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31話

 


「アリア………」


(嗚呼、何という情けなきお姿、震えて震えて、まるで生まれたての子馬ではありませんか。恐怖のあまり尿で衣類を濡らしたりして………)


「ちょっと待ってよ、さすがにお漏らしなんかしてないって!」


 暗い洞窟の中で、鯰は慌てて下腹部を手で確かめ、言い訳のように声を上げた。


(大きな声を出さないでください。今の情けないあなたにそんな資格はありません)


「ちぇっ、さすがに厳しすぎるよ」


「あんた一体誰と話しているんだい?」


 背後から、不審そうな声が飛んだ。重松信子だった。しかし鯰の耳には、その声はもう届いていなかった。


 信頼。


 窮地だからこそ絶対の信頼を置く声だけが聞こえていた。


「今のこの状況、分かるだろ? 絶体絶命だよ……」


(私にはそうは思えません)


 即座に答えた。


「なんでだよ。ナイフでメイスが斬られたんだぞ。こんな化物相手にどうやって戦えっていうんだよ」


(そんなの大したことではありません。先端部が無くなっただけです。確かにもう“メイス”とは呼べませんが、武器としての価値はまだ残っています)


「そりゃあそうだけどさ……」


 振るってみると頼もしく闇を切り裂く音がした。


(むしろナイフと戦うには、その形状のほうが適している可能性すらあります。重量は失われましたが、その分スピードを得られました)


「なんでそんなにポジティブなんだよ」


(ただ冷静に分析しているだけです)


「左手だって斬られて、こんなに血が出てるんだよ?」


 鯰は傷口を覆う布を見下ろし、滴る血に顔をしかめた。


(けれど、まだ動かせるではありませんか)


「そりゃあ、動きはするけどさ………」


(つまり、敵のナイフはメイスを斬ることはできても、ご主人様の腕を切り落とすほどの力はなかった、ということです)


「え、まあ、それは………」


(それよりも、むしろ自分の防御力を褒めるべきではありませんか。首を狙った攻撃に対して、とっさに腕をガードに回した判断力と反射速度は見事でしたよ)


「まあ、それは……たしかに。敵も褒めてくれてたな………」


(冷静になりましょう。たしかに戦況は厳しいかもしれませんが、絶望するほどではありません)


「そう言われてみると………」


 凝り固まった首をごきごき鳴らしたあとで、息を吸って吐く。自分は、少し冷静さを欠きすぎていたのかもしれない。


(あの武器の形状を見てください。あれはスラッシング――斬り裂きに特化したナイフです)


「そうだね………」


(つまり、腹を突き刺すような攻撃には向いていないということです)


「ほうほう………」


(相手の狙いは“動脈”です)


「動脈?」


(首、手首、脇の近くの上腕部……。とりあえず、そのあたりを守れば致命傷は避けられます。むしろ敵はそこしか狙ってこないと考えてよいでしょう)


「ふんふん………」


(さっきみたいに、何の勝算もなく馬鹿みたいに突進するのは避けてください。あれは悪手でした)


「う……それは、自分でも失敗だったと思ってるよ………」


(まずは一度、攻撃を当ててみましょう。それで敵の耐久力がどうしようもなく高いと判断した場合――そのときは撤退を考える。それでいいのです)


「うーん………わかった。とりあえず、やってみるよ」


(もう二度と、あんな情けない姿を晒さないようにお願いします。あまりにみっともなくて、笑うことすらできませんでした)


「ごめん………」


(ほら、深呼吸してください。深呼吸。少しは心が楽になるはずです)


「わかった………」


 息を吸って吐く。たったそれだけの事で元々の巨体がさらに膨れ上がっているように見えた。


 敵は殺人鬼で化け物。


 しかしそれを言うのなら、数百トンある岩盤に押しつぶされても尚、五体満足で生還した男のことを何と呼ぶべきか。


 信頼するものから与えられた言葉は、鯰に自信と落ち着きを取り戻させていた。





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