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32話

 


「ごめん、待った?」


 湿り気を帯びた薄暗い洞窟に、冗談めかした鯰の声が響いた。岩肌からしたたり落ちる水音と、かすかに揺れる青白い光。空気は冷たく、鉱石の匂いが鼻を突く。


「あんたは一体誰と話していたんだい、恐怖のあまり気が狂ったかと思ったよ」


「相棒にお説教されてたんだ」


「相棒? 私にはあんたの他に誰も居ないように見えるけどね」


「相棒のお陰で少しは冷静になれた。これで多分、さっきよりは失望させなくて済むと思うよ」


「それは良かった……」


 重松信子の手に握られたナイフが、再び静かに舞い始める。最初はゆっくりと、やがて速度を増し、軌道は蝶のように翻る。


 煌めく刃が空間を切り裂き、光の残像を残して視界を惑わせる。まるで主人を守る防壁のように、美しくも危険な乱舞だった。


(ご主人様、修行のお時間です!)


「え!?」


(余計な言葉は不要です。今から相手の真似をしてください!)


「真似って……これを?」


 鯰は戸惑いながらも、重松信子の動きを目で追い、眼に焼き付ける。


「何の真似だい?」


(よく相手の動きを見て真似するんです)


「できてるでしょ?」


 鯰は手にしたメイス──すでにただの金属棒と化していたそれを、バトントワリングのように振り回す。


(全然成っていません。動きが固すぎます。もっと体を柔らかく使うんです)


「こう?」


(全然違います)


「厳しいな……それに、真似なんかして何の意味があるのさ?」


(さきほど、あの野郎はご主人様を“戦闘の素人”だなんて言いましたね。だからこそ今、覚えるんです。自称プロの動きを完璧にコピーできれば、ご主人様もまたプロになれます)


「そういうことね」


(動きが硬い!肩甲骨を柔らかく使うんです。ほら! 馬鹿みたいに力んでいては駄目です。脱力ですよ脱力。宮本武蔵もそう言っています)


「馬鹿っていうのは止めてよ 」


(口を動かさずに、手を動かしてください。コピーできなければ、殺されますよ)


「分かったよ……」


 ぎこちなかった動きが徐々に滑らかになり、空中に描かれる軌跡は次第に美しさを帯びていく。金属棒が風を切る音が、鋭く、そして軽やかに響いた。


「なんだって……まさか、戦闘中に私の動きをコピーしようっていうのかい……?」


(ほら見なさい! 私の言った通りにしたら、敵が驚いていますよ。ご主人様は学校の勉強はできませんが、戦闘においては馬鹿ではありません。それが分かったんじゃないですか?)


「なんかちょっと嫌な言い方だな。素直に褒めてくれてもいいのになぁ……」


(上半身の動きはまずまず良しです。次は下半身。見てください。相手は骨盤と膝を柔らかく使っています)


「確かに……そうだね」


(あのスピードと力は、上半身だけで生み出しているものではありません)


「なるほど、なるほど……」


 洞窟の冷気の中で、鯰の手から放たれる鉄の軌道がさらに速度を増す。やがて、それは重松信子のナイフとほぼ同じ速度で交錯し始めた。


(だいぶ良くなってきました。けれど油断だけはしないでください。近距離は向こうの土俵です。間合いの中には入られないように。動脈を斬られたら、それで終わりですからね)


「わかった!」


「……あんた、一体、何者だ……」


 重松信子の前方を乱舞する蝶は、視界を乱す煌めきの盾であり、彼女自身を守る美技の結晶。


 そして今、それは彼女にとっての“障壁”でもあった。






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