第14話 H75
「これ、焼いてよ」
風呂の炉に火を入れていたら男子学生から包みを渡された。
何かと思って開けるとさつまいもが2つ入っていた。
「入れといてくれたら後は自分で取りにくるから」
そう言うと彼はリアの返事も待たずに寮に戻っていった。
強い風が吹いてリアは身震いする。
焼き芋するならついでに風呂焚きも代わってくれたらいいのに。
白い息を吐いて空を見上げると、風に舞うように雪が降ってきた。
◇
ドライツェンに冬がやってきた。
この季節、街は幻想的な光に包まれる。
昔の外国人のおっさんが子どもにプレゼントをばらまいたのと、なんか昔の奇跡とか起こす外国人の生まれた時期が年末に近かったとかで街中に灯りをともした屋台が出るのだ。
屋台で扱っているものは様々だ。
スパイスをたっぷり溶かした温かいワインに、パンやソーセージなどおいしそうな食べ物、可愛らしいお菓子やおもちゃも沢山あって見ているだけでワクワクする。
次の休みはメイリと一緒に来ようかな。
いつも週末はジャンのところに行っちゃうけど、たまには2人で街に出るのもいいよね。
実習もなんとか形になりそうでリアの心は軽かった。
カールとエーミール先輩にちゃんとお礼を言わないと。
エーミール先輩には何か魔法でお返しができたらいいんだけど、今のレベルではまだ無理だろうな。
角を曲がるたびに知らないものが目に入ってきて楽しくなる。
向こうではワッフルを焼いてる。
隣はラクレットチーズかな、おいしそうだな。
キラキラの街はいつまでも歩いていたい気分になる。
本当に素敵だ。
今日は見にくるだけのつもりだったけど、ワインでも飲んでいこうかな。
軽い足取りで石畳の上を歩く。
ルロイを誘ったらきてくれるかな。
ちょっと頑張って「一緒に行かない?」って言ってさ。
この街をルロイと歩けたらきっと楽しいだろうな。
次の角を曲がると、意外な顔が目に入った。
ルロイだ! 街にいるなんて珍しい。
今日は会えないと思ってたから驚いたけど、じわじわ嬉しさがこみあげてきた。
前髪を直してスカートの裾を少し整えてからルロイの方に向き直る。
「ルロイ……」
言いかけたとき、リアは信じられないものを見た。
ルロイの横に、女の人がいる。
褐色の肌に、エメラルド色の瞳、ふっくらと厚みのある唇。
腰まであるつややかな黒髪に、厚手の服の上からでもわかる、××××××××。
おい、でかすぎるだろ。絶対H75はある。
あまりにも美しすぎる女性が、ルロイの横で光り輝くように笑っていた。
なんだ、あれ。
本当にルロイなの?
確かにそこにいるのはルロイなんだけど、リアの知っているルロイではなかった。
宝石のような彼女の横で嬉しそうに、少し照れくさそうに、子犬のような笑顔を見せるルロイ。
いつもとは別人のようだった。
リアが捨て身でぶつかって、揺さぶって、引きずり出したかったもの。
『形が安定したあとは、他の元素が入る隙はなくなるんだ』
待ってこれ、ダメなやつ。
わかっちゃったらダメなやつだ。
違う。
私じゃ、違うんだ。
まるで日常の風景のように、いきなり目の前に突きつけられた簡単すぎる答えを、でも理解することを心が拒否してる。
なんで……?
