第21話 自分よりバカな奴みると安心する
干したばかりのシャツを涼しい風が揺らす。
バルコニーに差し込む日差しは日に日に強くなって、夏が近づいているのを感じる。
リアはふと空を見上げた。
去年の夏は、ルロイと2人で海を見にいったな。
太陽を浴びて輝く海を眺めて、ルロイといっぱい話をした。
今年の夏休みはどうなんだろう……また、ルロイと一緒に冒険することはできるんだろうか。
どこまでも青い空に太陽がまぶしく光っていた。
◇
週末の午後、リアは図書室で前年度卒業生の進路記録を見ていた。
《回復魔法科》
医療 1名
土木・建築 1名
進学 1名
その他 1名
《活動魔法科》
農林 3名
土木・建築 2名
製造 1名
その他 2名
《魔法理学科》
農林 2名
土木・建築 1名
流通・小売 1名
飲食 1名
その他 1名
卒業後の進路は様々だ。
フィオナ先輩みたいに地元で家業を継ぐ学生もいるし、エーミール先輩やジョバンニ先輩みたいにドライツェンに残る学生もいる。
ブラスの話では、『その他』の中には軍人になった学生も含まれるらしい。
ホーエンノイフェルト魔法学園の理念《人を傷つけるために魔法を使わない》にそぐわないものだから、表立っては記載されない。
『活動魔法』も学園長先生の造語だ。
学園外、冒険者や軍人たちの間では攻撃魔法と呼ばれている。
ドライツェンの歴史を考えると、学生が軍人になることに学園長先生がいい顔をしないのもわかる。
この『飲食』はエーミール先輩か。
また胸がザワザワする。
なんでだろう、最近何かにつけてエーミール先輩のことを思い出してしまう。
会いたくて、笑顔が見たくて、声が聞きたくて……この感情はなんなんだろう。
今までだってそんな頻繁に会ってたわけでもない。
でも、エーミール先輩がもう学園にいない、同じ建物にいないと思うと寂しくてたまらない。
本当に、なんでこんな気持ちになってしまうんだろう。
リアは記録を棚に戻すとあたりを見まわした。
図書室は静かだ。
昼間でも重い扉に遮られて陽の光も入らないし、学生たちの声も聞こえない。
あの日もそうだった。
リアは裏庭に続くドアを見る。
だめだな、この時間が止まったような空間はいろいろなことを思い起こさせる。
リアは静かにドアを開けた。
◇
初夏の強い日差しを吸い込んできらめく金髪が目に入ってリアはどきっとした。
一瞬、本当にエーミール先輩かと思った。
裏庭ではクラムがひとりで座り込んでいた。
リアは声をかけるべきか迷っていた。
落ち込んでるようにも見えるけど、ひとりでいたいだけかもしれない。
寮生活では基本的にひとりになれる場所はない。
講義も食事もお風呂も、寝るときだって誰かと一緒だ。
たまにそれがしんどくなることはリアもよく知っている。
「どうしたの?」
結局、リアはクラムに話しかけた。
「先輩……」
クラムは疲れたような顔でこちらを向く。
つやのある金髪がサラサラと揺れる。
こうやってみると同じ金髪でもエーミール先輩とは色あいが違う。
エーミール先輩の髪は蜂蜜のような深い色だけど、クラムはレモンみたいに明るい。
なんでさっきは見間違えたんだろう。
「ノエルと喧嘩でもした?」
クラムは首を横に振る。
「いえ、違うんです。ノエル、ちょっと変なところはあるけどいい子だし」
そう言ってため息をつくとクラムは黙ってしまった。
悩みがあるにしても、人に相談するようなことではないのかもしれない。
やっぱりひとりにしておいてあげよう。
「まあ、何か困ったことがあったらいつでも相談に乗るから。じゃあ」
「あの」
校舎に戻ろうとしたリアをクラムは呼び止めた。
「あの、わたし……」
ためらいがちにクラムが口を開く。
「魔法理学が、全然わからないんです」
◇
頼むから他をあたってくれ!
