33話
鯰の脳内に厳しい声が響く。
(半歩踏みこんで滅多打ちだ!)
「はい!」
湿気と血の匂いが混じる洞窟の中、巨体の男が楽しげな顔を浮かべながら半歩詰め寄り、スナップを利かせた金属棒で連撃を放った。
(脱力だ脱力!また動きが悪くなってるぞ。人間を打つと思うな、カボチャを打つと思え!)
「はい!」
飛翔するナイフで、重松信子は攻撃の全てを受け止めた。だが、先ほどまでの余裕はどこにもない。
(ほら見ろ、相手は捌くので精一杯だ)
「はい!」
(姿勢が悪い!前傾になるな。体軸は中心に置け!)
「はい!」
苦痛に顔を歪める重松信子とは裏腹に、鯰は笑みを浮かべていた。
――確かに、あいつは素人だ。
まともな訓練など積んでいないはず。それなのに。
重松信子の目が信じられないというように見開かれる。
――なぜ、こんなことが……?
疑問の答えはすでに己が内にある。
才能。
重松信子はただ認めたくないだけ。
極限の才能。
積み重ねたトレーニングなど不要。真似ろと言われれば即座に真似るという才能。
それを可能とするのは究極の肉体。
鯰はすでに考えることを捨てていた。
敵が間合いに入れば引き、出れば叩く。自動人形のように、ただ最適な動きを繰り返す。
その巨体は軽量級のアウトボクサーのような素早さと精密性を持っていた。
(的を絞らせるな。上中下、左右を打ち分けろ。狙いはおおよそでいい。正確性より速度と脱力だ)
「はい!」
ただ従い、ただ進化する。
「こんなもん、邪魔だッ!」
怒声とともに、防毒マスクを投げ捨てた鯰。動きにさらに磨きがかかる。
「はぁぁぁぁ………!」
重松信子は叫ぶ。泣き声とも咆哮ともつかぬ声。気づけば、ナイフの技は完全に盗まれ、上回られていた。
絶望の闇の中で道を探す。
――近づかなきゃ、勝機はない。
ナイフに頼る以上、懐に入らなければ始まらない。正面は硬い。ならば横へ――何度も防がれた選択肢だったが、今回は違った。
すり抜けた。まるで運命が微笑んだかのように。
「やった……!」
歓喜の声とともに振るわれたカランビットナイフが、鯰の首を捉える刹那。
独楽のように回転した巨体。自分の左側面に移った男の動きに、既視感が走る。
(――私の、技……!?)
信子の脳裏が白く染まる。疲労が極限に達した肉体は、もはや動きに応じない。
「最高だ………」
思わず口からこぼれたのは、敗北を受け入れる者の笑顔だった。狂気と充足感が入り混じった、青春のような一瞬。
次の瞬間――鯰の肘が、まるで風を滑るように脱力し、信子のこめかみを捉えた。
ナイフの間合いよりもさらに内。肘打ち、それはボクシングや一部の格闘技では禁じ手とされるほど強力。
カランビットの達人、殺しに魅せられた小さな殺人鬼。
何百の命を奪ってきたその体は、衝突実験の人形のように吹き飛び、岩の壁に激突して――崩れるように、沈んでいった。
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