第6話 雨と信長と壁ドンと
地味なサラリーマンの恵は、新幹線で着替えて女装して恵となるのが趣味。もう一つの趣味は「戦国オタク」。東京発の新幹線が名古屋に着く直前、桶狭間古戦場を通過したときにセーラー服女装のまま、1560年の今川義元の本陣に転生してしまう。義元をなんとか史実と逆方向へ逃げさせた恵だが…
雷鳴が轟き、豪雨が視界を奪う桶狭間の戦場では各所で乱戦が繰り広げられる。
だが、泥濘に足を取られ、地の利の無い今川軍の劣勢は明らかだった。いや劣勢どころではない、総崩れだ。
今川軍の殿を任された25人の士気は高いものの、火縄銃の弾丸のような信長率いる黒尽くめの100騎に、なすすべなく、なぎ倒されていく。
信長の馬が泥を跳ね上げ、馬上の信長は血に濡れた太刀を振りかざして叫ぶ。
「輿はどこじゃ! 義元の首を取るぞ!」
鋭い眼光がはるか東の霧の中に朱塗りの輿を捕捉する。
「見つけたぞ。田楽狭間に追い込め!」
100騎は一斉に東へと踵を返し、泥濘を蹴散らして突進する。
その時、信長の目が足元の泥土に半ば埋もれる「異質」な黒い物体を捉える。信長は手綱を引き、馬を急停止させる。
信長の脇を精鋭100騎が泥を散らしながら駆け抜け、霧の中へ突入していく。それを見届けた信長は馬からさっと降りて、黒い物体を手に取る。
「なんじゃこれは?」
信長の右手にあるのは、恵が持っていたユノロクの黒いビジネスリュックだ。雷が光り、ユノロクのロゴが鈍く反射する。
「南蛮の文字か?」
◇
豪雨の中、ゴルティクス製の完全防水フード付きトレンチコートを纏った今川義元を先頭に、騎馬武者250騎が大高城に向かって、馬を傷めながら全速力で駆ける。輿が向かったのとは正反対の方角だ。
義元の馬に高齢の参謀武者が馬を寄せて、「義元様、よろしいのですか?『白き女軍師』を置いていって。彼女は馬に乗れないようです」と問う。
義元は振り向きもせず、「戦の美しさはなんだと思う?」と逆に質問する。
参謀は「さぁ?分かりませんな」と答える。
義元はフードの下で、舌を出して口の周りの白粉をぺろりと舐めて、言う。
「惜しむべきものがあっけなく散る。それが戦の真の美しさよ」
老参謀はゾクゾクっと全身の毛が逆立つのを感じる。
◇
義元の250騎から半里ばかり後方。護衛する5騎の囲いの中心で、恵はゴルティクス製のキャリーバッグを引きずりながらトボトボと歩いている。
この少し前。恵に追いついたリーダー格の青年武将は「某の馬を使ってください」と言って、馬を降りようとしたが、恵は左手でそれを制して「いらない。馬なんて乗ったことないし」と断る。
恵のセーラー服はびしょ濡れで、透けてピンク色のレース付きブラジャーがクッキリと浮かぶ。
その色気に一瞬「うっ」と心臓が高鳴るのを覚えた青年武将は、それを打ち消すように、「なりません!小幡様からの厳命です」と、また馬を譲ろうとするが、恵は素っ気なく「いらない」と繰り返して、のろりと歩く。
◇
青年武将は後方で味方を蹂躙する信長の圧を感じて身体をブルっと震わす。
「本隊から半里は離されているぞ。この状況は、まずい」とブツブツ独り言を言うと、馬を操って恵の前に立ち塞がり、狂気をたたえた眼差しで馬上から見下ろす。
恵は「いいよ、先に行っても。別にワタシが頼んだわけじゃないし」とその目を直視して冷静に言う。
突然、馬上の青年武将は「アーーッ」と叫ぶとガッと兜を脱ぎ、地上に叩きつける。あらわになった少年の面影が残る端正な顔を見て、恵は「へぇ、結構イケメンじゃん」と斜に構えた口調でつぶやく。