「どうしたんだ?」
聞きおぼえのある優しい声にリアは顔を上げる。
「こんなところで立ち止まって、何かあったのか?」
雪がちらつき出した空と同じ、灰色の瞳が心配そうにリアをみている。
「エーミール先輩……」
リアは今、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。
油断すると涙が出そうになるのを唇に力を入れてこらえる。
「ここにいたら冷えるだろ、とりあえずどこか入ろう。俺でよければ話くらいは聞くから」
そう言うとエーミール先輩はリアの手を取って歩き出した。
ルロイとは違う、雪みたいに白くてなめらかな手のひらは、びっくりするほど熱い。
「ねえ、先輩」
リアはエーミール先輩の手に指を絡ませると、ためらいがちに握りしめる。
「私、飲みたい」
エーミール先輩は少し驚いたようにリアの顔を見てから言った。
「酒場へ行こう」
◇
エーミール先輩が連れてきてくれたのは街の中心部からだいぶ外れた酒場だった。
薄暗い店内にろうそくの灯りが静かに揺れている。
「なに飲もうか」
カウンター席に座ってエーミール先輩が言った。
自分から誘っておいて何だけど、リアはビールしか飲んだことがないし、お酒のことはよくわからない。
ビールか……ルロイと酒場に行ったことを思い出して少し苦い気分になる。
「先輩は何にします?」
「ワインにするよ、好きなんだ」
エーミール先輩は慣れた調子で言った。
リアは学園にいるエーミール先輩しか知らなかったけど、こういう場所にもよく来ているのかもしれない。
「じゃあ、私も同じのにします」
◇
「乾杯!」
グラスにたっぷり注がれた白ワインはびっくりするほど美味しかった。
「すごい、初めて飲んだけど美味しい」
一緒に頼んだオリーブのピクルスとグレープフルーツの塩漬けも美味しくて、すぐにグラスは空になった。
「おかわり!」
ひと息でワインを飲み干したリアをエーミール先輩は意外そうな目で見つめる。
「結構飲めるんだな」
そう言うとエーミール先輩もワインを飲み干して笑った。
「今日はとことん付き合うよ」
◇
「何があったのか聞いてもいいか?」
2杯目のグラスもすぐに空けてボトルを入れたとき、エーミール先輩がためらいがちに言った。
「もちろん、言いたくないならいいんだけど」
こんなことエーミール先輩に話してもいいのかな。
でも、聞いてもらえたら少しは楽になるかもしれない。
「ルロイって知ってます? 回復の一年の」
「ああ、山でよく2人でいるよね」
エーミール先輩にも見られてたのか。
「私、その、ルロイのことが……好きで」
あらためて声に出すと心がぎりっと痛む。
「私が一方的に追いかけてるだけなんだけど、でも、一緒に冒険したりして、その、悪くは思われてないんじゃないかって」
言葉を切ってワインを飲む。
エーミール先輩は真剣な目で聞いてくれている。
「いつか、ルロイも、私のこと好きになってくれるんじゃないかって、思ってたんだけど」
涙が出そうになるのを歯を食いしばって耐える。
空になったグラスにエーミール先輩がワインを注いでくれた。
「さっき、すごい綺麗な女の人と2人で歩いてるのを見ちゃって」
彼女の姿を思い出す。
本当に、同じ生き物と思えないほど美しかった。
「それで、ルロイ、ルロイが、私といるときと全然違って、なんか、本当にすごく嬉しそうで」
リアはあんなに嬉しそうなルロイを見たことがなかった。
ルロイはすれ違ったリアに気づきもしなかった。
「それを見たら、悲しくなっちゃって……それだけ」
リアはワインを飲み干した。
エーミール先輩は何も言わずにリアを見つめていた。
空になったグラスをカウンターに置いて、リアは小さくため息をついた。
「でも……本当に綺麗な人だったな。胸なんてH75はありそうだった」
