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第28話 次の目的地なんてサイコロで決めるくらいがちょうどいい

 あれは何だったんだろう。


 吊り橋を渡り切ったら、抱きしめられた。

全身にリチョウの力強い腕の感触が残っていて、思い出すと体が熱くなる。


 なんのつもりでリアを抱きしめたりしたんだろう。

ルロイに想いを伝えろと言っていたのに。


 それに……あの夜2人でワインを飲んでから、朝までの間にいったい何があった?

 

『パイセンは可愛いですね』


 からかわれているんだろうか。

リアにはリチョウがなにを考えてるのか全然わからなかった。


「ねえ、聞いてる?」


 メイリの言葉でリアは我にかえった。





 リアはテーブルにノートを広げた。


「えっとね、用意した質問全部聞けたわけじゃないんだけど、とりあえず会話の内容は書き出してきた」


 メイリはリンゴをかじりながら頷く。


「うん、いい感じ。遠くまでありがとね」


 とりあえずひとつ仕事が片付いてリアはほっとした。


「もうひとりの子は来週行ってくれるから、戻ってきたら改めて3人で集まろう」


 メイリの言葉にリアは頷く。


 もうひとり、魔学の学生とも調査結果を共有することになっている。


「遠かったけど結構楽しかったな。ちょうど村祭りの時期でさ、ごちそうになっちゃった」


 深い樹木に包まれた村、軽快な音楽の流れる中で、ひとりだけ寂しげな目をした少女のことを思い出した。

報われることのない彼女の思いはどこへ行くのだろうか。


「ああ、ノエルのとこもそうだったよ」


 そう言ってメイリはふーっとため息をつく。


「すっごく大変だった。村に着くなり猟に駆り出されてさ、ノエルと一緒に猪だの鹿だの……どれだけ狩ったんだろ」


 うんざりした顔のメイリが面白くてリアはくすくす笑う。


「お疲れ。ノエルは魔法ちゃんとコントロールできてた?」


 以前見たノエルの魔法はすさまじかった。

実習が始まって少しは何か変わったんだろうか。


 リアの言葉をメイリは手で否定する。


「いや全然、なんかもう歩く危険物って感じ。火だるまになった猪がこっちに向かってきたときは真面目に死を覚悟したよ」


 メイリはそう言ってお茶を飲む。


 リアが死の橋(ブレイブメンロード)を渡っていたころ、メイリもまた壮絶な体験をしていたのか……卒論は命がけだ。


「お互い生きててよかったねえ」


 メイリがまとめた調査結果を見るとノエル(ばくだん岩)の村の魔法ババアは狩猟で生計を立てているらしい。

ノエルも魔法使いとして子供のころからババアについて狩りに出ていたとか。

コミュニティの中に魔法使いの役割があるのはいいことだと思うけど、コントロール不能なあの魔法で山火事になったりはしないんだろうか。


「リチョウとふたりきりで、何もなかった?」


 メイリがからかうように笑う。


「え、えっと」


 思わず言葉につまる。


「何も、なかった……と思う」


 目が覚めたとき、リチョウと同じベッドにいた。

どうしてその状況になったのかリアは覚えていない。


「いやちょっと待って、それ、マジで何かあったときの反応なんだけど……」


 メイリがリアの目をのぞきこむ。


「大丈夫?」


 リアは頷いて笑った。


「大丈夫だよ」


 何かあったといえばあったし、なかったといえばなかったんだろう。

それに、いま向き合うべきはきっとそこじゃない。


『大丈夫っす! 骨は拾ってあげますから』


 何が大丈夫なんだか……リアは苦笑してリンゴをひと口かじる。

みずみずしい甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がった。





 すっかり地面に積もった木の葉が歩くたびにざくざく音を立てる。

日差しはまだ強いけど、風の中にかすかに冬のにおいが混ざっている。


 季節はどんどん変わっていく。


 このまま漫然と目の前のことをこなしているだけでは、残り少ない学園生活はあっという間に終わってしまうだろう。


『パイセンが思ってること、そのままルロイ先輩に伝えた方がいいっす』


 リチョウの言葉を思い出す。


 リアが思っていること、ルロイに伝えたいこと。

出会った日から変わらない、ルロイのことが大好きだということ。


 そんなの、ルロイはもうとっくに知っているんじゃないのか?


