第19話 既婚者は恋愛相談に「楽しそ〜」とか言うのやめろ
ひたすら青い。
リアは肩まで温泉に浸かって空を見上げていた。
朝の早い時間に来たのでクソガキ共の姿はなく、老人達がくつろいでいた。
「のどかだねえ」
隣で同じように空を眺めながらバイラが言った。
◇
アダムの結婚式から1週間が経った。
リアは式が終わったらすぐにドライツェンに戻るつもりだったけど、アダムが出ていって母があまりに寂しそうにしてるからもう少し残ることにした。
大学に行ってたときよりもむしろ距離は近くなった気がするんだけど、やっぱり新居を構えるのはいろいろ違うらしい。
結婚式ではあんなに嬉しそうにしてたのに複雑なんだな。
エーミール先輩の全力キスで混乱していた気持ちを少し落ち着けたいのもあった。
そんなこんなで地元にいたけど、すぐにやることがなくなって一番風呂に入ったあと街を徘徊するというクソ暇なことをしてたら似たようなことをしてたバイラに会った。
女学校を中退して結婚したものの、旦那は忙しくてあまり家に帰ってこないしマジで暇らしい。
「なんかさ、こうやってやることもなくぼーっとしてるとさ」
バイラがぽつりと言う。
「自分がなんのために存在してるのかわからなくなってくる」
リアは驚いてバイラを見る。
そんな存在論まで話がとぶとは思わなかった。
「大丈夫?」
リアの言葉にバイラは空を眺めたまま答える。
「まあまあ、ヤバい」
◇
「リアはさ、今は暇でも休みが終わったらまた都会の学校に戻るからいいじゃん」
あてもなく街を歩きながらバイラが話す。
「あ、旦那のことは普通に好きだよ? 結構年上だけど、すごくいい人だし頭いいし、結婚したことは本当に良かったんだけど」
リアは頷くことしかできない。
人妻の悩みなんてリアに受け止められるんだろうか。
「なんかさ、結婚した途端に何がってわけじゃないけど『終わった感』みたいなのがあって。あとは子供を産んで育てて、それ以外を求められてないっていうか、なんていうんだろう、それって別に私じゃなくてもいいじゃんっていうか」
バイラは大きくため息をつく。
相変わらず空はどこまでも青い。
「私さ、リアが街を出たいって言ってるの意味不明だったんだ。リヒトシュパッツが好きだし、家族も友達もいるし、何が嫌なんだろうって。でも、今ならわかるよ。この街にいる限り、私は『かわいい奥さん』にしかなれないんだって思うとたまにすごく息苦しくなる」
バイラの言いたいことは痛いほどわかる。
リアだって別にこのクソ狭い田舎街が嫌いなわけではない。
嫌でたまらないのはこの閉塞感だ。
「リアはすごいよ。私は口で言ってるだけで、街を出るような行動力なんてないし、リアみたいに勉強したいことなんてないもん。何もないから、今こうなってるのも仕方ないんだけどさ」
歩いてるうちに町はずれまできてしまった。
小さな古道具屋さんがひっそりと店を構えている。
魔法ババアがいるという噂の店だ。
幼い男の子がリアたちの横を通り過ぎて店に入っていった。手にはノートが握られている。
「こんにちは、よろしくお願いします」
あの子、魔法使いなのかな。
「リア?」
店の前で立ち止まったリアを見てバイラは不思議そうな顔をする。
「ねえ、バイラ」
リアは振り返ってまっすぐバイラを見る。
リアにだって行動力なんてない。
はじめから『普通』に入れなかっただけだ。
「秘密、守れる?」
◇
「リアの部屋に来るの、なんか久しぶり、変わってないね」
バイラが部屋を見回す。
「そうかな? まあ適当に座って」
確かにリアの生活の軸はもうドライツェンに移っている。
この部屋はリアが家を出た日から時間が止まっているかのようだ。
ベッドに座ったバイラと並んでリアも腰を下ろす。
「えーと、何て話したらいいのか」
昼前の明るい光が窓から差し込んでいる。
魔法を見せるなら暗いほうがわかりやすいかもしれない。
「ちょっとカーテン閉めるね」
「え? うん」
薄暗くなった部屋でリアは再びバイラの横に座る。
「あの、あのね」
すごく緊張してしてきた。
本当に、言ってしまっていいのか?
学園で魔法使いに囲まれてるから感覚が麻痺してないか?