「ええええ! 何だそれ俺も見たかったな」
胸の話になったらエーミール先輩の食いつきが明らかに変わった。
「先輩もやっぱり大きいのが好きなんだ」
リアは頬杖をついてエーミール先輩を見る。
「リア、それは違うぞ」
エーミール先輩も真剣な目でリアをまっすぐ見た。
「巨乳にも貧乳にもそれぞれの良さがあるんだ。どっちがいいとか、そんな簡単な話じゃない」
「待って、いま私のこと貧乳って言った?」
「あ、ごめん……じゃない! あの、お前のことじゃなくて」
「ちょっともう、謝らないでよ」
リアは素直なエーミール先輩が面白くて思わず笑ってしまった。
「やっと笑ったな」
エーミール先輩が優しく微笑んだ。
おい、こんな笑わせ方でいいのか。
◇
「あーあ、やっぱり結婚するしかないのかな」
リアはワイングラスを持ち上げてつぶやいた。
「結婚?」
いきなり出てきためでたい言葉にエーミール先輩が怪訝な顔をする。
「親との約束なの。卒業したら地元で結婚するって条件で学園に行かせてもらってるの」
エーミール先輩は驚いて言葉が出ないみたいだった。
「もう婚約者もいるみたいで、会ったことはないんだけど」
リアはそう言ってグラスを傾ける。
「そのことは、ルロイは知っているのか?」
リアは首を横にふる。
「ルロイは冒険者で、いつも自由だから。家のために結婚とかそういう辛気臭い話はしたくなくて」
リアはその自由な空気に惹かれたんだ。
まるで、ふと気がつくといなくなってしまう鳥のような。
「親の言いつけで結婚することは、別に嫌じゃなかったの」
リアはグラスの中のワインを見つめる。
「でも、一度でいいから街の外に出てみたくて」
「街の外?」
聞き返すエーミール先輩にリアは苦笑しながら言った。
「私の地元って女の人は街から出ないのが普通なの」
『普通』は場所によっていくらでも変わる。
地元にいたときは、そんなことも知らなかった。
「周りにはほかに街もないし、街の学校に行って、そのうち結婚して、子供を育てて……別にそれ自体が嫌なわけじゃなかったけど、外の世界を見てみたかったんだ」
リヒトシュパッツを出て魔法学園に行きたいと言い出したリアに両親は困り果てていた。
外の世界が見たいという願いは、母を泣かせるほど悪いことなのかと落ち込んだこともあった。
「でも、一旦街の外に出たら、素敵すぎて、楽しすぎて」
美しいドライツェンの街も、果てしなく広がる海も、空いっぱいにこぼれるような星も、学園の地下に静かに眠る歴史も、街の生活と冒険が交差する酒場も……地元にいたら想像もできなかったことばっかりだ。
「帰るのが嫌になっちゃうの」
世界の広さを教えてくれたのは、ルロイだ。
リアはため息をついてグラスを空けた。
◇
はじめは人が少なかった酒場だけど、時間が経つにつれて賑わってきた。
「その、結婚は絶対にしないといけないのか?」
エーミール先輩が空になったグラスにワインを注いでくれる。
「うーん、そういうわけでもないとは思うんだけど……」
リアはため息をついてうつむいた。
「でも、それ以外に私にできることなんてあるのかなって」
グラスの中で透き通ったワインが静かに揺れる。
「学園に来てみたものの、勉強は単位を取るので精一杯だし、魔学式も全然うまく組めないし。なにか、なんでもいいからできることとかやりたいこととか、私にしかできないこととかを見つけられたら、きっともっと自由に生きられるんだろうけど、全然そんなのみつからないし……それなら、親の言う通りに結婚したほうが家のためにもなるし」
リアは自分の言葉に自分で驚いていた。
知らなかった……こんなことを考えてたんだ。
「それ以上に私にできることを、私は見つけられなくて」
言いながらなんだか悔しくなってきた。
