第17話 卒業って言ってしまえばなんでもいい感じにきこえる
「名前、なんて言うの?」
朝ごはんを食べて部屋に戻る途中、リアは男子学生から声をかけられた。
一度も話したことはないけどおそらく上級生だ。
「リア」
「リアか、話したことなかったけど、ずっと可愛いと思ってたんだ」
彼は照れくさそうに笑った。
「俺、今日で地元帰るから。名前が聞けてよかったよ。じゃあな」
そう言って彼は教室棟へ歩いて行った。
驚いてとっさに何も言えなかったけど、名前を聞けばよかった。
今日は卒業式だ。
◇
先輩達は卒業式に出ているから寮は静かだった。
リアは部屋で地元に帰るための荷造りをしていた。
魔学の教科書持っていこうかな。
でも、前帰ったときは全然勉強しなかったしいらないかな。
明日地元に帰って、次に学園に戻ってきたときにはもうエーミール先輩はいない。
胸がぎゅっと苦しくなる。
目を閉じて初めて会った日のことを思い出す。
午後の日差しが差し込む廊下でエーミール先輩はキラキラと輝いて見えた。
あの時は、世の中にこんなにきれいな人がいるのかと驚いた。
はじめてキスしたのもエーミール先輩だ。
リアのことを可愛いと言って抱きしめてくれた。
あの底冷えのする冬の日のことは、リアとエーミール先輩だけの秘密だ。
いつだってやさしい目でリアを見て、リアの話を真剣に聞いてくれる。
リアはエーミール先輩が大好きだ。
大好きだけど……
それも、今日で終わりだ。
◇
にわかに外が騒がしくなった。
廊下から中庭を見るとちらほら学生の姿が見える。
卒業式が終わったんだ。
先輩たちに挨拶に行きたいけど、卒業生だけで話したいこともあるだろうし今は水を差さないほうがいいのかもしれない。
寮に戻ってきてからでも遅くはないだろう。
リアはしばらく廊下の窓から中庭を眺めていたが、談笑する学生の中にエーミール先輩の姿はなかった。
◇
「いままでお世話になりました」
「こっちこそ仲良くしてくれてありがとうね」
部屋で荷物をまとめながらフィオナ先輩が笑う。
「何かほしいものがあったらあげるけど」
「魔法理学の過去問が欲しいです」
リアは即答した。
「やっぱりそれが一番だよね」
すでに用意してたのか、フィオナ先輩はテスト問題を手渡してくれた。
「この部屋も2年いたらすっかりなじんじゃったし、ちょっと寂しいかな」
フィオナ先輩は私物がすっかりなくなってがらんとした部屋を眺める。
主のいなくなった部屋は表情が消えたようでやけによそよそしく見えた。
「エルフィ先輩は?」
「戻ってくるとは思うけど、まだ教室棟のほうじゃないかな」
「旅に出るって聞きました」
山で話したことを思い出す。
「うん、最初聞いたときはびっくりしたけど、すごくエルフィらしいと思う」
フィオナ先輩は静かに笑った。
「卒業しても、もう2度と会えなかったとしても、私、あの子とはずっと友達だから」
◇
そろそろ教室棟へ行ってみようかな。
寮の階段を下りていたら、途中でジョバンニ先輩とすれ違った。
「今までお世話になりました」
「え?」
ジョバンニ先輩は話しかけられると思ってなかったのか目を見開いてリアを見た。
そんなに驚かなくてもいいじゃん……リアはなんとなくショックを受けた。
しばらく無言で見つめあったあと、思いついたようにジョバンニ先輩が言った。
「エーミールなら教室棟だと思う」
別にそういうつもりで話しかけたんじゃないけど、まあいいや。
「ありがとうございます」
リアは教室棟へ向かおうとしてふと振り返った。
「お茶、美味しかったです」
「ああ」
ジョバンニ先輩は口の端だけでぎこちなく笑った。
◇
教室棟を少し探してみたけどエーミール先輩は見つからなかった。
このぶんだと研究室かもしれない。
研究室には流石に入れないし、どうしようかな。
教室棟をウロウロしてたら実習室でエルフィ先輩を見つけた。
「今までお世話になりました」
「そんなにお世話した覚えもないけどねえ」
エルフィ先輩はそう言ってふんわり微笑む。
やっぱり何を考えてるのかいまいちわからない。
でも、エルフィ先輩は目的を追ってひとりで旅に出る強さを持っている。
守られた環境を出て知らない世界に飛び込んでいく力だ。
リアにそこまで思い切ることができるんだろうか。
「そうそう、エーミールから伝言。図書室の裏で待ってるって」
エーミール先輩が?
