第31話 発表の内容に関して質問ある奴いる? いねえよなぁ!
「これじゃ、論文とは言えないな」
リアの草稿を読み終えて、エーミール先輩は言った。
「はい」
「これは調査結果を書いただけだろ。レポートとは違うんだから、ちゃんとそこから結論を導き出さないと」
なんだかすごく初歩的なことを指摘されている気がして恥ずかしくなってきた。
「何のために現地調査をしたんだ?」
エーミール先輩は草稿を揃えて机の上に置くとリアを見た。
「えっと……」
リアは机の上の草稿を見つめる。
「私のことなんだけど、ただ魔法が使えるってだけで本当に普通っていうか……勉強も苦手だし、特別なことなんて何もできなくて、それで、同じような魔法使いがどんな人生を歩んできたのか知りたいと思ったんです」
以前似たような話をしたとき、結構強めに言い返された。
魔法が使えるじゃないかと。
確かに魔法はリアとは切り離せない大切なものだ。
でも、リアはやっぱり魔法が使えるだけの普通の……あまり勉強ができなくて、世間知らずのただの女だ。
「それで、どうだったんだ?」
エーミール先輩は落ち着いた声で言った。
「みんな魔法使いってだけで、やってることは普通の人と変わらなかった。集団の中で自分の役割を見つけて生活してました」
魔法の力に翻弄されることはあったとしても、特別なことは何もなくて、みんな魔法ババアとして地に足をつけて生きていた。
「それでいいじゃないか、それを書けよ」
「こんな結論でいいんですか?」
リアが顔を上げるとエーミール先輩は真剣な顔で頷いた。
「ちゃんとした答えだと思う」
そんなふうに言ってもらえるとは思わなかった。
エーミール先輩に論文を見せるのは緊張したけど、読んでもらってよかったかもしれない。
「じゃあ俺は行くけど、頑張れよ」
立ち上がるエーミール先輩にリアはあわてて頭を下げる。
「時間をとっていただいて、ありがとうございました」
エーミール先輩は苦笑しながら言った。
「そんなにかしこまらなくていいよ。また相談があったらのるから」
研究室を出ようとしたところでエーミール先輩は思い出したかのように言った。
「そういえば、『魔法ババア』っていうのは、清書では他の言葉に変えるんだよな」
「え?」
「魔法ババアは通称であって、正式な呼び方じゃないだろ?」
そうか、そういうことも考えないといけないのか……でも、魔法ババアの正式名称ってなんだろう。
「てか、魔法ババアって……」
それまで真面目な顔をしていたエーミール先輩が急に吹き出した。
「ふふっ……いや、魔法ババアはダメだろ」
何がそんなに面白いのか、笑いが止まらないみたいだった。
「頑張れよ、じゃあな」
エーミール先輩は楽しそうに研究室を出て行った。
◇
「あ、リアだ」
廊下でモカに会った。
「モカ! ちょうどよかった」
「ん? どうしたの?」
リアはモカと並んで廊下を歩きながら言った。
「あのさ、魔法ババアって正式に言うとなんて言うかわかる?」
「なにそれ、魔法ババアは魔法ババアでしょ」
「そうなんだけどさ、論文にそのまま書けないから他の言葉に変えないといけないんだ」
「ああ、なるほどね」
モカは少し考えて言った。
「ババアってのがよくないんでしょ? 魔法おばあさまとか」
「うーん、丁寧だけど……もうちょっと学術的な感じにならないかなあ」
「ババア目ババア科みたいな感じ?」
「あ! そうそう、そんな感じ」
部屋に着くまでの間、モカはいろいろ案を出してくれた。
「近隣高齢女子魔法使用者、なんか語呂もいいし、これでいこうかな。モカに相談してよかった」
「うん、お互い卒論頑張ろうね」
◇
「『小規模魔法教室講師』ってしてるけど」
メイリは机に向かったまま言った。
最初からメイリに聞けばよかった。
なんだよ近隣高齢女子魔法使用者って。
リアも机に草稿とノートを広げる。
エーミール先輩に言われたことを忘れないうちに構成を組みなおしておこう。
やることはたくさんある、早いこと草稿を書き上げてしまわないと。
草稿のチェックが通ったら清書して、発表用の大用紙と原稿を作って、卒論提出に合わせて要旨も作らないといけない。
年が明けてからは毎日がめまぐるしく過ぎていく。
卒論に追われて他のことを考える余裕があまりない。
リアは窓から外を見る。