「驚かないでね」
バイラは真剣な顔で頷く。
リアはゆっくりと印を結ぶ。
「葱2桔空4!」
リアの指先に火が灯る。
「私、魔法使いなんだ」
「え? ああ、そうなんだ」
◇
「あれ、知ってた?」
「いや、知らなかったけど」
バイラの反応がなんだか薄かったのでリアは拍子抜けした。
「もっと驚かれるかと思ってた」
リアは火を吹き消す。
とりあえず、怖がられなくてよかった。
「驚いてるよ、魔法なんて本当にあるんだね」
そう言ったあと、バイラは笑った。
「でも、あんまりためるから、なにかすごく深刻なことかと思ってさ」
リアにとってはかなり勇気のいる決断だったんだけどな……リアもなんだか可笑しくなってきた。
「それで、今行ってるのも魔法の学校なの。だからさ、この街が窮屈だったのは本当だけど、私にも決断力なんかなくて、ちょっと周りと違っただけ」
リアはくるくる印を結ぶと、手の中に光が生まれる。
「それが言いたかったの」
リアはそう言うとぱんと手のひらを合わせて光を消した。
「うん、教えてくれてありがとう」
バイラはそう言ったあと、小さくため息をついた。
「私も何かできたらよかったのにな」
「バイラは今の生活がつらいの?」
リアは遠慮がちに聞いた。
「うーん、辛いっていうか」
バイラは言葉を探すように宙を眺める。
「旦那はさ、私のことめちゃくちゃ好きなんだよ」
いきなりノロケかよ……と思ったけど、バイラが真剣なので黙って聞くことにする。
「それで私も旦那のこと好きで、旦那はあまり家に帰ってこないけど帰ってきたらやっぱり嬉しくてさ。一緒にごはん食べて、一緒にお風呂入って」
今ちょっと性的なワードが挟まった気がするが話の主題ではないのでリアはスルーした。
「旦那と一緒にいるの、本当に好きだし楽しいんだけど、最近思うんだ……私、一生こうやって旦那の帰りを待ち続けるだけの生活なのかなって」
バイラは淡々とした表情で話し続ける。
「まわりに相談しても『なにそれ、自慢?』とか『もし明日旦那さんが死んじゃったら、今が幸せだって思わない?』とか言われてさ……そういう話をしてるんじゃないのに」
バイラはため息をついて天井を眺める。
「なんかさ、これが『幸せ』で、私がいま『幸せ』なんだとしたらさ、なんか底が見えるっていうか……うまく言えないけど、つまらないなあと思って」
そう言うとバイラはそのまま仰向けに寝っ転がった。
リアは気の利くことが何も言えなかった。
バイラの言いたいことは何となくわかる。
でも、大好きな人から大好きだと言ってもらえるバイラのことが、リアは本当に、本当にうらやましかった。
「なんかごめんね、こんな話。そっちはどう? 都会って楽しい?」
バイラは半身をリアに向ける。
「うーん、どうだろなあ」
言いながらリアも同じようにベッドに倒れ込んだ。
「まずさ、そんなに都会でもないよ。学校があるのは山の中だし。ああでも、人が多いから他人が何してるのかそんなに気にする人はいないかもな」
リアがルロイと山で一緒にいるのは多くの学生に見られていたけども。
「私さ、今すごく悩んでるんだ」
天井を眺めながらリアが言う。
薄暗い部屋の中、窓の外からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「何ー? 話してみなよ」
バイラがすっかりくつろいでリアを見る。
こんな話をしていいのかな……まあこの空気なら話せる気がする。
「私、卒業したら結婚することになってて、婚約者もいるんだけど……帰りたくなくてさ」
リヒトシュパッツの生活が息苦しいと言っていたバイラはリアの言葉をどんな気持ちで聞いているんだろう。
「リヒトシュパッツが嫌なわけじゃないんだ。家族も友達もいるし思い出もいっぱいあるし……でも」
バイラは何も言わずにリアを見ている。
「ものすごく、好きな人がいるの」
言った瞬間体温が一気に上がる。
小さい頃からの友達にこんな話をするのはなんだか恥ずかしい。
「そうなんだ、どんな人なの?」
バイラが優しい声になる。
「同じ学校の学生なんだけど、年上で」
どんな人……ルロイってどんな人なんだろう。
「なんかすごく自由でつかみどころがなくてさ、何考えてるのかわからないんだ」