『言わなきゃ何も伝わらないっすよ』


 本当にそうだろうか。


 でも、このまま何もしないままでルロイと離ればなれになるのだけは絶対に嫌だ。


 歩いているうちにドライツェンの街が見えてきた。

この街で過ごせる時間はあとどれほど残されているんだろうか。


 風が石畳の上の落葉を巻きあげていった。





 ドライツェンのはずれにある小さな家は花に包まれていた。


 庭にはコスモスがいっぱいに咲いていて、外壁をつるバラが覆っている。


 呼び鈴を鳴らすと中年の女性が出てきた。


「プレゼントですか?」


「あ、いえ」


 リアはブラスの紹介状を差し出す。


「ホーエンノイフェルト魔法学園から来ました。リアと申します」


 彼女はリアをまじまじと見つめると言った。


「魔法学園の学生さんか。まあ、入りなよ」


 ドライツェンの魔法ババアは花屋さんだった。


 メイリは田舎の魔法ババアについて研究してるけど、リアの研究は地域を限定しないので都市部の魔法ババアとしてドライツェンのババアにも調査をすることにしていた。


 家の中はさらに花であふれていた。


 花瓶にはリコリスが活けられていて、そこここにドライフラワーが飾られている。

まるで家中が温室のようだ。


「私はステラ。ここで花屋をしながら、近所の子どもに魔法を教えているの」


 ステラの生まれはドライツェンだった。


 ドライツェンの戦いで家を失い、しばらくは魔法使いであることを隠してグロスヒューゲルの酒場で働いていた。

そのあと酒場で出会った魔法使いについて魔法を習ったが、グロスヒューゲル軍から目をつけられたことで居づらくなり一時期は冒険者をしていたこともあったらしい。


「1年くらいは冒険したのかなあ……楽しいこともあったけど、向いてなくてさ」


「どうしてですか?」


 リアの問いに彼女は苦笑する。


「魔法を攻撃に使うことができなくてね。戦争のことを思い出しちゃって……おかしいでしょ、炎の魔法使いなのに、火が怖いの」


 冒険を終えて久しぶりの故郷に帰ってきたとき、そこにあったのはかつての美しい街でも焼け跡でもなく、新しい建物が立ち並んだ知らない街だった。


「なんだかグロスヒューゲルのミニチュア版みたいになっちゃってて、寂しかったなあ。でもその時、今ぐらいの季節だったんだけど、コスモスが原っぱにいっぱい咲いててさ、ああ、花は変わらないんだって思って、それでこの街を花でいっぱいにしたいと思ったの。そうしたら、あの戦争で死んでいった人たちも少しはなぐさめられるのかもしれないと思って」