たくさん素敵なものを見つけたのに、その横をただ通り過ぎることしかできないんだろうか。
「魔法がつかえるじゃないか!」
突然の強い口調に驚いてリアはエーミール先輩を見る。
「なんで気づかないんだよ、すごい才能じゃないか」
いつもの優しげなエーミール先輩ではない。
とても強い眼差しでリアを見ている。
「俺は、俺は魔法が使えないから、それが本当に悔しくて、魔学の研究は大好きだけど、魔学に出会えたのは本当によかったけど、でもやっぱり魔法が使えないのが悔しくて。そんな、何もできないみたいに言うなよ。なんだってできるじゃないか。俺は、お前が本当にうらやましい」
エーミール先輩は一気にまくしたてると、ため息をついて黙ってしまった。
興奮しているのか、お酒のせいなのか、頬が紅潮しているのがわかる。
「聞いてもいい?」
リアはエーミール先輩のグラスにワインを注ぐ。
「先輩はどうして魔法が使いたいの?」
魔法使いの数は決して少なくないとはいえ、そんなに多くもない。
世の中には魔法も魔法使いも見たことがない人の方が多いのではないか。
リアだって魔法学園に来るまで自分以外の魔法使いを見たことはなかった。
「だって……かっこいいじゃないか」
「かっこいい……?」
単純というか、ずいぶん可愛らしい理由に思わず聞き返してしまったけど、エーミール先輩は真剣な顔で頷いた。
「俺、家が酒場で」
「えっ! そうなの?」
意外すぎてリアは思わず声を上げた。
「うん、それで、あまり大きい街じゃなかったけど、冒険者がよく来てたから魔法使いを見ることも多くてさ」
エーミール先輩はグラスを揺らしながら言った。
やっぱりというかなんというか、酒場にはいろんなものが集まるんだな。
「小さい頃から魔法が好きだったんだ。何もないところから炎を生み出したり、怪我を治してしまったり……すごく不思議でかっこよくて、俺がそんなだからみんな面白がって魔法を見せてくれてさ、将来は魔法使いになりたいってずっと思ってた」
懐かしそうに話していたエーミール先輩がふと寂しそうな顔になる。
「魔法は才能がないと使えないって知らなかったんだ」
エーミール先輩はため息をついてグラスの中のワインを飲んだ。
「でも、よく来てた冒険者の魔法使いが学園のことを教えてくれたんだ。魔法が使えるようになるかはわからないけど、そんなに好きなら魔法の勉強をしてみたらいいんじゃないかって」
それでエーミール先輩は学園に来たのか。
その魔法使いがいなかったらリアと会うこともなかったんだな。
「その人にはすごく感謝してる。どうやっても魔法は使えるようにならないけど、魔学式を組んだり、魔法波を解析したり、毎日新しい発見があって本当に楽しくて」
薄暗い酒場の中でもわかるくらい、エーミール先輩の目がきらきらする。
「俺、魔法が大好きだ」
そう言って笑うエーミール先輩の横顔は本当に綺麗で、リアは目を離すことができなかった。
◇
「私は先輩が羨ましいな」
エーミール先輩を見つめたままリアは言った。
「私はただ魔法が使えるってだけで、勉強も苦手だし、魔法波の仕組みもよくわからないし」
「おい、教えただろ?」
あ、まずい。
「まあいいけどさ」
エーミール先輩はすねたようにグラスを傾ける。
「ごめんなさい。でも、魔法理学にしても、私は暗記して単位をとるので精いっぱいだけど、先輩にはもっといろいろ、広い世界が見えてるんだなって思うと本当にすごいと思って」
魔法を使うことはできる。
でも、リアにできるのはそれだけだ。
「先輩はこれからたくさん新しいものを見つけられるし、作り出せるんでしょ。魔法使いはいっぱいいるけどさ、そんなことができるのはきっと先輩だけだと思う」
エーミール先輩は見つけたんだ。本当に好きなこと、自分にしかできないことを。
