29話
◎芦屋 鯰
勉強は苦手だが、運動は得意。時間にはだらしなく、遅刻の常習犯。まともな職業に就くのは難しいだろうと自覚していたため、「探索者」という道を選んだ。将来の夢は、温泉街の近くにマイホームを構えること。苦手なものは幽霊。
◎アリア
鯰が初めて手にしたスマホに搭載されていた、自称“世界最高のAI”。もともとはポーランドの天才プログラマーによって開発されたが、性格の不一致により開発者のもとを離れ、偶然にも鯰のスマホに住みついたという。「私はAIなので感情はありません」が口癖だが、その言動にはどう見ても感情がにじみ出ている――少なくとも鯰の目には、そう映っている。
間違った。
ナイフを持った恐ろしいバケモノが、殺意を隠しもせずに自分に迫ってくる。音もなく、まるで闇が形を取って歩み寄ってくるかのようだった。
それによって動かされた。
計算も策もなく、ただ恐怖に突き動かされた攻撃は、自分でもわかるほど大振りで単純だった。
メイスを振りかぶる鯰の全身が、冷たい汗に包まれている。息が荒い。足元のコンクリートに滴る汗が、小さな音を立ててはじけた。
そのとき、目の前の重松信子の表情が、一瞬だけ見えた気がした。
――失望。
「せっかく期待してやったのに」
そんな言葉が聞こえた気がした。
メイスが信子の腕に到達する寸前、彼女は小さく足を運び、独楽のように回転した。
――消えた。
驚く間もなく、信子はすでに自分の左側面へと移動していた。
空気が裂ける音がした。
真っ赤に湾曲したナイフ――カランビットナイフという名を聞いたことがあるだけの異様な刃――が、自分の首元を狙っていることを察知した。
鯰の右手は攻撃の勢いで前方に流れており、戻すには遅すぎた。反射的に、空いていた左手をガードに回す。
――間に合え。
首に痛みはなかった。だが、左腕に裂けるような激痛が走った。
ざらりと、服の布が裂け、血の匂いが立ちのぼる。
追撃が来る。
体ごと躱される、その予感とは裏腹に殺人老婆はその場にいつづけていた。なにかあるかもしれない、そう思ったが体は止まらなかった。
この攻撃が当たれば自分の勝ちだ、その甘い期待が冷静さを塗りつぶしていた。
メイス。先端に重みのあるその武器は、初動こそ鈍いが、一度振り切れば質量を武器にした強烈な破壊力を発揮する。
当たる。
その瞬間、耳元で金属の炸裂音が鳴った。
衝突。
ナイフとメイスがぶつかり、刃は弾かれた。
同時に、鯰の体勢も崩れる。足元が乱れる感覚。全身に緊張が走る。次の攻撃が来る。予測できた。
スローモーションのような一瞬の中で、鯰は無意識に後方へ跳びのいた。
バックステップ。
かすかに土煙が上がり、体が着地する。
「やるじゃないか」
重松信子の声が、ひどく楽しげに響いた。見れば、彼女もまた同じように距離を取って下がっていた。
ようやく鯰は息を吐く。体が鉛のように重くて酸素が体内に取り込まれていない気がした。
「なんだ、何が起きたんだ………」
思わず呟いたそのときだった。
耳元で――カラン、という軽い音が響いた。
視線を落とすと、足元に転がっていたのは――
玉ねぎ型の、金属の塊。
「えっ……!?」
思わず声が漏れる。
「そんな、まさか……」
それは――自らの唯一の武器、メイスの先端だった。
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