相変わらず風の中には雪が舞っているけど、気の早いアカシアの花がちらほら咲き始めている。
冬がもうすぐ終わる。
ルロイは元気だろうか。
あの日、雪合戦のときの笑顔はなんだったんだろう。
ルロイもリアのことを気にしてくれているんだろうか。
リアは大きく息を吸って気合いを入れる。
とにかく、ひとつひとつ片付けていくしかない。
リアはノートにペンを走らせた。
◇
「以上をもちまして発表を終わります。ご静聴いただきありがとうございました」
リアは深々と頭を下げる。
「質問のある方は挙手をお願いします」
「はい!」
メイリが手を挙げる。
「どうぞ」
「調査対象の魔法使いを女性に限定していることに何か理由はあるんですか?」
「ええー、そんなのメイリだってそうじゃん」
リアが不満げに言うとメイリは笑って頷いた。
「もし本番で聞かれたらなんて答えるの?」
リアの問いにメイリは苦笑する。
「うーん、調査可能な範囲に女性しかいなかったとか? まあ、質問されないことを祈りたい」
「質問きたら嫌だな……それで、何分だった?」
「1分48秒」
「ちょっと短いかなあ」
リアは原稿を見る。
少しシンプル過ぎたかな……でも、これ以上つけ加えても何が言いたいかわからなくなる気もする。
「いや、もう少しゆっくり話せばいけると思う」
「そう? じゃあこのままでいいや」
リアは広げた大用紙を見つめる。
レイアウトは本当にこれでいいのか、まあ、今さら変えることもできないか。
ついに明日は卒論発表会だ。
テーマもなかなか決められなかったことを考えるとよくここまで来れたものだと感慨深い。
でも、学生生活の集大成がこれだと思うと少し物足りない気もする。
発表会が終わったらもう卒業式だ。
「ほんとに、もう終わっちゃうんだなあ」
リアがぽつりと言うとメイリは笑った。
「しんみりするのは卒論出してからにしよう。私の練習も聞いてよ」
「うん」
すっかり馴染んでしまったこの部屋は、もうすぐリアの部屋ではなくなる。
2年前、いきなり始まったメイリとの共同生活も、あと数日で終わりだ。
時間は、どうしたって前にしか進まない。
あとで忘れものに気づいたとしても、取りに行くことはできない。
◇
え……ちょっと待って、なんで?
リアは黒板に大用紙を貼りながら激しく動揺していた。
先生や学生に混ざって奥のほうの席にエーミール先輩が座っている。
「では、発表を始めてください」
進行係の学生に促されてリアは黒板の前に立った。
「はい、では『地域社会での魔法使いのあり方』の発表をはじめます」
見知った顔ばかりとはいえ人前に出ると緊張して声がうまく出ない。
落ち着け……落ち着いて、練習通りにすれば大丈夫……ああでも、ゆっくり話さないと。
「調査方法といたしましては、ドライツェン近郊を中心に魔法講師への聞き取り調査を行いました」
自分の心音がいやに耳に響いて自分が何を話してるのかよくわからなくなる。
学生の中にリチョウの姿を見つけた。
とても真剣な顔で聴いてくれている。
「以上の調査結果を踏まえて、地域社会の中で魔法使いの役割は2つあると考えます」
ルロイと目が合った。
まるで自分のことみたいにハラハラした顔をしていて少し面白くなった。
そんなに心配しなくても大丈夫だよ。
「ご静聴いただきありがとうございました」
リアは頭を下げる。
すぐに終わってしまったけど、時間は大丈夫だっただろうか。
「ご質問がありましたら挙手をお願いします」
質問きませんように……特にエーミール先輩から真面目なやつとか絶対にきませんように。
リアは教室内を見まわしながらひたすら祈っていた。
願いが通じたのか挙手をする人はいなかった。
「ありがとうございました」
リアは再び深々と頭を下げた。
◇
右足で蹴り上げたボールはゆるく回転しながら吸いつけられるように左足に落ちてくる。
うまいなあ……軽々とリズムをつけてボールを蹴るのを見ていると、急にこちらに向かってぽんとボールが蹴り上げられた。
「わっ」
ゆっくりと弧を描いて飛んできたボールをリアは両手でキャッチする。
「あ! 手使っちゃダメっすよ」
リチョウが笑いながら言った。
リアはリチョウと並んで中庭の芝の上に腰を下ろした。
「発表会、聴きにきてくれてありがとう」
発表会が終わって卒論も無事合格をもらった。