 そうして花屋を営むかたわら、近所の子どもに魔法を教えてきた。

魔法を教えながら、花売りや配達を手伝ってもらうこともあるらしい。


 リアは広場で花を売り歩く女の子を思い出した。

もしかしたら、あの子も魔法使いなのかもしれない。


「あの城が魔法学園になったときはびっくりしたよ。うちにも学園長先生があいさつに来たんだけど、あの人、昔はドライツェン城のお抱え魔法使いだったんだってね」


 そのことはリアも知っている。


 去年ルロイと小さな冒険をしたときに見つけた日記に書いてあった。

もう、あんなふうに誘ってもらうこともなくなってしまうんだろうか。


 だって、次の春になったらもうルロイもリアもこの街にはいない。


「昔のドライツェンは、そんなに美しい街だったんですか?」


 リアが聞くとステラは懐かしそうな顔で頷く。


「白い壁と赤い屋根が深い森によく映えてね、住んでるときはわからなかったけど、今まで行ったどんな町よりもきれいだったと思う」


 戦いによって失われてしまったドライツェンの姿。

今はもう人々の記憶の中にしか残っていない。


「まあ、私は今のドライツェンも美しいと思うけどね」


 ステラはそう言って笑った。





「本日は貴重なお話をありがとうございました」


「こんな話で大丈夫だった? まあ、卒業研究頑張ってね」


 ステラは外まで見送りに出てくれた。

冬の始まりみたいな冷たい風が吹いて、妙に切ない気分になる。


「どうしたの?」


 立ち止まったリアにステラが声をかける。


「あの、研究には全然関係ないんです。今すごく悩んでることがあって」


 リアはぽつりと言う。


「ある人の気持ちを確かめたいんだけど……どうしても勇気が出なくって」


 ステラは優しく笑った。


「そんなときのためにお花があるのよ」





 手の中でコスモスの花が揺れる。


 リアはさっきからドライツェンの街をぐるぐる歩きまわっていた。


 気持ちを伝える、勇気を出すためのアイテムだといって貰ってしまった。

たしかに、可憐な花びらからは少し力がもらえる気がする。


 でも、だからってどうしたらいいんだろう。


 本当に今日でいいんだろうか。

本当に言ってしまっていいんだろうか。

あんまり急すぎるんじゃないのか。

でも、こんなふうに勢いをつけないと永遠に言えない気もする。


 そもそも、ルロイは花とかもらって嬉しいタイプなんだろうか。


 なんだかよくわからなくなってきた。


 だいたい、学園に戻ったからってルロイに会えるとは限らないし、最近はふたりきりで話すことだってなかなかないし……


 とりあえずいったん帰って、お花は部屋にでも飾ろうかな。

そのあとのことはそれから考えたらいい。


 そうだ、ケーキを買って帰って、メイリと一緒に食べよう。


「リア?」


 後ろから声が聞こえた。


 低くて落ち着いた声、リアが大好きな声だ。


「ああ、やっぱりリアだ。久しぶりだな」


 振り返ると、ルロイの笑顔があった。


 心臓をぎゅっとつかまれたみたいに、ドキドキしてたまらなくなる。

なんてタイミングなんだろう、もしかしたら、お花が引きあわせてくれたのかもしれない。


「その花どうしたんだ? かわいいな」


 どうしよう、なんだか意識してしまって、妙に緊張してきた。

いつも通り、いつも通り、いつも……いつもどうしてたっけ。


 ぎゅっとコスモスを握る。


「これね、さっきもらったの」


 リアはそう言って笑った。

やっぱり、ルロイに会えるのは嬉しい。





「卒業研究で魔法ババアのことを調べててさ、今もその帰りなんだ」


 街を歩きながらリアが言った。


 久しぶりにつないだ手は大きくて温かくて、全身がときめきで満たされていく。


「そうか、卒研のテーマ決まったのか。よかったな」


 ルロイの言葉を聞いて、そんなに長い間会っていなかったのかと驚く。


 たしかに、卒研のテーマが決まってからはブラスへの報告や現地調査の段取りなどで忙しくて山を散歩する余裕もなかった。


「ルロイは? 街で会うなんて珍しいね」


「煙草切らしたから買いに来ただけだ」


 歩いていくうちに山の登り口に出た。

今朝通ってきた道がもう落ち葉で埋もれている。


「すっごい山奥の村に現地調査しに行ったんだけど、そこの吊り橋がめちゃくちゃ怖くてさ、渡り切ったときは本気で生きててよかったと思ったよ」


 リアが言うとルロイは面白そうに笑う。


「大げさだな、普通の吊り橋だろ?」


「いや、見たら絶対にルロイも怖がると思うよ。谷底は深すぎて見えないし、踏板がところどころ腐ってたりするし、帰りに渡ったときなんて霧がかかってて全然前が見えなかったんだよ」