青年武将はバッと片足を宙にあげて馬から降りると、ツカツカと恵の前に立ち、おもむろに両肩を掴み、引きずるように馬の横っ腹に、恵の上半身をドンと押し付ける。
肩に置かれた手の力が強くなり、恵は「いたっ、何すんのよ!」と抗議で口を尖らせると、視界のすべてを埋めるほど青年武将が顔を近づける。その頬は真っ赤に染まっている。
「ちょっ、これってもしかして『壁ドン』?」
恵はドギマギする。
青年武将はこれまでの丁寧だった口調を一変して「おたくはねぇ!男心をまるで分かっちゃいねぇ!」と不良のように言い放つ。
「小幡先輩はなぁ!おたくのことを!メグミ姫を絶対に護り抜けって俺に託して死地に飛び込んでいっちまったんだよ!」
※『温故知新書』(1484年)に「先輩 センハイ」の用例がある。
恵は顔をカーッと桃色にして、うつむきながらポツリと言う。
「ワタシがオタサーの姫…」
青年武将は「おたさーだかなんだか知らねぇけど、とにかく、姫は小幡先輩の、いや俺たちの希望の星なんだよ!」と馬の横腹を壁にして恵を押し付け、熱い思いを正面からぶつける。
ほかの4騎の騎馬武者は2人を心配そうに見つめる。
数十秒後、恵はふーっと大きく息を吐くと、肩を掴む青年武将の手をぱっと払い、「いつまで触ってんのよ!」と怒って見せる。青年武将は「す、すまねぇ、つい」とあわてて身体を離す。
恵はクルッと背を向ける。青年武将に見えないように右手で顔を拭い、「分かったわよ。乗ればいいんでしょ!乗り方わかんないけどさ!」と言うと、いきなり身体がフワッと宙に浮いた感覚に戸惑う。
「えっ、なに? なに?」
青年武将が後ろからセーラー服の脇に手を挿し込んで、グイッと持ち上げたのだ。
「姫、背が高いわりに軽いな」と言うと、恵を馬の背の鞍にちょこんと横座りで乗せ、自分もさっと鞍に跨がる。
「お、女のコに体重のこと言っちゃいけないんだから」との恵の抗議を無視して、青年武将は「捕まってろ。落ちんなよ」とぶっきらぼうに言うと、「ハイヤーッ」と叫んで、馬の腹を足で叩く。
それを合図に馬は猛スピードで走り出す。別の騎馬武者が馬に乗ったままゴルティクス製の黒いキャリーバックを掬いあげ、2人乗りの馬を追いかける。
◇
俊足を飛ばす5騎はまもなく先行する義元の250騎に追いつこうとしている。
義元の隣の老参謀がチラッと後ろを見やり、「どうやら『白き女軍師』は追いついてきたようです」と報告する。義元は「ふんっ」と言うとフードを深く被り直し、「夜の楽しみができたわ」と不気味にほくそ笑む。
◇
馬に横乗りで座り、青年武将の腰に腕を回す恵は「戦国時代、最高ーー!」と感動で瞳をうるませる。
しかし並走するゴルティクス製のキャリーバッグを抱えた騎馬武者を見て、「あれ?」と思う。ほかの3騎を順番に見て、ようやく気づく。
「ユノロクのリュックを置いてきちゃったーー!」
恵は青年武将の脇をつんつんと突いて「ちょっと、ちょっと。本陣に忘れ物したから、戻ってくれないかなぁ。姫のお・ね・が・い♡」と思い切り可愛くねだってみる。
しかし青年武将は「んなこと、できるわけねぇだろ!」と一蹴する。恵は「だよねー」と一旦同意してから、「ダメダメ、歴史が変わるかもしれないから、戻って戻って」とジタバタする。
「そんなの知るかよ」と青年武将は言うと、馬の腹をくるぶしで叩いて、さらに加速する。
次回 信長はユノロクのリュックを開けると…木下藤吉郎(豊臣秀吉)と前田利家が登場!お見逃しなく!