どうりで探してもいないわけだ。
「ありがとうございます!」
「まって」
すぐに向かおうとするリアをエルフィ先輩が呼び止めた。
「そんなところに呼び出すってことは、エーミールは何か伝えたいことがあるんじゃない? 余計なことかもしれないけど、行く前に『返事』を決めておいた方がいいと思うの」
返事か、もうこれ以上先に伸ばすことはできない。
「何にせよ、私たちが学生でいられるのは今日までなんだから、後悔のないようにね」
エルフィ先輩は相変わらず笑顔だったけど、少しだけ淋しそうに見えた。
◇
卒業生たちが旅立ちを喜び合ったり別れを惜しんでいる中庭と扉をひとつ隔てた図書室は静かだった。
裏口を出ればエーミール先輩がいるはずだけど、リアはなかなかドアを開けることができなかった。
エルフィ先輩が言っていたことはわかる。
リアの心も決まっている。
エーミール先輩の気持ちに応えることはできない。
エーミール先輩はいつでも優しくて、リアが辛いときにはそっと手を差し伸べてくれた。
そして、エーミール先輩はリアにまっすぐな気持ちをぶつけてきた。
リアの手をとったとき、頬に触れたとき、抱きしめて……キスしたとき。
きっと、ものすごく、ものすごく勇気を出してくれたんだろう。
このまま中途半端にしていてはいけない。
ちゃんと決着をつけないといけないんだ。
「よし」
リアは小さくつぶやくと裏庭へ続くドアを開けた。
◇
裏庭では一面にたんぽぽが咲いていた。
「リア、こっちだ」
エーミール先輩が笑顔で手を振っている。
風に揺れる金髪は、出会った日と同じように春の日差しを受けて輝いていた。
エーミール先輩は、やっぱり今日もかっこいい。
2人は並んで草の上に腰を下ろした。
「髪、今日は下ろしてるんだな」
リアは無言で小さく頷く。
最近はずっとみつあみだったけど、今日はストレートにしている。
「可愛い」
エーミール先輩が優しく笑う。
すごく嬉しいのに、この笑顔をもう見られなくなると思うと悲しくて笑うことができない。
「卒論、聴きに来てくれてありがとな」
「うん」
内容は難しくてリアにはよくわからなかった。
感想とか求められたらどうしよう。
「卒業はしたけど、まだまだ魔法についてわからないことが沢山あるし、研究したいこともいっぱいあってさ」
やわらかい日差しに照らされた裏庭を眺めながらエーミール先輩が言う。
卒論から話題が移ってとりあえずリアはほっとした。
「だから俺、学園で研究を続けることにした」
「ええ?」
リアは思わず声を上げた。
「あ、就職はするぞ。ドライツェンの酒場で働きながら研究のためにときどき学園にも来ようと思ってる。家の手伝いしてたから慣れてるし、酒場は情報が集まるから……どうしたんだ?」
驚きすぎて目を見開いたまま固まっているリアを見てエーミール先輩は不思議そうな顔をする。
「え、だって、今日で最後だと……その、先輩と、もう会えなくなっちゃうと思ってたから」
今日までのいやに感傷的な気分は何だったんだ。
意味ありげに下ろした髪は何だったんだ。
リアの迷いと決意は何だったんだ。
「なんだよ、悪かったな残ってて」
エーミール先輩がすねたように言う。
その様子が可愛くてリアはふっと笑った。
「なんだか拍子抜けしちゃった。だって会えなくなるのが悲しくて、ここ最近先輩のことばっかり考えてたから」
「そうなのか?」
「うん、でも今日で最後じゃなくて本当によかった」
そう言った時、不意に風が吹いてたんぽぽの綿毛を舞い上げた。
「あっ」
リアはとっさに耳を塞ぐ。
「どうしたんだ?」
エーミール先輩が不思議そうに聞く。