 渡りきったとき……リチョウに抱きしめられたことを思い出して胸がざわつく。


 あの霧の中、どのくらいそうしていたんだろうか。


『行きましょうか』


 リチョウは腕を解くとまるで何事もなかったかのように歩き始めた。


「リア?」


 ルロイの声でリアの意識は現実に戻ってきた。


「どうしたんだ?」


 リアは小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせる。


「いや、吊り橋での臨死体験のことを思い出してた。怖かったなあって」


「臨死体験って、そんなに怖い橋なら俺も渡ってみたいな」


 ルロイが笑いながら言う。

きっと、こうやって好奇心は時に死を招くんだろう。


「やめたほうがいいって、だって村の人は橋から落ちて死ぬのは寿命とか言ってるんだよ」


「それも極端な話だな……」


 日はまだ高い。


 1年生は午後の講義を受けている時間だろう。

このまま歩いていたらもう学園に着いてしまう。


「ねえ、ルロイ」


 リアはぎゅっとルロイの手を握る。


「今日もその、なんか研究とかあるの?」


「いや、今日は何もないけど……」


 ルロイはそう言ったあと、リアの手を握り返して笑った。


「ちょっと、一服していってもいいか?」





葱2桔空4(↓←↓←+○)!」


 指先に灯した炎にルロイが煙草を傾ける。


「いい天気だな」


 ルロイは煙草を吸うと空に向かって煙を吐いた。


「そうだねえ」


 リアも空を見る。

空気が澄んでいて空がとても青く見える。


 この時間がずっと続いたらいいのに。


 何度思ったか知れないけど、それが叶わないことは知っている。

心はここに留まっていたくても、季節は確実に過ぎ去っていく。


 木々は毎年葉を散らすけれど、次の春に芽吹くのは違う葉だ。

繰り返しのように見えてひとつとして同じものはない。

花だって毎年咲くけれど、いまここに咲いているコスモスはひとつだけだ。


 リアとルロイのいまだって、ここにしかない。


「研究は忙しい?」


 リアは空を眺めたまま言った。


「いや、そんなでもない」


 ルロイはそう言ってふーっと煙を吐く。


「忙しいってことはないんだけどさ、待ちの時間が長くて、最近は研究室で話し込んでることが多いな」


「どんな話?」


 リアはなんの気なしに聞いた。


 太陽の光を落ち葉が照り返して、あたり一面が金色に輝いている。


「どんなって言われてもな、しょうもないことばっかりだけど……ああ、最近は進路の話も多いかな」


 あ……来たぞ。

心臓がどきっと跳ねた。


「ルロイはさ、卒業したらやっぱり冒険するの?」


「当たり前だろ」


 ルロイはのんびりと答える。


「どこに、行くの?」


「まずはグロスヒューゲルで情報を集めるな。それで、情勢が安定してそうなら東のほうに行こうと思ってる」


 そう言ってルロイは煙草を吸う。


 冒険の話になるとやっぱり楽しそうだ。

きっと、はやく冒険に出たくて仕方がないんだろう。


「あのさ、ルロイ」


 今……今だよな、きっと、今しかない


 リアは震える手でぎゅっとコスモスを握りしめた。


「それ、私も連れていってくれないかな」


 澄みきった空気の中、リアの声は妙に響いた。


 身体中が心臓になったみたいに、ものすごい勢いで脈打っている。


 ルロイは少しの間驚いたようにリアを見ていたが、ゆっくりと、まるでずっと前から決めていたみたいにはっきりと答えた。


「ごめん、それはできない」


 どくんっ! と心臓が鳴った音が聞こえた。

胸に石でも詰まってるみたいに、急に呼吸が重くなる。


「なんで……?」


 驚くほど険しい声が出た。


「お前、家に帰らないといけないんじゃないのか?」


 ルロイが口にしたのは、いやに常識的な言葉だった。


「知ってたの?」


 リアの家のこと、結婚のこと。

ルロイにだけは決して知られたくなかったこと。


 ルロイは静かに首を横に振る。