「すごいよ」
リアはワインを飲みほす。
「そうかな」
エーミール先輩は静かにグラスをみつめていた。
◇
「ああでも、私は魔法が使えなかったら地元を出られなかったから、そこは魔法使いで本当によかったな」
今ここでこうしているのだって魔法のおかげだ。
「入学式の日にさ、廊下で先輩とすれ違ったの、覚えてる?」
リアの問いにエーミール先輩は優しい声で答える。
「ああ、覚えてるよ」
「あの時ね、私、本当に魔法学園に来てよかったって思った」
エーミール先輩の姿に思わず振り返ってしまった時だ。
もう、すごく昔のことのように感じる。
「そうなのか?」
「うん」
あれは衝撃的だった。
「素敵なところに来れたなって思ったの。だって先輩みたいにきれいな人、見たことがなかったから」
言ってからなんだか恥ずかしくなって、リアはエーミール先輩から目をそらした。
いったい何を言ってるんだ、酔ってるのかな。
「ええ……俺、きれいかな?」
エーミール先輩が戸惑ったように言う。
ああもう、変なこと言わなきゃよかった。
でも、ここまで美人なら絶対自覚はあると思うんだけどな。
「そんなことはじめて言われた」
「嘘だ! それだけは絶対信じない!」
リアがエーミール先輩の方を向くと、エーミール先輩は優しい目でまっすぐこちらを見ていた。
「俺はリアのこと、すごくきれいだと思うよ」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
少し遅れて言葉の意味を理解したとき、顔が発火したみたいに熱くなった。
「あのとき、すごく可愛い子が入ってきたなって思ったんだ」
え、なんだこれ、それって、いや、でも、ええええ……
思考が現実に追いつかない。
「だめだよ、先輩」
リアはエーミール先輩から目をそらす。
「私、ちょろい女だから……そんなこと言われたら好きになっちゃうよ」
「いいよ」
エーミール先輩が手を伸ばしてリアの頬に触れる。
顔を上げると、エーミール先輩はもう笑っていなかった。
強いまなざしでリアをまっすぐ見ている。
「好きになれよ、俺のこと」
◇
ボトルで入れたワインは空になっていた。
「頃合いだな、そろそろ行くか」
エーミール先輩はそう言って立ち上がる。
リアはまだドキドキしていた。
エーミール先輩に触れられた頬が熱い。
今の、どういう意味なんだろう。
エーミール先輩はなんでそんな何事もなかったみたいに振る舞えるの?
雪は本降りになっていた。
さっきまでは全然平気だったのに、外の冷たい空気に触れると急に足元がふらつく。
「大丈夫か?」
エーミール先輩がリアの肩を抱いて支えてくれる。
「ごめんなさい、なんか急にまわって」
確かに足元がおぼつかないのは事実だけど、歩けないほどではなかった。
ただ、もう少しだけ酔ったふりをしてエーミール先輩に寄りかかっていたかった。
もしかしたら、酔ったふりをしようと思った時点ですでに酔っぱらっていたのかもしれない。
街は静けさに包まれていた。
まるで石畳に降る雪が音を吸い込んでしまったみたいだ。
「もう大丈夫、歩ける……あっ」
離れようとしたリアをエーミール先輩は強い力で抱き締めた。
「無理するなよ、そんなんで山登れないだろ」
エーミール先輩の心臓が強く鳴っているのが伝わってくる。
「どこかで少し休んでいこう。夕飯は無理だけど、門限には間に合うだろ」
熱い腕の中でリアはあいまいに頷いた。
◇
宿屋に入るなりエーミール先輩はリアを強く抱きしめた。
「俺のこと……嫌いか?」
エーミール先輩が耳元でささやくと、全身がビクッと震える。
嫌いなわけがない。リアは無言で頭を横に振る。
かっこよくて、頭がよくて、優しくて。
地元を出て一番はじめに見つけたステキがエーミール先輩だ。