「たんぽぽの綿毛が耳に入ったら、頭の中で発芽して目を突き破って生えてくるんだよ」
真顔で言うリアをエーミール先輩はしばらく無言で見ていたけど、急に笑い出した。
「何だそれ怖えな、そんなことあるわけないだろ」
「本当だって、お兄さまが言ってたもん」
風が止んでリアは耳から手を離した。
今、今でいいのかな。
いや、やるなら今しかないだろう。
リアはエーミール先輩をまっすぐ見る。
「あの、先輩」
「なんだ?」
エーミール先輩は優しい目でリアを見る。
「見せたいものがあるの」
ああ、緊張する。うまくいきますように。
リアはすうっと息を吸うとゆっくりと印を結んだ。
「葱桔空3紺葱4」
無数のきらめきが雪のようにふわりと周囲に降り注ぐ。
「すごい、きれいだ」
エーミール先輩は驚いたような顔で見上げた。
「リアが組んだの?」
リアは頷く。
カールにかなり助けてはもらったけど。
「あ、あの、先輩にはすごくお世話になったから、その、感謝を伝えたくて」
話しながら頬が熱くなるのを感じた。
知らなかった……魔法で気持ちを伝えるのってめちゃくちゃ恥ずかしい。
エーミール先輩をイメージした魔法だとはとても言えそうにない。
「卒業、おめでとう……わっ」
エーミール先輩がぎゅっとリアを抱きしめた。
「すごく嬉しい、ありがとう」
優しい腕の中、エーミール先輩の熱が伝わってくる。
耳元で聞こえる声は直接心に響いてるみたいにドキドキする。
光の雪はいつのまにか消えていた。
エーミール先輩は腕を解くとリアの目をまっすぐに見る。
しばらく見つめあったあと、リアはそっと目を閉じた。
遠くで学生たちの笑い声が聞こえる。
エーミール先輩の指はゆっくりとリアの頬を撫でると、額を軽くはじいた。
「いたっ」
リアが驚いて目を開けると、エーミール先輩は楽しそうに笑っていた。
エーミール先輩がイタズラっぽくリアの目をのぞきこむ。
「何を期待してるんだお前は」
「え、だって、その」
リアは真っ赤になって目をそらす。
「先輩の意地悪」
消え入りそうな声でつぶやくリアに、エーミール先輩は笑いながら言った。
「仕方ないやつだな。ほら、こっち向けよ」
むくれたまま顔をあげたリアをエーミール先輩は優しく抱き寄せてそっとキスをした。
いやちょっと待て。
これ……ディープなやつだ。
ゆっくりと口の中を責められる度、甘い疼きが身体中から湧き上がってくる。
油断したら意識が飛びそうでリアは思わずエーミール先輩にしがみついていた。
どれくらいの時間が経ったのか。
エーミール先輩が唇を離した時、リアは全身の力が抜けていた。
「先輩……」
荒い呼吸の中で、リアはぼう然とエーミール先輩を見る。
「何だ?」
エーミール先輩は今さっきリアにエグいキスをしたくせに、何事もなかったようにさわやかな笑顔を見せる。
「もう一回」
「バーカ!」
エーミール先輩はくしゃくしゃとリアの頭をなでた。
「住所渡しておくから、続きがしたくなったら酒場に来いよ」
そう言い残してエーミール先輩は教室棟へ消えていった。
リアはしばらく立ちあがることができなかった。
◇
馬車が揺れる。
外の景色は朝からずっと変化がない、ひたすら森だ。
リアは座席でかばんを枕にして寝っ転がっていた。
どうしよう。両手で顔を覆う。
いまだに身体が熱くてたまらない。
全身があのキスに支配されてるみたいだ。
一体何をやっているんだろう。
わからない。
リアは大きく息を吐いて寝返りをうつ。
もう何がしたかったのか、これから何をしたらいいのか、頭の中がごちゃごちゃして全然わからない。
リアにはもう何も考えられなかった。
窓の外は相変わらず深い森が続いていた。