「詳しいことは何も知らない。でも、俺が気軽に連れ出せるような子じゃないのは感じてた」


 そんなふうに思われてたのか。


 2人でいっぱいいろんな話をして、手をつないで同じ景色を見て、一緒にお酒を飲んで、同じ部屋で眠っても、違う世界の人間だと線を引かれていたのか。


 風が吹いて木の葉を散らしてゆく。


 リアは大きく息を吐いた。


「私、卒業したら結婚することになってるの」


 ついに言ってしまった。

ルロイは驚いた様子もなく静かに聞いている。


「お父さま……親の仕事の関係で、顔も知らない人」


 リアは空を見上げる。

今までに見たことがないくらい、空は広くて青い。


「最初はね、それでいいと思ってたの。私の地元では別に珍しいことでもないし……ただちょっと、結婚する前に街の外を見てみたいなあって思っただけだった」


 だけど、出会ってしまった。


「ルロイに会うまで、私、世界が広いことを知らなかった。新しいものを見つけるたびに、新しい世界がどんどん広がることなんて知らなかったの」


 海も、星も、大都会も、遺跡だって、きっと新しい冒険につながっている。

外の世界の『その先』は果てしなく広がっているんだ。


「確かに、家のために結婚するのが私の役目かもしれない。でも、広い世界のほんの一部を見ただけであの狭い田舎町に帰るのなんて嫌」


 だってリアは知ってしまった。


 世界の広さを、知らない景色を見つける楽しさを。


 大好きな人の隣にいられる嬉しさを。


 リアはルロイの目を見上げる。


「ルロイと、離れるのなんて嫌」


 ルロイはしばらく黙って煙草を吸っていたけど、静かに言った。


「人生はさ、もうそれ自体が冒険だと思うんだ」


 ルロイはリアの手に手を重ねる。

手の甲にすっかり馴染んだルロイの体温が伝わる。


「行く先々で出会いがあって、同じ数だけ別れもある。お前が地元にいたとしても、家に入ったとしてもそれに変わりはないだろ」


 だから? だからなんだって言うんだ。


「だから……おとなしく家に帰れって言うの?」


 リアは身をひるがえすとルロイの膝の上に跨った。


「わっ」


 予想外の動きに不意をつかれたのかルロイが体勢を崩す。

リアはルロイの腕を押さえつけると目をまっすぐ見据えた。


「ルロイが言ったみたいに、人生そのものが冒険なら、私はルロイと一緒に冒険したいんだよ! こうやってルロイと話して、ルロイに触って、ルロイと同じものを見て……私、ルロイの隣にいられるなら他には何もいらない。家族にだって……」


 なぜか父親の顔が浮かぶ。


「会えなくなってもいい」


 身体中が熱い。

知らず知らずのうちに息が荒くなっていて、苦しい。


「ねえ、ルロイの冒険に、ルロイの人生に私を連れていってよ。私、ルロイが好き、ルロイが大好き、大好きなの!」


 リアの言葉はまるで悲鳴みたいだ。


 ルロイは何も言わない。

少し困ったような、優しい目で黙ってリアを見ている。


 どうしたらいい?


 これ以上に何をしたら、何を言ったらルロイを揺さぶれるんだ。


 ここで引き下がったら絶対ダメだ。


 いままでの人生で、こんなにひとつのものを欲しいと思ったことなんてなかった。

こんなに、狂おしいほど何かを求めてしまうことなんてなかった。


 リアの全部、持ってるもの全部でぶつからないとダメだ。


 だって、ルロイの隣にいられないなら、『わたし』なんていらない!


 リアはシャツに手をかけるとひと思いに脱ぎ捨てた。


 裸になった上半身に冷たい風が沁みてリアは身を震わせる。


「寒っ!」


「何やってるんだ馬鹿! 風邪ひくぞ」


 ルロイがあわててリアの身体を隠すように両腕をまわす。


「だって、好きなの! ルロイが好きなの!」


 何が残ってる? 私の手札。


 あと何がある?


 そうだ、魔法、魔法は?


 リアがさっと両手を構えると、ルロイは少しだけ緊張した面持ちになる。


 魔法で、何ができる?


 ルロイの煙草に火をつける魔法?

笑顔にする魔法?

エーミール先輩にキスしてもらう魔法?

暗闇を照らす魔法?