一年間いっしょに過ごして冒険もしたけど、ルロイの全貌はいまだにつかめていない。
リアはずっとルロイに振り回されっぱなしだ。
それに、問題はそれだけではない。
「あと、もうひとり気になってる人がいて、その人とはキスとかしたんだけど」
「ええ、どんな人?」
ちょっと戸惑いが混ざった声でバイラが言う。
「えっと、まるで地上に舞い降りた天使みたいに美しい人で」
話の途中でいきなりバイラが吹き出した。
◇
「ちょっと! なんで笑うの」
リアは真っ赤になってバイラを見る。
「いや、リアからそんな雅な表現が出てくるとは思わなくて」
バイラは相当ツボったらしく呼吸困難になりそうな勢いで笑っている。
「ごめんごめん、それで、その自由人と天使がどうしたって?」
息をきらせながらバイラが言う。
笑われたのは心外だけど、沈んでいたバイラが楽しそうにしているからまあよしとする。
リアはルロイとエーミール先輩と、それと学園での今日までの色々なことを話した。
「なんか、すごく楽しそうだね。ちょっと羨ましいかも」
リアの長い話を聞き終えてバイラは言った。
「ええ、楽しくないよ。婚約者のこともあるし本当に悩んでるんだよ」
リアはため息をつく。
「ルロイのことがずっと大好きなのに、エーミール先輩とはキスしたいって思っちゃうし、なんかもうぐちゃぐちゃでさ……既婚者からしたらしょうもない悩みかもしれないけどさ」
「いや、そんなことないよ」
バイラは優しい顔でリアの目をのぞきこむ。
「なんかさ、好きな人とちょっとずつ仲良くなったりとか、気持ちがわからなくて悩んだりとか、私はしたことがないから、そういうのっていいなって思うんだよ」
そんなものなのかな……今は毎日がただ不安で必死で悩みは尽きなくて、とてもそんなふうには考えられない。
こんな日々でも、いつか楽しかったと思う時が来るんだろうか。
◇
そのあと一度お昼ごはんを挟んで、ひたすらリアの部屋で話しまくった。
話の行方はぐちゃぐちゃで勢いだけがヒートアップしていく。
「なんか近所のババアがさ、『私も子どもがなかなかできなくて悩んでたけど、ちゃんとできたから気にしなくて大丈夫』とか言ってくんの。私、子どもがほしいなんてひとことも言ってないのにだよ」
この世のすべての不愉快を詰め込んだみたいな顔でバイラが毒を吐くと横でリアがけらけら笑う。
「クソババアまじでキモイ! お前の昔話なんて誰も聞いてねえから」
ベッドでゴロゴロしながら、話したいことはいくらでも湧いてくる。
「あのさあ、旦那にだけはさっきの話してもいい? いやさ、酔わせて宿屋に連れ込む天使とか、デート誘われたら洞窟とか、面白すぎるでしょ……めちゃくちゃ誰かに話したい」
「ええ、こっちは本気で悩んでるのに……別にいいけどさ」
会話は尽きなかった。
話が飛んだり戻ったりループしたりもうめちゃくちゃだったけど、思ってることや言いたいことを全部ぶちまけて、何が面白いのか笑いすぎて息ができなくなるくらい笑った。
気が付いたら外は夕陽で赤く染まっていた。
「ああ、まだ話し足りない」
坂道を歩きながらバイラが笑う。
「リアがこれからどうするかはわからないけどさ、もしこっちに戻るんならまたいっぱい話そう」
バイラの言葉にリアは力強く頷く。
「バイラもいろいろあるだろうけど頑張って」
「うん、今日は会えて本当によかった。お互い頑張ろうね」
広場で別れた後、リアはバイラが見えなくなるまで手を振っていた。
◇
街の入り口から街道に出ると、アダムと赤兎はもう先に来ていた。
「本当に送ってもらっていいの? お兄さま忙しいんじゃない?」
「気にするな。ほら、行くぞ」
アダムのひざに足をかけて赤兎に跨るとすぐにアダムも乗って走り出した。
赤兎の脚はとても速く、慣れるまではやっぱり恐ろしい。
リアはアダムの服をぎゅっと掴んだ。
「久しぶりに走らせてやれてよかった」
馬上でアダムがつぶやく。
「これからは遊んでばかりもいられなくなるし、手放した方がこいつにとってもいいんだろうけど」
言いながらアダムは切なそうな目で赤兎を見る。
リアは何も言わずにただ景色が過ぎていくのを見ていた。
◇