エーミール先輩はリアの頬を優しく撫でて、そっとキスをした。
柔らかい唇が触れると、胸の少し上のあたりがぎゅっと切なさでいっぱいになって頭の奥に痺れに似た感覚が広がる。
なんだこれ、もう、なんか、だめだ、どうしよう。
思考がばらけて全然まとまらない。
ぼうっとしている間に再びキスされて抱きしめられた。
切なさが胸からじわじわ全身に広がる。
状況をどうにか整理しようとしても、頭に浮かんだことがすぐに消えてしまう。
なんだか思考から切り離されてからだだけの存在になってしまったみたいだ。
「結婚なんて、するなよ」
エーミール先輩の腕の中は驚くほど熱くて心地よい。
キスされる度に心がふわふわ浮き上がって、いろいろなことがどうでもよくなってくる。
気づいたら、リアはベッドに押し倒されていた。
エーミール先輩の灰色の目がすぐ近くでリアを切なそうに見ている。
「先輩……」
吐息の混ざった、信じられないくらい甘い声が出てリアは驚いた。
これは本当に自分の声なんだろうか。
「何?」
「キスして」
頭を経由しないで勝手に言葉が出る。
苦しいほどに心臓が鳴って、息が荒くなる。
体がものすごく熱い。
一体、どうなってしまったんだろう。
エーミール先輩はリアと目を合わせたまま、指でゆっくりリアの唇をなぞる。
「やっ……あ……」
触れられる度に体が反応して声が出てしまう。
「先輩、お願い……んっ」
エーミール先輩の唇が優しく触れた瞬間、リアはもう何も考えられなくなっていた。
◇
窓から差し込むまぶしい日差しでリアは目を覚ました。
あれ? 何してたんだっけ。
ドライツェンでエーミール先輩と飲んで、それから……
リアはあわてて着衣を確認する。
ぶかぶかのシャツとハーフパンツ。
おかしいな、昨日はたしかスカートを履いていたはず。
そもそもここはどこだ?
だんだん意識がはっきりしてきた。
見慣れた板張りの天井と白い壁。
寮なのは間違いないと思うけど、リアの部屋ではない。
温泉の薬湯みたいな独特のにおいがして壁には白衣がかかっている。
おそらく回復の学生の部屋だ。
もしかして……
その時、部屋のドアが開いた。
◇
部屋に入ってきたのは黒髪の男子学生だった。
名前は知らないけど、学園で見たことがある気がする。
彼はベッドの上のリアと目が合うと少しぎょっとした顔をしてから言った。
「あ、えーと、大丈夫?」
「うん」
「そうか」
会話が終わった。沈黙が部屋を包む。
「お茶飲む?」
ぼそっと彼が言った。そういえば喉がカラカラだ。
リアは無言で頷いた。
淹れてもらった鉄観音をベッドに座って飲む。
温かくて爽やかな味わいが乾いた体にじんわりと浸み込んでいく。
「おいしい」
「そうか」
彼は表情を変えずに答える。
なんなんだろうこの時間は。
そもそも、ここにいていいのかな?
静かに光が差し込む部屋の中、2人は無言でお茶を飲んでいた。
「あの、私リアといいます。活動の1年」
リアが先に沈黙を破った。
「俺はジョバンニ、えーと、回復の2年だ」
上級生だったのか。
じゃあ、この部屋って……
考えがまとまる前にドアが開いた。
「外で転んじゃってさ、痛ってえ、悪いけど回復して……」
部屋に入ってきたエーミール先輩は、ベッドで鉄観音を飲んでいるリアと目が合った。
◇
「おはよう」
エーミール先輩はきまりが悪そうに笑った。
転んですりむいたのか、膝に血がにじんでいる。
「おはよう」
リアもなんとなく気まずかった。
「傷口洗ってきたか?」
ジョバンニ先輩がエーミール先輩の方を向く。
「え? ああ、うん」
ジョバンニ先輩が慣れた手つきで印を結ぶと、みるみるうちにエーミール先輩の傷がふさがった。
「あ、すごい!」
リアは思わず声をあげた。
ノイフェルト式の回復魔法はじめて見た!