 そんなことがいくらできても、ルロイに連れて行ってもらうことはできない。


 魔法なんて使えたって、運命は何も変わらない。


 リアがどんなに必死にくらいついても、ルロイの答えは変わらない。


 どこまでも優しくて、少し悲しそうな目でリアをまっすぐ見ている。


「どう、どうしたら……いいんだよぅ」


 リアは力なく両手を下ろした。


「ありがとう……ごめんな」


 ルロイは上着を広げてリアを包むと優しく抱きしめた。

むきだしの肌にルロイの体温が浸み込んでいく。


「はじめてリアを見たとき、すぐにわかった。いいところのお嬢さまなんだって」


 温かい腕の中、頭をなでられながらリアはルロイの言葉を聞いていた。


「足を治してくれた時?」


「いや違う、入学式だ。上等なワンピースを着てて、髪の毛がきれいだった」


 ルロイの声も、体温も、手のひらの感触もすごく優しくて、安心して眠ってしまいそうになる。


 ルロイとの時間はもうすぐ終わってしまうのに。

ルロイに、ずっと一緒にいたいと思ってもらえなかったのに。


「なんであれ着るのやめたんだ? すごく可愛かったのに」


 入学式に着てきたワンピースのことだろうか。

お気に入りだったはずなのに、田舎くさいと思ってすぐに着なくなってしまった。


「だって山歩きには向かないし、誰もあんな格好してなかったんだもん」


 ルロイがそんなふうに思ってくれてるなんて、全然知らなかった。


「確かにそうだろうな」


 ルロイは小さく笑ってリアを抱きしめる。


「それでどういうわけか気に入られて、一緒にいるうちにお前がただ魔法を学びに来ただけじゃないってこともわかってきた。地元が窮屈だったんだろうことも」


「そんなことまで気づいてたんだ」


 リアはそっとルロイの胸に耳を寄せた。

心臓の激しく打つ音が伝わってくる。


「だって普通は来ないだろ。冒険者もお嬢さまも、こんな学校には」


 ルロイがいたずらにリアの髪をほどいてゆっくりと指を滑らせる。

少しくすぐったくてリアはルロイの服をきゅっと握る。


「だからさ、これも何かの縁だと思って、学園にいる間……この2年の間にできるだけいろんなところに連れてってあげよう、いろんなものを見せてあげようって思ったんだ」


「学園にいる、2年間だけ?」


 ルロイの優しい指を感じながらリアはつぶやく。

髪に触れられるたびに、切なさが全身に積もっていくようだ。


「お前が何にでも新鮮な驚きを見せることが楽しかったし、俺のことが好きなんだろうなって思うと可愛くて仕方なかった」


「私、可愛い?」


 リアが目だけでルロイを見ると、ルロイはゆっくり頷いた。


「ああ、お前のことはいつも、すごく可愛いと思ってたよ」


 ルロイは笑ってリアの頬を撫でる。


「酒場で声をかけられて泣きそうになってる時とか、ああ、エスメラルダを気にしてるときも本当に可愛かった」


「それじゃあ、どうして……」


 リアは目を伏せる。


「どうして、私を……」


 それ以上はリアには言えなかった。


 ルロイはぎゅっとリアを抱きしめた。


「俺みたいなやつがお前に触ったらいけないと思ってた。最後はちゃんと家に帰してやらなきゃいけないから」


 ルロイは小さく息を吐くと、リアの目をまっすぐに見て言った。


「俺はリアの人生に責任を持てないからな」


 ああ、これ以上はもう逃げられない。


 この残酷な答えから目を背けることはできないんだ。


「そう、そうだったんだ」


 こんなに一緒にいたのに、ずっとずっと追いかけていたのに、『かわいいお嬢さん』以上の存在にはなれなかった。

リアの捨て身の一撃は、ルロイの心を貫くことはできなかった。

ルロイの壁をぶち破ることはできなかった。


 ここでこれ以上何を言ったってダメなんだろう。

ルロイの答えが揺らぐことはない。


 この優しい腕の中は、リアの居場所ではないんだ。


「わかったよ」


 リアは顔を上げてルロイの目を見る。


 最後に、最後にもう一回だけ……


 いや、ダメだ。

そんな情けにすがるようなみっともない真似なんてしない。


「ルロイがいてくれて本当に楽しかった。ありがとう」


 リアは服を着て立ち上がるとルロイに背を向けて歩き出した。


 本当に、悲しくなるくらい青い空だった。





 降り積もった枯葉に足が埋まる。


 歩き慣れたはずの山道なのに、今日は妙に険しく感じる。