リアは自分の顔が引きつっているのがわかった。
「もういちばん初めの講義からわからなくて……教科書も読んでみたんですけど書いてあることの意味もわからなくてとにかく何もわからないんです」
リアの成績を知らないクラムは深刻な顔で話を続ける。
「もうすぐ期末考査なのに……このままだといけないのはわかってるんですけど、どうしたらいいのかもうわからなくて」
「その、クラスの子には聞けないの? ほら、回復魔法科って仲良さそうじゃん」
回復魔法科の1年生が4人で行動しているのはよく見かける。
人数が少ないせいか回復の学生は関係が親密そうでリアは少しうらやましい。
「一度教えてもらったんですけど、全然理解できなくて……なんか申し訳なくなっちゃって」
ああ、痛いほどわかる。
わかる人はわからない人がなんでわからないのかわからないからわかる人に教えてもらっても結局わからないのだ。
リアはエーミール先輩に魔法波の性質を教えてもらったときの惨状をまざまざと思い出した。
「ノエルとか絶対私より×××だと思ってたのに、『普段の講義きいてれば大体わかる』とか言ってて、もう本当にいろいろ辛くて」
話しながらクラムは泣き出してしまった。
どさくさでルームメイトへの侮蔑が聞こえた気がしたけどそれは聞かなかったことにする。
リアは泣いているクラムを抱きしめた。
「大丈夫!」
クラムの耳元でリアは力強く言った。
人を抱きしめるのなんて初めてだったので実はかなり勇気を出した。
クラムの細い体はとろけそうなくらい柔らかくて熱い。
「私も1ミリも理解できなかったけど、でもちゃんと単位取れたから!」
腕の中で泣いているのは、去年のリアだ。
「先輩……」
「今まで辛かったね。もう大丈夫だから、泣かないで」
今度はリアが助ける番だ。
リアはクラムを抱きしめる腕に力を込めた。
◇
クラムが泣き止むのを待って2人は空き教室に来た。
「期末考査の過去問は持ってる?」
リアの言葉にクラムは首を横に振る。
「じゃあちょっと待ってて、どっかでもらってくる」
クラムを空き教室に残してリアは廊下に出た。
意気込んで出てきたものの、そんなにうまく回復魔法科の2年生に会えるだろうか。
ルロイがいたら一番いいんだけど、多分この時間は山で煙草でも吸ってるだろう。
とりあえずアレをとりに行くか。
リアは寮の自室に向かった。
◇
これにはお世話になったな。
リアは壁に貼っていたよく使う公式と語呂合わせの紙を見た。
カールにこの紙をもらったのは去年の今頃だった。
いまではすっかり公式も語呂合わせも頭に入っている。
ちょっと名残惜しい気もするけど、もうリアの手を離れる時が来たのかもしれない。
リアは紙を壁からはがした。
さて、どうしようか。
男子寮に行くのはさすがにはばかられる。
女子寮である3階は当然男子禁制だけど、2階も女子は立ち入れない空気がある。
まあ、リアは一度入ってしまったが……あれはイレギュラーだろう。
共有スペースにだれかいないかな。
食堂に行くと昼食の時間は終わっていて、配膳当番だろう一年の男子学生が机を拭いていた。
談話室ものぞいてみたけど誰もいなかった。
案外人がいないんだな。
みんな街にでも出ているか、部屋でくつろいでるのかもしれない。
あの部屋に行ってみるか。
ちょっとおそろしい気もするけどクラムのためだ。
リアは再び教室棟へ歩き出した。
◇
ああ、緊張する。
誰もいなかったらまた仕切り直しにしよう。
リアはためらいがちにドアを開けた。
きゅぅきゅぅきゅぅ きゅぅきゅぅきゅぅ
牧草の匂いがする狭くて薄暗い部屋の中、モルセーグの鳴き声が響く。
「え、何?」
回復実習室の奥、実験生物飼育室で檻の掃除をしながら彼は驚いた顔でリアを見た。
名前は知らないし話したこともないけど顔は知っている。回復の2年生だ。
「そこ、閉めて」
「あ、ごめん」
リアはあわててドアを閉める。
実験生物の世話は回復の学生の仕事だと聞いてたので、誰かいるかもと思って来てみたけど当たりだった。
「どうしたの?」
慣れた手つきで牧草を交換しながら彼が言う。
「用があるから来たんだろ?」