「ごめん、ありがとう」
傷口についた血をタオルで拭うと、エーミール先輩はリアに視線を移した。
「リアは大丈夫か? 昨日はその、ごめんないろいろ」
なんか謝られるようなことがあったんだろうか。
リアはなんとなく嫌な予感がしてきた。
「ええと、この服は」
「あ、それは俺の服」
言いにくそうにエーミール先輩が答える。
「ごめん、勝手に着替えさせたけど」
着替えさせたってことは、服を脱がして、その……
想像したらだんだん恥ずかしくなってきた。
「着てた服、あの、少し汚しちゃったから。一応洗っておいたけど」
汚れた? ああ、やっぱり。
「あ、覚えてないよな。本当にごめんな」
「あの、いいんです」
夢じゃなかったんだ。
「全部、覚えてます」
◇
昨夜、エーミール先輩と宿屋でなんか盛り上がったところで、リアは飲みすぎたのか眠ってしまった。
おそらくその後エーミール先輩がおぶって山を登ってくれたんだけど……
道中で気がついて、気持ち悪くなって
吐いた、盛大に。
はっきり覚えていた。夢ならよかったのに。
◇
リアは土下座して詫びた。
「申し訳ありませんでした」
エーミール先輩があわてて言う。
「いいってそんな、気にするな。飲ませすぎた俺が悪いんだから」
うつむいてるリアの肩に手を置くと、エーミール先輩は耳元で小声で言った。
「服着替えさせたりはしたけど、その、何もしてないから」
間近で聞こえるエーミール先輩の声に反応して体が熱くなる。
何もしてない? ファーストキスだったんだけどな。
「昨夜は俺も相当酔ってた。でも、話したことは全部本心だから」
昨夜話したこと。それって……また胸の鼓動が早くなる。
「気分悪くなるまで飲ませてごめんな」
「いえ、こちらこそ迷惑かけてすみませんでした」
リアが顔をあげると、遠慮がちに笑うエーミール先輩と目があった。
ジョバンニ先輩は我関せずといった顔でおいしそうに鉄観音を飲んでいた。
◇
「今、廊下誰もいないぞ」
ジョバンニ先輩が偵察から帰ってきた。
「出て左にまっすぐ行ったら階段だから」
エーミール先輩の言葉にリアは頷く。
「じゃあまた、学園でな」
「はい、ありがとうございました」
リアはジョバンニ先輩にも軽く頭を下げると部屋を後にした。
◇
やっと帰ってきた。
部屋に戻ると、リアはふらふらとベッドに倒れ込んだ。
一度にいろいろなことがありすぎて、頭の中がこんがらがっている。
リアはそっと目を閉じた。
エーミール先輩のキスが、唇にまだ残っている。
触れられただけで体中が切なさでいっぱいになって、頭がふわふわしてなにも考えられなくなった。
とても甘い感触だったけど、意思と関係なく流されてしまう感じは少し恐ろしくもあった。
キスされただけであんな風になっちゃうなんて。
それに、リアが眠っていなかったらおそらくあの後……
想像して全身が熱くなる。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
リアは両手で顔を覆った。
どうして、リアはエーミール先輩ともう一度キスがしたいんだろう。
ルロイが好きだったはずなのに、いや、今でも本当に大好きなのにどうして?