 あれはたしか、7歳のとき。

ピアノの発表会でミスをして、頭が真っ白になって最後まで弾けなかった。


 9歳、風が涼しい夏の日。

可愛がっていたリスが目の前でカラスに食べられた。


 金色の落ち葉に埋もれた、12歳の秋。

3人でよく遊んでた友達がいつのまにかリアを外して2人だけで遊ぶようになっていた。


 冷たい風が頬を刺していく。

立ち止まってはだめだ、無理やり足を踏み出す。


 14歳になった日。

可愛いドレスを仕立ててもらったのに水たまりで転んで台無しにしてしまった。


 忘れもしない、16歳の夜。

リアが街を出たいと言いだしたせいでお父さまとお母さまが喧嘩をしていた。


 リアが家を出るのをあんなに嫌がっていたのに、リヒトシュパッツを発つ日、お母さまは「しっかり勉強してらっしゃい」って笑顔で見送ってくれたっけ。


 ぼろっと涙が落ちる。


 だめ、こんなところで泣いちゃだめだ。

袖で涙を拭う。


 今まで悲しいことも辛いこともいっぱいあった。

でも、その先に楽しいことや嬉しいことだっていっぱいあった。


 だから、今回だって大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 大丈夫なはずなのに。


 ルロイのいなくなった世界で、いったい何をすればいいんだ。


 だめ、しっかりしないと。


 足元から世界が崩れていってしまう。

世界が、きのうまで当たり前にあったはずの世界がなくなってしまう。


 足元を野生化したモルセーグが走って行って、リアは派手にひざをついて転んだ。


 去年はルロイが助けてくれた。

でも、もう自分で立ち上がらなきゃいけない。


 ルロイはもう、リアに回復魔法をかけてくれることはない。





「どうしたんだ?」


 泥と落ち葉にまみれたリアを灰色の瞳が心配そうに見つめる。


「怪我してるじゃないか、大丈夫か?」


 木漏れ日を浴びて長いまつ毛が金色に輝く。


 こんなに、悲しくてたまらない時でも、エーミール先輩はやっぱり美しい。


「大丈夫、転んだだけです」


 リアは感情を出さない声で言った。


 去年も似たようなことがあった。


 あの時はリアの勝手な想像で落ち込んでただけだったけど、今回は違う。


 はっきりと言葉にして言われた。

同じ道を行くことはできないと。


 それに……このタイミングで会ったのは、もしかしたら偶然ではないのかもしれない。


 エーミール先輩には泣いているところを見られてはいけない。

エーミール先輩の優しさにだけは、絶対に甘えてはいけないんだ。


「でも……」


「本当に大丈夫なんで」


 まだ何か言いたげなエーミール先輩を振りきるように、リアは早足で門をくぐった。





 まだ午後の講義は終わっていないみたいでリアは少しほっとした。


 部屋に戻る前に脚の泥だけでも洗っていかないと……リアは屋外洗濯場に向かった。


 ひざを洗い流すと思っていたより傷が深くて、冷たい水がしみた。

泥に混じって流れていく血を見たら悲しくなって、どうしようもなく涙が出て止まらなくなる。


 早く泣き止まないと、誰かに見つかってしまう。

この青い空の下では、どこにも隠れることなんてできない。


「どうしたんだ? レディに涙は似合わないぜ」


 涙にまみれたリアに誰かが声をかけた。


「その怪我、俺が治してもいいかな?」


 そう言ってハンカチを差し出したのは、リアが一番最初に出会った魔法使い……学園長のノイフェルトだった。


 リアは頷いてハンカチを受け取る。


 知らなかった。


 学園長先生、話したことなかったけど、話し方とかまあまあキモいんだな。


 学園長先生が慣れた手つきで印を結ぶとすぐにリアの傷は治った。


「ありがとうございます」


「涙のワケは……聞かない方がいいか?」


 ジジイは普通に喋れないんだろうか。


「現実が、現実を受け入れるのが難しいときは、どうしたらいいんでしょうか」


 こんな時、魔法なんてなんの役にも立たない。


 この魔法ジジイも人生の中で、こんなふうにどうしようもない喪失感に打ちひしがれることがあったんだろうか。


「君の問題を解決する術を俺は持たない……ただ、君を笑顔にするとっておきの方法は知っている」


 なんでこんな話し方なんだろう。

入学式の挨拶では普通だったのに。