もう、明日の卒業式を残すのみだ。
「いやー、面白かったっす。ババアの恋バナ全カットは熱かったっすね」
リチョウはからからと笑う。
「うん、まあそこは今後の人生の参考にするよ……それでね、これ」
リアは封筒を差し出した。
「何すか?」
「3人分の卒論の要旨と、お礼状。村に帰ることがあったら、イリーナに渡してほしいの」
「ああ……」
リチョウは頷いてリアから封筒を受け取った。
「本当は直接渡しに行くのが筋なんだけど……私、卒業したら地元に帰らないといけないから」
言いながらリアは中庭を見る。
芝生の表面を風が柔らかく撫でていく。
「帰っちゃうんですか?」
リチョウが驚いたように言う。
「うん」
「なんで?」
「なんでって、前話したでしょ、結婚……」
「パイセンはそれでいいんですか?」
リアが言いかけた言葉はリチョウに遮られた。
静かだけど強い口調に驚いてリチョウの方を向く。
「結婚なんてやめましょうよ」
リチョウはまっすぐにリアを見ていた。
「俺じゃ、だめですか?」
リアの手の上にリチョウの手が重ねられる。
急に触れ合った体温にリアの体がどくんと波打つ。
「あと1年待ってくれたら働けるし……ほら、俺回復だからめっちゃ稼ぐっすよ! 苦労はさせないっす」
普段の軽い調子ではない、リチョウの声は真剣だった。
「あー……それか、そうだ! 一緒に冒険するのはどうですか? 世界中いろんなところに行って、きっと楽しいっす」
リチョウと一緒に冒険か……それも楽しそうだ。
リアはふっと笑顔になる。
「いいね、それ。名所でもなんでもないような田舎町とか行って、現地の酒場で飲んだりしてさ」
「でしょ? それで金なくなったら適当に働いて、また旅に出て……ああ、ボールは絶対持っていかないと」
リアはくすくす笑う。
「なんでー、絶対荷物になるでしょ」
「これだけは外せないっすよ! 俺の魂っす」
そう言って笑っていたリチョウがふと真剣な目に戻る。
重ねられた手に痛いくらい力がこもった。
「好きなんです!」
リチョウの手のひらから、激しい熱が伝わってくる。
「迷惑っすか?」
まるでにらまれてるみたいな、強い眼差しを見つめ返して、ゆっくりと首を横に振る。
「ううん、嬉しい……でも、だめだよ」
リアはできるだけ落ち着いた声で言った。
ちゃんと、まっすぐに言ってくれた。
ごまかさないで、しっかり答えを返さないといけない。
「あのさ、聞いてくれる?」
リアは手首を返してリチョウの手を軽く握る。
少し、リチョウの体が緊張するのがわかった。
「私の地元、少し特殊でさ、家のつながりとかがすっごい強いの。それで、女の子は、その、年ごろになったら親の決めた人と結婚するのが普通で、友達とか、母親もそうやって若いうちに結婚してて……それがね、なんか『女の幸せ』なんだって」
結婚して、子供を産んで、成長を見守って、最後は子供や孫に囲まれて命を終える。
用意された『幸せ』、狭い世界でただ命をつなぐだけの人生だ。
「地元にいた頃はさ、変わらない景色の中で、毎日同じことをして、ただ年をとっていくのがものすごく退屈でつまらないと思ってた」
もっといろんな景色が見たかった。
まっすぐな道をただ歩くんじゃなくて、より道したり、山を登ってみたり、時には全力で走って逃げたり、知らない場所に迷い込んだり、怖い橋を渡ったり……そうしないと見えない景色があると思っていた。
「そんな、だったら……」
リチョウは何かを言いかけてまた口を閉じる。
リアは笑ってリチョウの手をぎゅうっと強く握った。
少し震えている手のひらから、リチョウの気持ちが痛いほど伝わってくる。
「でも、今は違うの。用意された生き方が私の世界なら、その道をひたすら歩くのもいいんじゃないかなって思うんだ」
リアがまっすぐで退屈だと思っていた一本道の先に、もしかしたらきれいな花が咲いているかもしれない。
わくわくして、踊りだしたくなるくらい楽しいことが待っているかもしれない。
きっと、そこにしかない景色と出会えるはずだ。
「結婚も、不安はあるけど嫌なわけじゃなくて、うまく言えないけど、きっとこれが、私のやるべきことなんだって考えられるようになったんだ」
リアはリチョウの目を見つめ返して笑った。
「だから、帰るよ」
そう言って立ち上がると、リアはリチョウにボールを手渡した。
