりワインを注いでくれた。

片手でボトルを持つ姿はすっかり様になっている。


 エーミール先輩はやっぱり今日もかっこいい。


「リアはこれからどうするんだ?」


 ボトルの注ぎ口をきゅっと布で押さえるとエーミール先輩が言った。


「あと何日かしたら地元に帰ります……結婚するんです」


 リアは小さく笑う。


 エーミール先輩は一瞬表情を強張らせたあと、静かに目を伏せた。


「そうか……」


 エーミール先輩は、リアがいなくなることを寂しいと思ってくれるんだろうか。


「それでね、先輩……」


「ん? 何だ」


 リアはグラスを見つめる。

あふれそうなほどのワインでグラスは満たされている。

 

 お酒を飲む前に言ったほうがいいよな……呼吸を整えてリアは視線を上げた。


「今日、泊めてもらえませんか?」


 言った瞬間、時がとまったみたいにエーミール先輩は固まった。


「ええ?」


 少し遅れて、エーミール先輩が戸惑ったような声をあげる。


「先輩、続きがしたくなったら酒場に来いって言ってたじゃないですか……だから……」


 言ってるうちに恥ずかしくなってきて、リアは視線をグラスに落とす。


 頬が燃えてるみたいに熱い。


 エーミール先輩は黙ったままだ。


「きたんです、けど……」


 おそるおそる目をあげてリアはぎょっとした。


 エーミール先輩は、なんといったらいいのか……ものすごく、ものすごくヤバい顔をしていた。

見開いた目は妙にギラギラして、口元は言いようがないほど歪んでいた。


 エーミール先輩のこんな表情は見たことがなかった。


「な、そんな、何を……」


 いろいろアウトな顔(青のナッシー)のまま、エーミール先輩はもごもごと口を動かす。


「だめだろ……そんな、だって……」


 なんだろう、エーミール先輩の葛藤が目に見えるようだ。

良識みたいなものと、欲望がせめぎ合ってるのが手にとるようにわかる。


 リアが放った呪文(はかいこうせん)は想像以上にエーミール先輩の何かを直撃(きゅうしょ)したみたいだ(にあたった)


「帰るんだろ?」


 リアは頷く。


 うろたえまくるエーミール先輩(ドイツ軍人)を前にして、リアは妙に冷静になっていた。


「結婚……するんだろ?」


「あ、はい」


 エーミール先輩は額を押さえて大きく息を吐くと、低い声で言った。


「いや……だめだ、やめとけ」


「わかりました」


 リアはもうすっかり気を削がれてしまった。


 エーミール先輩のおもしろい顔(ギエピー)が見られただけでもよしとしよう。


「変なこと言ってすみませんでした」


 リアはひと息でワインを飲み干す。


「最後に先輩に会えてよかった……お世話になりました」


 そう言って笑うと、リアは酒場を後にした。





 夕陽は沈みきって、街は薄青い光に包まれていた。


 いまさら酔いがまわったのか、重い荷物を持っているはずなのにやけに足元がふわふわする。


 すごくおいしいワインだった。


 あんなふうに一気飲みしないで、もっとゆっくり飲めばよかったな。


 とりあえず宿をとるか…….リアはゆっくりと路地を歩いた。


 明日は焼きたてのパンを買って、川辺でゆっくり食べよう。

それから、お母さまとバイラとソニアのお土産を選んで、でも、また荷物が増えちゃうかな……


「リア!」


 急に後ろから声が聞こえた。


 振り返る間もなく、リアは強い力で抱きしめられていた。


 ドサッと重い音を立てて鞄が石畳に落ちる。


 耳元で荒い息づかいが聞こえている。


 振り返らなくてもわかる。


「エーミール先輩……」


 熱い体温を、リアの体は忘れていなかった。


「待てよ……これからどうするんだ? 泊まるところはあるのか?」


 荒い息の中、エーミール先輩は途切れ途切れに言う。


「えっと、まだ決めてないけど、今日のところは宿屋にでも泊まろうかと」


 リアは前を向いたまま答えた。


「そんな、女の子がひとりで宿屋なんて……危ないだろ」


 心臓が熱く打っているのが背中ごしに伝わってくる。


 ドライツェンは治安もいいし、そんなに危ないってこともないと思うけど……もしかしたら、エーミール先輩はリアを家に泊める理由を必死に探してるのかもしれない。


「うん、危ない、やっぱり危ないよな……」


 エーミール先輩は『危ない』押しでいくことに決めたらしい。


「これ」


 エーミール先輩が差し出した手のひらには、小さい鍵が乗っていた。


「すぐ裏のアパート、3階だから」


 リアは頷いて鍵を受け取った。


「その、なるべく早く帰れるように頼んでみるから」


 リアを抱きしめる腕にぎゅっと力がこもる。


「寝るなよ」


 リアはそっとエーミール先輩の腕に手を添える。


 見上げた空には一番星がきらめいていた。





 日記はそこで終わっていた。


 うわぁ……何だこれ、恥ずかしすぎる。


 屋根裏部屋を整理してたら、とんでもないタイムカプセル(レブレサックの石碑)を見つけてしまった。


 これが万が一、旦那とか子どもの目に触れたら……


 一瞬、すべてを燃やしてなかったことにしようかと考えたけど、思いとどまった。


 日記の中にいる当時の自分は本当にバカで世間知らずだったけど、勉強や恋に悩んだり失敗したり、精一杯学園生活を楽しんでいた。


 今となっては全てが夢のようだ。


 現時点(いまのレベル)ではひたすら恥ずかしいけど、もっと年をとって50歳とか、100歳とかになったら、懐かしく読めるようになるのかもしれない。


「あれ、リア? どこだー、ケーキ焼けたぞー」


 旦那の声とともに、階下から甘い香りが漂ってくる。


「はーい! すぐ行くから」


 そう言って、リアは日記を棚に戻した。

 たくさんの作品の中から見つけていただき、また、最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。


 評価、感想などもらえましたら嬉しいです。

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