「あの、期末考査の過去問が欲しくて」
「過去問?」
リアが頷くと彼はモルセーグを檻に戻して言った。
「けっこう書き込んでるけどいい?」
「うん、ありがとう」
◇
「なんでそんなものが要るの?」
廊下を歩きながら彼が言う。
「後輩のクラムのためなの」
「ああ、『姫さま』ね」
2年生からは姫さまって呼ばれてるのか。
たしかに、回復魔法科の男子学生に囲まれてクラムはさながらお姫さまのようだ。
「さっき話してたんだけど、魔法理学が1ミリもわからないって言ってたから教えてあげようと思って」
「へえ、あの子バカだったんだ」
意外そうな彼の言葉にリアは頷く。
「うん、私も去年の期末考査赤点だったから、なんだかほっておけないんだ」
「いや、お前もバカなのかよ。バカが集まったところでなんにもならないだろ」
「バカにしか、わからないことだってあるんだよ」
話しているうちに寮に着いた。
「ちょっと待ってて、とってくる」
リアを階段で待たせて彼は部屋に向かった。
なんだか不思議だな。
リアは男子寮の廊下を見て思う。
女子寮のすぐ下、本当に近い距離にあるのに全くといっていいほど行き来がない。
ここはまるで異世界みたいだ。
リアが一度だけお邪魔したエーミール先輩の部屋は、今は別の学生が使っているんだろう。
すぐに彼は戻ってきた。
「魔法理学と、一応薬学も持ってきた。これでいい?」
リアは頷いて計算式と自己採点が書き込まれた問題用紙を受け取る。
「ありがとう」
リアは階段を降りようとしてふと気づいた。
そういえば彼の名前を聞いていない。
「私、リアっていうの。あなたは?」
急に振り返ったリアに、彼は少し驚いた顔をしたあと口を開いた。
「ヨゼフ」
「ヨゼフか、じゃあまたね」
「ああ、ちゃんと教えてやれよ」
ヨゼフは軽く手を振ると部屋に帰っていった。
◇
これでアイテムは揃った。
リアはクラムのもとへ急いでいた。
ずっと、クラムはひとりで悩んでたんだ。
ヨゼフが言っていたように、リアだって今までクラムがバカだとは思わなかった。
学者の家の生まれで希少な回復魔法使い、それも女性だ。
加えて、長い金髪に白い肌、凛とした容姿は時に冷たい印象さえ与える。
どこをどう見てもバカには見えない。
だから、誰もクラムの苦悩に気づかなかった。
それに、もしかしたら自分がバカなことに一番ショックを受けているのはクラム自身なのかもしれない。
でも、もうひとりじゃない。
リアが教えるんだ。
バカにはバカなりの戦い方があることを。
「ごめん、お待たせ」
リアが空き教室に戻るとクラムはどこで見つけたのかトカゲと遊んでいた。
◇
「これが回復の過去問で、これがよく使う公式」
集めた資料を机の上に広げる。
回復魔法科の試験問題は活動魔法科より簡単そうだったのでリアは少し安心した。
出題範囲が狭いし応用問題もない。
「コツさえつかめば問題は解けるから」
リアは過去問を指して言う。
「例えばこれ、問題文に屈折って書いてあったらこの式で、回折って書いてあったらこれを使えばいいの」
「え、本当だ! すごい」
「それで、覚え方なんだけど」
リアは得意げに語呂合わせの紙を取り出す。
「××××の××は××××××? なんですかこの汚らしい言葉は」
「これは覚えやすいように語呂合わせになってるの。エーミール先輩っていうすごい人が考えたんだよ」
リアは何度この語呂合わせに助けられたのかしれない。
「なるほど……これがあれば、単位が取れる」
さっきまでの悲壮感が嘘のようにクラムの目がきらきら輝く。
「パイセン! ありがとうございます!」
そう言ってクラムはリアに抱きついてきた。
パイセン……? 謎の単語はちょっと気になったけど、柔らかい体温が妙に心地よくてリアはドキドキしてきた。
◇
「なんでこの式使うのかとか、魔法波の性質とか考えだしたらわからなくなるから。とりあえず解き方だけ暗記すれば点数はとれるんだよ」
「ああ、もっと早く知りたかった」
リアはクラムが笑ってくれて安心した。
去年のリアは赤点で追試だったけどそのことは黙っておいた方がいいだろう。