「でも、すごく嬉しかった。ありがとう」
まだ何か言いたげなリチョウを残してリアは中庭を出た。
◇
しかし……驚いたな。
木漏れ日がやさしく差し込む中、リアは早足で山を下っていた。
リチョウの気持ち、全然気づかなかった。
でも、いつから? だって村では、ルロイに気持ちを伝えろと言っていた。
『彼氏いないなら、俺とかどうすか?』
『いつでも飛び込んできていいっすよ』
胸がざわつく。
もしかしたら、リチョウはずっと好意を示してくれてたのかもしれない。
冗談だと軽く聞き流して、傷つけていたのかもしれない。
リアは大きく息を吐く。
それでも、リチョウの言葉にリアの決心が揺らぐことはない。
リチョウとリアが同じ景色を見られるのは、たまたま重なった、学園での一年間だけだ。
リアとルロイがそうであったように。
でも、あの日だったら違ったかもしれない。
あの時話を聞いてくれたのが、学園長先生でもヨゼフでもなくて、リチョウだったら、もしかしたら違う今があったのかもしれない。
この世に必然のことなんてなくて、ちょっとした偶然で全ての運命は決まっていくものなのかもしれない。
答えは既に出てしまっている。
リチョウがこの先どんな魔法使いになるのか、どんな道を歩んで、どんな世界を見るのか、それをリアが知ることはできない。
それは、少しだけ寂しいことのような気がした。
ふもとまで下りてくると真っ白なリラの花が咲き乱れていた。
◇
「先日はご協力いただきありがとうございました」
リアはステラに封筒を差し出した。
「わざわざありがとうね……それで、気持ちは伝えられたの?」
「はい、ちゃんと伝えられました」
それだけ言ってリアは笑った。
「それはよかった」
ステラは優しい目で言った。
家の中は色とりどりの花であふれている。
いつきても、ここは素敵だ。
「すみません、花束を作ってもらうことってできますか?」
部屋いっぱいに飾られている花を見てリアはふと思いついた。
「もちろん。お世話になった先生に?」
ステラの言葉にリアは頷く。
「まあ、そんな感じです」
◇
スイートピーとチューリップのカラフルな花束を抱えて図書室のドアを開ける。
裏庭ではタンポポがやわらかく風に揺れていた。
たしか、この辺りだったはず……リアは無秩序に伸びた草をかき分けながら木々の間を進んでいく。
あった! 草原の中に地下室への入り口をみつけた。
ずっと前、ルロイと洞窟を探検してたどり着いた秘密の扉だ。
この下には悲しい歴史が眠っている。
リアはその場に花束を置いて静かに手を合わせた。
リアはこの街の過去を知らない。
でも、今、リアが泣いたり、笑ったり、悩んで、落ち込んで、それでも立ち直って、そんなふうに2年間を過ごせたのはきっと、先人たちが積み上げてきた平和のおかげだ。
どうか、安らかに。
「リア?」
目を閉じて祈りをささげたとき、背後から声がして飛び上がりそうなほど驚いた。
低くて落ち着いた声、リアが大好きな声だ。
「びっっっくりしたあ……」
リアはゆっくりと振り返る。
「驚きすぎだろ」
ルロイが楽しそうに笑っていた。
◇
「どうしたんだ? こんなところで」
ルロイと話すのはあの日以来だ。
少し緊張したけど、ルロイが普通に話してくれてほっとした。
「なんとなくここのこと思い出して……もう明日で終わりだから、挨拶しておこうと思ったの」
最後に思い出したのは、やっぱりルロイとの冒険だった。
「ルロイは?」
「ああ、その……」
ルロイはきまりが悪そうに笑った。
「お前がおいてった花あっただろ?」
花……あのときのコスモスのことだろうか。
「あれな、種がとれたから、どうせならここにまこうと思って」
どういうこと? 最初はルロイの言っている意味がよくわからなかった。
だって、リアが持っていたコスモス、あの日、山においてきてしまった。
あのまま、うち捨てられて、忘れられているものだとばっかり思っていたのに。
ルロイはずっと持っていてくれたんだ。
そんなに、種ができるくらい長い間。
涙が出そうになった。
ルロイと出会ったこと、それと、出会ってから、いままでのこと。
あと、今日、こうやって同じことを考えて、同じ場所に来たこと。
奇跡ってたぶん、ほかの人から見たらなんでもないことなんだ。