でも、ルロイはあの女の人と……
なんかもうぐちゃぐちゃだな。
お昼ごはんの時間だったけど、ベッドから起き上がる気力はリアには残っていなかった。
◇
「ただいまー」
夕方になってメイリが帰ってきた。
「あれ、寝てた? 起こしちゃったかな」
リアは無言で首を横に振る。
「ドライツェンで屋台が出ててさ、はい、これお土産」
メイリがくれたのは大きなハート型のクッキーだった。
チョコレートで『いつもありがとう』とメッセージがかいてある。
それを見たら急に涙が出てきた。
「ちょっと、どうしたの?」
一度涙が出たらどんどんあふれてきてとまらなくなった。
ベッドの上で泣き続けるリアをメイリは何も言わずに優しく抱きしめていてくれた。
◇
「ドライツェンでルロイが巨乳美女と歩いてたのにショックを受けて、たまたま会ったエーミール先輩をヤケ酒に付き合わせて2人でボトル1本空けて、そのあとなんかエロい空気になったけど寝落ちして、背負って山を登らせた挙句に××の処理と汚れた服の洗濯をさせて寝床まで占領してたと」
リアの長い話を聞き終えたメイリが静かに言った。
「泣きたくなるのはエーミール先輩の方じゃないの?」
「あああ、言わないで」
リアはクッキーをかじる。
スパイスの効いた生地に、練り込まれたレモンピールが甘酸っぱいアクセントになっている。
「しかもさあ、それ」
メイリは頬杖をつきながらコーヒーを飲む。
「告白されてない?」
「やっぱりそうだよね」
リアはマグカップで手を温めながらため息をついた。
「エーミール先輩のことは好きだけどさ」
いつだってカッコよくて優しいエーミール先輩がリアは大好きだ。
でも、エーミール先輩がリアを可愛いと言ってくれるなんて思ってもいなかった。
『好きになれよ、俺のこと』
思い出すと今でもたまらなくドキドキする。
「なんて言ったらいいんだろう、食堂で見かけたらラッキーみたいな」
リアはエーミール先輩を学園生活の中の癒しというか、神聖なるものというか、どこか自分とは違う世界の存在みたいに思っていたところがあった。
でも、違う。
当たり前だけど違うんだ。
エーミール先輩だって大きいおっぱいが好きだし、お酒を飲んだら酔っぱらうし、転んで怪我しちゃうこともある。
勉強だって、魔法が使えなくて悩んだり悔しい思いをしながら真剣に魔学と向き合ってきたんだろう。
ふつうの男の子なんだ。
そんなことに今まで気づかなかった。
「そんな対象として考えたことなんてなかったんだよ」
リアはため息をつく。
もしかしたら、ルロイにとってのリアもそうなのかもしれない。
「あとさ、ルロイと歩いてたっていう美女だけど」
メイリがコーヒーに浸したクッキーをかじる。
「別に恋人じゃないかもしれないでしょ? 地元の知り合いとか、昔の冒険仲間とかさ」
「まあそうなんだけどさ」
リアもそれは思う。
ショックだったのはルロイの笑顔だ。
「あんなに嬉しそうなルロイ、見たことがなかったんだよ」
思い出すとまた心が痛くなる。
それに、美人ってだけじゃなくて彼女はすごくルロイに似合っていた。
ルロイの後をついていくのに精一杯のリアと違って、対等に横を歩いているというか……ルロイと同じ、自由な空気をまとっていた。
「メイリには言ってなかったんだけどさ」
「うん?」
リアの言葉にメイリが視線を上げる。
「海のとき私、ルロイのベッドに行ったんだよ。一緒に寝たくて」
「えええ! 頑張ったね」
「でも、結局少し話をしただけで戻らされてさ」
あの時はそんなものかと思ったけど、きっとルロイはわかっていた。
わかった上でかわされてたんだ。
「私じゃ、ダメなのかなあ」
リアはクッキーをひと口食べる。
口の中で広がる甘さは、痛んだ心を少しだけ回復してくれる気がした。
◇
「食堂に行ったらエーミール先輩がいるかもしれないし……どんな顔して会ったらいいのかわからないし」
「うだうだ言ってないで行くよ! ごはん食べないわけにいかないでしょ」
メイリはリアを食堂まで引っ張って行った。
渋るリアにつきあってお風呂も一緒に入ってくれた。
「あしたの講義、ちゃんと出るんだよ。どうせなるようにしかならないんだから」
夜、机で予習をしながらメイリが言った。
「話ならいつでも聞いてあげるから」
「うん、ありがとう」
メイリがいてくれてよかった。
これから先何があっても、メイリとは一生友達でいよう。
それでメイリが何か困ったときは絶対に力になるんだ。
リアはベッドに横になって、勉強するメイリの後ろ姿を見ていた。