第28話 入城 門の中は地獄
勝利の凱旋。救援の合流。そう信じた瞬間、城門の内側で待っていたのは、血と飢えと腐臭。
そして、太守・今川義元の冷たい笑み。第28話「入城 門の中は地獄」、開幕です
今川義元は、大高城の門へ向かってツカツカと歩きながら、高らかに言う。
「大勝利じゃ!信長め、ワシの大高城に指一本触れられなんだ。──身の程を知れ」
直虎は「義元様から離れないでください。もちろん俺からも。城の中はそうとう殺気立っているはずです」と恵に小声で言う。恵はごくんと唾を飲み込む。
恵は門に近づくにつれ、大高城が異様な『質感』を帯びていることに気づいた。それは無数の矢だった。城壁の木の柱、門扉、そして土壁に至るまで、トライポフォビア(隙間恐怖症)を起こしそうなほどの密度で矢が突き刺さっている。深く突き刺さって矢羽だけを残しているもの、折れて断面を晒しているもの、そして地面には抜け落ちた矢が枯れ枝のように散乱している。これだけの鉄と木の雨が、つい先ほどまでここに降っていたのだ。恵は、その暴力の量に息を呑んだ。
動揺を抑えるように、ウィッグの前髪を指で押さえながら、「ワ、ワタシも、さすがに外で泊まるのは、ちょ、ちょっと無理って言うか」とわざと明るく言ったが、声が明らかに震えている。
それまで恵の存在を無視したかのような振る舞いだった義元があざとく振り返り、「ほお、白き女軍師。怖いのか」と嫌味たっぷりに聞く。
「怖いっていうか、寒いから外で泊まりたくないってだけなんですけど。令和でキャンプブームって言っても、ワタシは全くのインドア派なんでぇ」と強がって見せる。
「ふん、なにを言っているか全くわからん」と義元は興味なさげに吐き捨てると、すたすたと城門をくぐった。
そのとき、隣を歩く青年武将――井伊直虎が、何も言わずに恵の手を取った。甲冑の手甲越しに、硬い掌がそっと包む。恵は、握られた瞬間に気づく。自分の手が、氷みたいに冷たいことに。しかも、とてつもなく震え続けていることに。
義元の背中を追って薄暗い城門をくぐり抜けた瞬間、恵の視界と嗅覚を同時に暴力的な何かが襲った。鼻を突くのは、さっきまでの雨の湿気と混じり合った濃厚な鉄錆びと腐臭。そして目の前にはその発生源があった。悪趣味な現代アートのインスタレーションであったのなら……しかし、それはコンセプトなどではなく現実に木の柵にずらりと並べられた無数の生首だった。
その数は一つの柵に二十、いや三十はくだらない。髷で乱暴に木の枝に吊るされた首は、どれも苦悶や無念の表情を浮かべ、土気色に変色している。さらに異様なのは、それぞれの首の耳や口元に、白い短冊のような紙札や木札がぶら下がっていることだった。風に揺れる札には、墨で文字が書かれている。文字を見た瞬間、恵の背筋が凍った。それは「誰が誰を打ち取ったか」の記録、つまり論功行賞のための展示だ。
「ほう、よく守ったわ」。義元は扇で口元を隠しながら、まるで市場の野菜でも品定めするように首の列を眺め、平然と通り過ぎていく。直虎も眉ひとつ動かさない。ただ、手の力だけがほんの少し強くなる。
日が傾きだしている。「もしかして…外で泊まったほうがましなんじゃ…」
しかし、続いて恵が感じたのは、まだ生きているものたちの視線とざわつきだ。
「女だ」「それもいい女だ」
城外の遠江軍団はさきほどの「カミングアウト」によって男と知っているが、あらゆるものに飢えている城内の兵たちは異様な関心を恵に注ぐ。恵は直虎の手をぎゅっと強く握り返す。呼吸が荒くなる。息はしているのに、肺に空気が届かない。
「大丈夫です。俺と四郎が絶対に護ります……息を吸おうと思わないで、まずはゆっくり息を吐いてみて」
恵の足が止まる。波のように不穏に高まる城内の空気を察した老臣の朝比奈が大声で宣言した。
「このものは、太守義元様の『白き女軍師』。そして今夜の夜伽の相手じゃ。少しでも手を触れたらその場で切り捨てる」
ざわつきがおさまる。
「ふん、朝比奈め、先走りおって。もう少し恵が怯えるざまを見たかったというのに」と義元は薄ら笑うが否定はしない。
恵の視界の端に、手が見えた。細い手ではない。甲冑の袖から伸びた、骨ばった男の手だ。指が二本、無かった。血は乾いて黒くなっている。隣には、脚が無い兵が、槍を杖にして座っている。頬は落ち、目の焦点が合っていない。
城内のあちこちに、負傷者が転がっている。壁にもたれ、藁の上にうずくまり、口を開けて天井を見つめている。中でも長く籠城していた者たちは飢餓寸前だ。