「あのさ、火、いいか?」
「うん」
久しぶりだ、ルロイの煙草に火をつけるの。
「葱2桔空4!」
丁寧に印を結ぶと、指先に炎が生まれた。
ゆるく西日のさす裏庭で、リアは煙草を吸うルロイを見ていた。
ずっと続きそうなのんびりした時間だけど、もうすぐ終わってしまう。
でも、もうこの時間が永遠に続くことを願ったりはしない。
終わってしまうことも、変わっていくことも、恐れずにちゃんと受け止めて前を向かなければ、その先の素敵に出会うことはできない。
「ルロイ、今日の夜空いてる? 夕ごはん食べたあと」
「ああ、空いてるよ」
煙を吐きながらルロイが答える。
「ちょっと会えないかな……見せたいものがあるの」
「わかった」
西日はいつの間にか夕日に変わっていた。
◇
どうしよう……髪型が決まらない。
荷物もまとめ終わってすっかり殺風景になった部屋の中、リアは鏡に向かったまま固まっていた。
「何やってんの? こんな時間に」
ベッドでくつろぎながらメイリがリアを見る。
「ルロイと約束してるんだけど……どうしよう、どんな髪型で行けばいいんだろう」
ルロイが好きなみつあみでいくか、それとも『あの頃とは違う私』を演出するために大人っぽい髪型にした方がいいのか。
でも、そもそも大人っぽい髪型って何だ?
「ああ、いたねそんな男」
メイリがあくび混じりに言う。
「ああもう、時間になっちゃうよお」
鏡の前で途方にくれるリアを見てメイリが楽しそうに言った。
「みつあみにしたら?」
◇
みつあみが揺れる。
まだ、風が吹くと夜は少し冷える。
門を出て山を少し行ったところにルロイがいた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや、いいよ」
風が吹いて木々がザワザワと音を立てる。
それで……どうしようか。
ルロイはリアの言葉を待っているようだった。
あたりまえだ、リアが呼び出したんだから。
空を見上げると、木々の間に浮かぶ月が妙に冴え冴えと明るく光っていた。
「あのさ、ルロイ」
「何だ?」
「いちばん上まで、登ってみない?」
ルロイは少し驚いた顔をしたけど、優しく手を差し出した。
「行こう」
ルロイの手を握った瞬間だった。
どくんと体の中でなにかが動きだした。
つないだ手からものすごい勢いで嬉しさが流れ込んでくる。
リアの手のひらは、まだルロイを覚えていた。
ルロイに会いたかった、ずっと、ルロイに触れたかったと、全身が叫んでいた。
リアはたまらずに手を離す。
「あ……悪い、つい」
ルロイは少し気まずそうに言った。
「大丈夫、行こう」
リアはあいまいに笑った。
まだ、体が熱く脈打っている。
あんなに、あんなに泣いて、悩んで、もがいて、暗闇から抜け出したのに、埋まらない寂しさを受け入れて前に進もうと決めたのに、ルロイの手に触れただけで、必死に固めてきた決意も、積み上げてきた守りも、一瞬で溶かされてしまいそうだった。
今さらながら恐ろしくなってきた。
だって、明日になったらルロイはいなくなってしまう。
ほとんど言葉を交わさずに山を歩いて、2人は山頂に出た。
さっきよりも遠くなった月が辺りをほの白く照らしている。
「火、くれよ」
「うん」
指先に灯した火にルロイが煙草を傾ける。
ゆっくりと、煙草に火がつくまでの時間、世界に2人だけしかいないような気分になる。
リアは遠くに浮かび上がるドライツェンの街の光を眺めた。
「この眺めも見納めだなあ」
都会だオシャレだと大騒ぎしていたころが懐かしく感じる。
そういえば、あの頃は勉強も全然わからなくて、講義に出るのがたまらなく憂鬱だった。
「ルロイは、旅に出られるのが楽しみで仕方ないんじゃない?」
リアが笑うと、ルロイは煙を吐いて言った。
「そうだな……でも、少し寂しいかな」
「そうなの?」
ルロイはゆっくり頷く。
「旅に出てから、こうやってひとつの街に2年間もいたのは初めてだったから、名残惜しくはあるな。この街も、学園もな」
「そうだったんだ」
リアとルロイが離れたあとも、きっといつも通り、この街も、山も、学園もまわり続けるんだろう。
そしてすぐに新しい学生がやってくる。
そうやって、きっと世界は新しくなっていく。
「あのね、見てもらいたいものっていうのはね」
リアは顔の前で手を組んでルロイを見る。