「私、今でも教科書に書いてあることよくわからないけど、理解することをあきらめてからは問題が解けるようになったんだ」
「そうか、無理にわかろうとしなくてもよかったんだ」
「よくないだろ……」
2人で話していたら教室の入口から声が聞こえた。
「ちょっと気になって来てみたけど、めちゃくちゃなこと言ってんな、お前ら」
見ると、呆れた顔でヨゼフが立っていた。
手には勉強道具を持っている。
「だいたい原理を理解しないで試験だけできたって仕方ないだろ」
すごく正しそうなことを言いながらヨゼフは教室に入ってきた。
「そんなこと言っても、まずは単位をとらないと。理屈はあとからわかればいいんだよ」
過去問の自己採点とかしてるところを見るとヨゼフはおそらくできる側の人間だ。
リアたちとは生きている世界が違う。
「まあいいや。俺もここで勉強するから、わからないことがあったら聞けよ」
そう言ってヨゼフは空いてる椅子に腰掛けるとノートを広げた。
「あ、ありがとうございます」
クラムはそう言って問題用紙を見る。
おそらくクラムにとって書いてあるすべてが『わからないこと』だ。
ヨゼフには想像もつかないだろうが。
「じゃあ私もここで勉強しようかな」
以前のような苦手意識はなくなったけど、リアも決して余裕があるわけではない。
リアは勉強道具を取りに再び部屋へ向かった。
◇
「今日はありがとうございました」
クラムはそう言って頭を下げた。
結局夜まで3人で勉強して、そのまま食堂に夕ごはんを食べに来ていた。
「力になれてよかったよ。ヨゼフもありがとう」
「いいよ、暇だったし。結構面白かった」
ヨゼフが淡々と言う。
試験勉強が面白いとは……やっぱりわかりあうことはできそうにない。
「ヨゼフはさ、卒業したあと何するの?」
ふと思いついてリアは聞いてみた。
「まだ決めてない」
スープを飲む手をとめてヨゼフが答える。
「迷ってるんだ。魔法使いとして就活するかどうか」
「魔法使いなことを伏せて就活するってこと?」
ヨゼフは頷く。
「回復魔法使いとして就職した方が条件がいいのは確かだけど、あまり周囲に回復魔法が使えることを明かしたくないんだ。どこから聞きつけるのか『治療してくれ』って人が絶えなくなるし、ややこしい奴らに目をつけられるのも嫌だしな」
やっぱり回復魔法使いにはそういったわずらわしさがつきまとうのか。
女性であるクラムはなおさらだろう。
「クラムはさ、怖くなかった? その、回復魔法使いって周りに知られること」
「そりゃあ、怖いですよ」
クラムは即答した。
「回復魔法使いが犯罪に巻き込まれやすいのは知っています。この力が悪い人たちに利用されてることも」
話してるうちにクラムの言葉に力がこもる。
「でも、そんな奴らのために私が力を隠して引きこもるなんて違うと思うんです。せっかくこんな魔法が使えるんだから、しっかり向き合って、ちゃんと勉強して自分に何ができるのか考えていきたい……だから学園に来たんです」
すごい、ちゃんとした考えを持ってるんだな。
しっかりした口調はとても勉強がわからなくて泣いていたとは思えない。
ヨゼフは何も言わずにクラムを見ていた。
◇
魔法理学は60点だった。
応用問題以外は全部できたと思ってたけど4割も間違えてたのか。
実習も終わったし、これであとは卒業研究だけだと思うと安心する反面少しあっけない気もする。
まあ、落とさなくて本当によかった。
「お前も成長したな」
感慨深そうにカールが言う。
そういえば実習も魔法理学もカールに頼らずに乗り切ったのは初めてだ。
「うん、今回は後輩に魔学を教えてあげてたんだよ」
リアは誇らしげに言った。
思えばここに至るまで、決して平坦な道ではなかった。
「え、お前赤点すれすれだったのに人に教えられる立場かよ」
確かにカールの言う通りだ。
クラムはちゃんと単位を取れただろうか。
とにかくこれで試験はすべて終了した。
後期からは卒業研究がメインになる。
「カールは卒論のテーマもう決めた?」
「いや、夏休み中には決めたいと思ってるけど」
リアは試験勉強で精一杯で卒論のことなんて全然考えてなかった。