「鉄道系双六だ! みんなで楽しく遊べば涙も吹っ飛ぶぜ」


 出た、鉄道系双六。


「俺も行っていいですか? なんか面白そう」


 洗濯場の奥からヨゼフが現れた。


「え、ちょっと……いつからいたの?」


 動揺するリアにヨゼフはさらりと言う。


「最初から。声かけようかとも思ったけど、なんかお前やべえ顔してたから」


 見られていたのか……全然気づかなかった。


「大勢のほうが楽しいからな! そうと決まったら早くやろう」


 回復ジジイは楽しそうに笑った。





「フィーア! 双六の準備だ!」


 回復ジジイが機嫌よく言うとフィーアはまじまじとリアたちを見る。


「あなた達、本当にあのゲームをするの?」


 リアとヨゼフは顔を見合わせて頷く。


 いったい、どんなゲームが始まるんだ。


「お前も入れ! 4人でやるぞ」


「いいですけど……ケンカしないでくださいよ」


 フィーアは応接間に双六の準備をしてくれた。


「もう、夕飯の支度だってあるのに……」


 フィーアから簡単にルールを説明してもらったあと、回復ジジイが楽しそうにサイコロを振った。


「最初の目的地を決めるぞ!」





 フィーアが渋っていた理由はすぐにわかった。


「まったくなってない! ゴールしづらい目的地の時はあえて狙わずに貧乏神がつかないようにするのも大事だ」


「うるせえクソジジイ」


 リアが悪態をつく。


 クソジジイは接待プレイというものを知らなかった。


「カードを制すものが双六を制する! 刀狩りカードで刀狩りカードを奪うのは基本だ」


「いい加減にしろよクソジジイ」


 ヨゼフがクソジジイを睨むとリアも同調する。


「妨害ばっかりしやがってクソジジイ」


 すっかり口が悪くなった2人をフィーアがたしなめる。


「ちょっと、学園長先生のことクソジジイって言うのやめなさい!」


 いったいどれだけジジイの独壇場が続いたんだろうか。


「はい、では10年終了時点で所持金が最も多いクソジジイの勝利とします」


 フィーアの言葉で双六から解放されたときには夜も深まっていた。


「クソジジイだったな」


「クソジジイだったね」


 げんなりした顔でリアとヨゼフは廊下を歩いていた。


「せっかくのオフだったのに……おとなしく部屋戻ればよかった」


 ヨゼフが大きいため息をつく。


 リアもこの時間で魔法ババアの調査結果をまとめればよかった。


「それで、何かあったの?」


 ヨゼフが静かに言った。


 何かあった? 何があったんだっけ。


 ルロイの気持ちを確かめて、それで、ルロイの答えを聞いて……何かを失くした気がするんだけど、それが何なのか正体がわからない。


 そういえば、魔法ババアからもらったコスモス……いつのまにか失くしてしまった。

あんなにかわいい花だったのに、勇気を出すためだって、プレゼントしてもらったのに。


 じわっと目に涙がにじむ。


「あ、言いたくないならいい」


 ヨゼフが気まずそうに言う。


「ルロイと卒業したあとの話をしてて、私も冒険について行きたいって、言ったら、ダメって」


 あ……やばい。

思った時にはもう涙があふれていた。


 ヨゼフはぎょっとしたような顔でこちらを見ている。


「ごめん……本当にごめん」


 一度涙が出たら止まらなくて、リアは抑えきれずに声を上げて泣いた。


「ルロイ、ルロイ、ルロイ、嫌だ……どうして……」


 心がちぎれてばらばらになってしまいそうだ。


 ルロイと一緒にいられないのなら、こんなに苦しいのならいっそなくなってしまえたらいいのに、リアの心も体も、どうしようもなくここにある。


 ヨゼフは何も言わなかったけど、リアが泣き止むまでずっと隣にいてくれた。





 部屋に戻るとメイリはもう眠っていた。


 起こさないよう明かりをつけずにそっとベッドに入る。


 早く眠ってしまいたいのに、目を閉じると昼間のことが思い浮かんで苦しくなる。


『ごめんな』


 声を立てないように、リアは全身を震わせて泣いた。


 この苦しい夜が早く終わってほしいと思う反面、時間が進むことが恐ろしかった。


 朝になったら、ルロイのいない世界が揺るぎない現実になってしまう気がして、恐ろしくて仕方がなかった。

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