「あの、魔法なんだけど……る、ルロイのこと考えながら組んだの」
年末に謎のテンションで思いついたことだけど、やっぱりあらためて口に出すと少し照れる。
「見てくれる?」
ルロイは優しい目で笑った。
「ああ、見せてくれよ」
リアは集中して印を結ぶ。
全部を、この魔法に乗せるんだ。
海を見せてくれてありがとう。
隣にいさせてくれてありがとう。
本当は……本当は離れたくない。
ずっと、これから先もずっとルロイの隣にいたい。
でもそれが叶わないなら、せめて……
「茶2(桔空)4!」
空に5つの炎がきらめいた。
「おお、すごいな」
見上げるルロイの顔が炎に照らされる。
「あの、前、教えてくれたでしょ。北十文字のこと」
リアも空を見上げながら言う。
「道に迷ったときに、いちばん最初に探すんでしょ? 冒険の中で、私のこと……少しでも思い出してくれたら嬉しい」
寂しさがまた喉のあたりまで上がってくる。
でも、強くなるんだ。
視線をルロイに移すとリアは口を開いた。
「ルロイの、旅の安全を祈ってる」
ルロイはゆっくりとリアの方を向く。
リアに伸ばしかけた手を思い直したように引いて炎を指差した。
「あっちが、北なのか?」
ルロイの言葉にリアはうつむいて大きくため息をつく。
「本当はそうしたかったんだけど、私のレベルではそこまでできなくて……多分カールだったらそういうのもできると思うんだけど」
でも、この魔法はひとりで仕上げたかった。
たとえ不完全だったとしても。
「え……カール? あ、ごめん、変なこと言って」
うなだれるリアにルロイは少し焦った顔をしたあと、楽しそうに笑った。
「ありがとな」
◇
ルロイの煙草に火をつけると、空に浮かんだ炎は消えて、再び月明かりと静寂の世界が訪れた。
「あのさ、ルロイ」
リアは月を見ながらぽつりと口をひらく。
「何だ?」
「私さ、地元に戻ることにした」
月は高い空で青白い光を放っている。
「地元に戻って、結婚することにしたの」
「そうか」
横で静かな声が聞こえる。
「それでね、ひとつ約束してほしいの」
リアは月から目が離せなかった。
ルロイの顔を見たら、きっと何も言えなくなってしまう。
「何だ?」
「私の地元……リヒトシュパッツっていって、一応街道沿いなんだけどすごい田舎でさ、冒険者もあまり立ち寄らないの。温泉があるだけでほかに何もないし」
街中が薄い湯気に包まれた、退屈で窮屈なリアの故郷だ。
「それでね、約束っていうのは……リヒトシュパッツには来ないで欲しいの」
ひざの上で組んだ手をぎゅっと握りしめる。
がんばれ、ちゃんと、最後まで言うんだ。
「私がこれから地元で結婚して、子供を育てて……それが幸せだったとしても、ルロイには、ルロイにだけは、その姿を見られたくないの」
風がみつあみを静かに揺らしていく。
月はさっきよりもさらに遠くで光っている。
「わかった、約束するよ」
静かな夜の中、ルロイの低い声は妙に響いた。
リアはふと隣を見る。
ルロイが、少し寂しそうな目でリアを見ていた。
◇
「そろそろ、行くか」
ルロイが立ち上がった。
「うん、あのさ、ルロイ」
「何だ?」
リアも立ち上がると、遠慮がちに言った。
「手を、つないでもいい?」
ルロイは一瞬動きが止まったけど、優しく笑って手を差し出した。
「ほら」
リアはルロイの手をとる。
手のひらの温かさに触れると、体中が弾けるみたいに、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、もうわけがわからなくなる。
ああ、これだ、この感覚が、好きってことなんだ。
リアがきつく手を握りしめると、ルロイも痛いくらい強く握り返してきた。
世界を冒険していたルロイとクソ田舎から出られなかったリア、本来会うはずのない2人の道が学園で2年間だけ重なったこと、そこに意味なんてなくて、ただの偶然なんだけど、きっとそれは本当に幸福な偶然だった。
もう、別れの痛みなんて恐れない。
この気持ちを、ルロイのことが大好きな今をちゃんと大事にしよう。
「2年間ありがとう」
学園が見えてきたころ、リアはぽつりと言った。
「私、今まで会った人の中でルロイがいちばん好き」
ルロイは何も言わなかった。
でも、つないだ手にぎゅっと力がこもるのがわかった。