彼らには、立って歩く気力すら残されていない。壁際でうずくまり、あるいは排泄物にまみれた泥土を這いずりながら、何か口に入れられるものを求めて地面を指で掻いている。その爪は剥がれ、指先は血と泥で黒く染まっていた。
「これは『餓鬼草紙』の世界…」
異質な国宝として名高い「餓鬼草紙」は六道絵というこの世やあの世の様々な地獄が描かれている。恵は博物館で展示されるときには、必ず見に行くくらい「なじみのある」風景、のはずだった。しかし、視界がぐにゃりと歪み、耳鳴りがキーンと響く。ミュージアムで見ていた”地獄”が、いま恵の鼻の先で息をしている。
「うぷっ」その瞬間、胃の中から熱いものがこみ上げる。恵は直虎の手を放して口元を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
一方、義元が足を止めた。目の前に、少年のような雰囲気の若侍がいた。甲冑は脱ぎ、直垂姿で、体育座りをし、顔を伏せている。
義元は一歩近づく。少年兵は顔を少しあげる。虚無ーー何も映っていない、空洞のような瞳で義元を見る。いや義元を見ていない。
「無礼もの!」
次の瞬間、義元の足が、少年兵の腹を蹴り上げた。
ボフッ、という鈍い衝撃音と共に、少年の身体が木の葉のように軽々と宙に浮き、ひっくり返って泥濘に叩きつけられた。
「っ――!」
短い音が漏れた。少年は目を見開いたまま動かなくなる。土に頭を打った鈍い音が遅れて恵の耳に響く。
その瞬間、恵は直虎の指示通りに呼吸ができた。目の前の光景になにか言わないと自分が押し潰される寸前だったのだ。
「……あんた、何するのよ!」
立ち上がった恵の声は、思ったより大きく響いた。後ろに続いて入城していた遠江軍団の最前列が、ピクリと揺れて歩みを止めた。
恵は義元の背中に向かって続けた。
「ここの兵士たちは疲労困憊で気づかなかったんでしょ! それなのにそんな……」
義元は怒るどころか、うれしそうに扇を閉じたまま口元へ運ぶ。
「くくく……やはりお前は本当に面白い女じゃの。ワシは三国の太守様じゃ。気づかない三河ものが愚かなんじゃ」
「でも、だって――」
恵の言葉が続く前に、義元は笑顔を消して蛇のような表情に変わり、扇の先で空気を切るように恵を指した。
「今日の夜伽はやめじゃ」
恵が「えっ?どういうこと」と思った瞬間。
義元の声が、さらに低くなる。
「代わりに軍議に出席しろ。軍師としての……人殺しの策をたっぷり聞いてやる」
その言葉は、恵の背中を薄い刃で撫で剃ったように、背筋を凍らせた。恵は唇を噛み、負けじと顔を上げる。
「そんなこと知っていたって、ワタシが教えるわけないでしょ!」
兵たちがほぼ同時に息を飲んだ。直虎が、恵の肩に手を置く。声は小さいが、必死に抑えたものだ。
「姫……もうやめて。さすがにこれ以上は……」
恵は直虎を見つめる。直虎の指がわずかに震えているのに気づく。義元に恐怖しているのではない。恵を護れなくなることを恐れているのだと、直感した。
義元が、再び薄ら笑いを浮かべた。
「直虎」
名を呼ばれた瞬間、直虎の背筋がぴんと伸びる。
義元は愉快そうに言う。
「その姫さんに、女のたしなみというものを、本当のお姫様とはどうあるべきかを、貴様が教えてやったらどうだ」
「はぁ、なんでワタシがイケメンに女しぐさを習う必要があるの?」
言った瞬間、自分でも「しまった」と思う。地獄を見た反動で、軽口がポンポンと出る。
その前に、髭だらけの武者――井伊直盛が、ずいっと立ち塞がった。眼は憤怒の炎がゆらいでいる。軍団長としての忠義から怒りか、直虎の親としての怒りなのかはわからない。
直盛は、ゴリゴリと岩同士を擦り合わせるような音を立てて拳を握るとそれを恵の目の前に見せる。
「さっき見ただろ……俺は……女だろうが容赦せん。腹にぶちこむ」
その言い方が、恵の耳に刺さる。──女だろうが?
息子の直虎を殴った拳を、同じ口で“女”と言った。引っかかる。そのとき直虎が、恵の手を握り直す。さっきより強い。逃がさないためじゃない。支えるためだ。
「ふん。一刻後に軍議じゃ。女軍師も、そこに転がっている情けない三河ものも連れてこい」
義元は問答無用で命じると、城の奥の御殿へと足を進めた。
義元の姿が消えたことを確認すると、遠江軍団の兵たちから恵への感嘆の声があがった。
「女軍師、すげえ……」
「義元様にああ言えるとは……」
「信長の追手も撃退したらしいぞ……」
恵には誤解を解こうという気力も残っていなかった。つながれた直虎の手だけが文字通り恵を支えていた。
恵は次の戦いの舞台――軍議?。次回は軍議の前のから騒ぎです。お楽しみに。