こうやって目先のことにとらわれてるうちに、ものすごい速さで学生生活は通り過ぎてしまうのかもしれない。
◇
「パイセン!」
廊下を歩いていたら声をかけられた。
見ると回復の学生の中に晴れやかな笑顔のクラムがいた。
「単位とれました! 本当に本当にありがとうございます」
クラムは嬉しくてたまらないみたいにリアの前でぴょんぴょん跳ねた。
ちょっと大げさな気もするけど、感情表現がストレートで可愛らしい。
さすが回復魔法科の姫さまだ。
「なんだ、お前パイセンって呼ばれてるのか?」
背後から聞こえた声にリアは一瞬で心臓をつかまれた。
聞き間違えるわけがない、優しい声。
リアはゆっくりと振り返った。
「エーミール先輩!」
ずっと会いたかった笑顔がそこにあった。
少し髪が伸びて、顔つきも大人っぽくなった気がするけど、リアを見つめる優しい目は変わらない。
「元気そうだな」
「はい、先輩も」
エーミール先輩と話すのは卒業式以来だ。
話したいことはいっぱいある。
地元に帰りたくないこと。
いろいろと濃い後輩のこと。
卒論のテーマが決まらないこと。
それから、卒業式の日にリアを裏庭に放置して帰ったことに対しては普通に怒っていた。
もっとゆっくり話したい。
ドライツェンまで一緒に山を降りてもいいし、なんならそのまま酒場に飲みに行ったっていい。
でも、今日はだめだ。今日だけはだめだ。
「じゃあ、俺は仕事があるから」
エーミール先輩はそう言うと忙しそうに学園を出ていった。
「パイセン、誰ですか? あの人」
クラムがリアに声をかける。
「2期生のエーミール先輩。この間卒業したんだけど、働きながら学園で研究をしてるんだよ」
「ああ、語呂合わせを作った人か。めちゃくちゃかっこいいですね」
そうか、クラムは名前だけ先に知ってたのか。
同じ人なのに出会い方が違うと印象が変わるのはなんだか不思議だ。
「かっこいいだけじゃないよ。エーミール先輩は天才なんだよ」
リアはエーミール先輩が行った方を見ていた。
仕事があるって言ってたな。
もう、エーミール先輩は学生じゃない。
ドライツェンで働いてるのはきっとリアの知らないエーミール先輩だ。
こうして、会わないことが普通になって、少しずつ他人になっていくのかもしれない。
◇
強い日差しが地面に濃い影を落としている。
太陽に照らされて草の匂いもぐっと強くなる。
リアは早足で山を歩いていた。
「どうしたんだ?」
山頂近くの草地でルロイは振り返った。
やっぱり気付いていたのか。
食堂でルロイを見かけて、リアはずっと後をつけていた。
「別に、どうもしないけど」
リアは草地に腰をおろす。
どうもしないことはないけど、なんだか言い出すタイミングがつかめない。
ルロイが煙草を吸うのを見ながらリアは口を開いた。
「試験終わったね」
「そうだな」
気のない返事をしながらルロイが煙を吐き出す。
「ルロイは卒論のテーマもう決めた?」
「まだだけど、多分みんなで共同研究になると思う」
共同研究か……そういう選択もあるんだな。
「あのさ、ルロイ」
「ん?」
景色を見ていたルロイがリアの方を向く。
途端に胸がぎゅっとなる。
落ち着け、落ち着いて、いつも通り自然に話せばいい。
「こっ、今年の夏休みは、どこに連れてってくれるの?」
ミスった。意識しすぎて少し噛んだ。
赤くなってるのが自分でわかるくらい顔が熱い。
ルロイはまじまじとリアの顔を見ながら言った。
「お前、それを言うためにここまでついてきたのか?」
リアは無言で頷く。
それを見たルロイがふっと愉快そうに笑う。
「お前の行きたいところ、どこでも連れて行ってやるよ」
嬉しさのほうが先にきた。
心臓を起点に体中にしびれるようなしあわせ成分がダイレクトに伝わって、遅れて頭がルロイの言葉の意味を理解する。
今年の夏休みもルロイと冒険できるんだ。
「どこに行きたい?」
ルロイの笑顔を見ていたらたまらなくドキドキしてきた。
にやけそうなのをぐっとこらえてリアは口を開く。
「まって、ちょっと……考える」
弾けるような日差しに照らされて雲も草木も眼下に広がるドライツェンの街も、すべてが光って見えた。