森を抜けて草地に出るとアダムは赤兎を止めて草の上に腰を下ろした。
「少し休憩するか」
そう言ってアダムが懐から煙草を取り出す。
「お兄さま、吸ったっけ?」
リアが驚いて聞くと、アダムは小さく笑った。
「いや、お父さま……親父に言われたんだ。商談をスムーズに進めたり職人達と親しくなるには吸えた方がいいって」
「そうなんだ」
リアは印を結んで指先に火を灯す。
「はい」
リアが差し出した火を見てアダムは苦笑した。
「お前はまた変なことばっかり覚えて……」
アダムは慣れない手つきで煙草を吸うと思いっきり咳き込んだ。
「大丈夫?」
「慣れるまでは仕方ない、まだ全然おいしいと思えないけどな」
アダムは笑いながら煙を吐き出す。
「お前はどうなんだ? 学校とかその、いろいろ」
そう言ってアダムはリアの方を見る。
「うーん、勉強は少しはわかるようになったかな。いろんな魔法使えるようになって楽しいよ。火だけじゃなくて、光とか」
言いながらリアは印を結んで手のひらに光を生み出す。
「おお、すごいな」
アダムは感心したように言う。
「あと、ルロイとは相変わらずだけど、私のことを好きって言ってくれる人がいてさ」
「へえ、どんなやつなんだ?」
「この間卒業した先輩なんだけど、これからは酒場で働きながら学園で研究を続けるんだって。優しくて、かっこよくて、めちゃくちゃいい人」
エーミール先輩のことを考えると今でも身体中が切なくなる。
これからもドライツェンにいるとはいえ、同じ建物で過ごしていた頃よりも会う機会は少なくなるだろう。
寂しいけど、なんとなくほっとしてる自分もいる。
「その先輩とはキスもしたんだけどさ」
アダムが急にむせた。
「ちょっと、どうしたの?」
「あ、いやごめん、大丈夫。それで?」
「なんかさ、思うんだ。何考えてるのかわからないルロイより、私のことを好きって言ってくれる人を好きになればいいのに、なんでこんなにルロイが好きなんだろう」
リアはため息をつく。
アダムは煙草を吸いながらまた小さく咳き込んだ。
◇
「お前、婚約者には会ったのか?」
再び赤兎を駆りながらアダムが言った。
リアは黙って首を振る。
「一度会ってみたらいいんじゃないか? その後のことはまた考えたらいい」
リアはあいまいに頷く。
結婚するにしても断るにしても、ちゃんとしないといけないのはわかっている。
でも、ルロイともエーミール先輩とも中途半端なままで、とてもそんな心境になれなかった。
ゆるいカーブを体を傾けて曲がる。
アダムと赤兎は息がぴったりで、さながらひとつの生き物のようだ。
「ねえ、お兄さま」
「なんだ?」
「お兄さまは地元を離れて大学に行って、楽しかった?」
「そりゃあもう、めちゃくちゃ楽しかったぞ」
アダムは風を受けながら愉快そうに笑う。
「あてもなく行けるとこまで遠乗したり、会ったばっかりの奴らと馬上鎗試合で暴れまわったり、本当にくだらない話しながらダラダラ酒飲んだり。あ、遊んでばっかりじゃなくてちゃんと勉強もしてたからな」
「そんなに楽しくてさ、地元に帰るのが嫌にならなかった?」
愛馬を手放すことが、吸いたくない煙草を吸うことが、楽しいこと、ワクワクする世界と決別することが。
「嫌ってことはないな」
すぐに答えが返ってきた。
「だって、戻ってきたからソニアと結婚できた」
アダムは前を見つめながら言った。
「自由な時間を終わらせるのは寂しいけど、これから先違う種類の楽しみが待ってて、それも悪くはないと思うんだ」
そうか、結婚式でアダムが大人に見えたのは服装のせいじゃない。
アダムはドルンバームに子供時代をおいてきたんだ。
地元に戻って働くために、ソニアと結婚するために。
「お前の人生だから、結婚するのかしないのかは好きにしたらいいと俺は思う。でも黙っていなくなるようなことはするなよ。向こうに残るにしても、一度ちゃんと家族と話さないとだめだ」
リアは無言で頷く。
「いつまでも子どもでいるわけにはいかないけど、大人は大人できっと楽しいと思うぞ」
アダムは自分に言い聞かせているようでもあった。
深い森を通り抜けると、ドライツェンの街が見えてきた。
学生生活も後半戦だ。
リアは山の上にひっそりと佇む学園を見つめた。