002
西方の街シニ―は、アステル島内を走る環状街道西側の中継地点である。
大陸との玄関口であり最も大きな南の街ミナンと開拓途上の北部地域を結ぶ位置にあり、物流の往来が激しい場所だ。
そうしたわけで、この街は宿場の地としてそこそこに栄え、大きめの宿屋や酒場が幾つも店を構えていた。
その中の一つ、大通りの目を引く場所に建つ食堂を兼ねた酒場――白影亭。
昼下がりの午後、霊導士ゼファルスの姿はその店内にあった。
「……とまあ、その場にいた不死体は全て倒したはずなんだが」
「へえ、それは災難だったね。
はいよ、果汁」
ゼファルスは近況ついでに先日の屍犬の件を話し終え、カウンター越しに相槌を打っていた妙齢の女性――酒場の女将ウェスティから差し出された木のコップを受け取る。
先に注文していた林檎と柑橘の果汁だ。
しかも、手にすっぽり収まる大きさの氷がまるまる一つ入れられている。
お高い料理店でもなかなか見られないサービスなのだが、この氷はわざわざ他所から取り寄せているわけではない。
今目の前にいる女将が、その場で作り出しているのだ。
水瓶から柄杓で水を汲み、ゆっくりと左の手の平へと垂れ流す。
すると、注がれた水はこぼれることなく手の平の上で凍りつき、あっという間に球体の氷ができあがる。
水術の使い手であるがゆえになせる業だ。
この世界では、こうした術が日常生活の中でも普通に使われている。
もっとも、水を瞬時に氷に変える速さといい、それを営業時間中ずっと続けられる精神力といい、一介の酒場の女将には高等過ぎる芸当のはずなのだが――
「で、結局その子はどうするのさ?」
「……それを今悩んでいるところだ」
ふと思い出したかのように問われ、ゼファルスは女将の言うその子に視線を映した。
彼の右隣りの足元――そこで皿に盛られた鶏肉の細切れを夢中で貪っていたのは、数日前に屍犬の群れから助けた銀色の毛並みの子狐だった。
あの日、屍犬の群れを倒して銀狐の番の魂を見送った後、その身体が不死体化せぬよう処理して弔うと、ゼファルスは子狐に別れを告げてあの場を立ち去った。
小さな子狐をたった一匹で残すのは酷ではあるが、それも自然の掟だ。
人間如きが関わるべきではないと思ったのである。
ところが、子狐はゼファルスの後を追ってずっとついてきた。
彼と共に行け、と母親が最期に言い残したらしい。
我が子を思う母心の深さには感心せざるをえないが、全く面倒なことを押し付けられたものである。
「成獣にまで育てあげて、相棒にしたらどうだい?
あんた、今は一人みたいだし、霊導士の活動でもいい助けになると思うんだけどね」
「島内でも希少な銀狐を従えるとか、恐れ多いにもほどがあるな。
俺自身、ただでさえ悪目立ちしているのに」
言いながら、ゼファルスは己の髪に触れた。
黒髪、そして黒い瞳。
それはこの国では極めて珍しい色だった。
血筋によって生まれつき強い力の素養を持つ者は、その特徴が髪や瞳の色にまで色濃く表れる。
火の属性は赤、水なら青、天が緑で、地は黄か茶色。
光の力たる神属性は金や白で、霊属性は銀または灰色だ。
そして黒は、闇の力を根源とする魔属性の象徴に他ならない。
ここアステル島は霊導士生誕の地として霊界主の影響が強く、しかも守護の神界主の信仰篤い【新生イステリア教国】の統治下にある。
国民の大半は灰色や白を主体とした髪色であり、他の色の者は余所者を除けばほんの一握りしかいない。
しかも、過去の歴史のこともあって至強の魔界主とその信徒を忌み嫌っている。
それゆえ、この国に定住する黒髪黒瞳の者はほとんどいないという。
ゼファルスは、そんな数少ない特徴を持った唯一の霊導士なのである。
もっとも、全てが順調だったわけではない。
実際、この黒を嫌って仕事させてもらえないこともざらにあったのだから。
そこへ、島内でも希少な銀狐などを引き連れていたら、間違いなく妬まれる。
良からぬことを企む輩だって出てくるだろう。
正直、面倒事に巻き込まれる予感しかしない。
「まあ、遺言で託されたとあっては見捨てる選択肢は無いんだが、流石にまだ幼い子狐を庇いながらでは仕事にも差し支えるからな。まずはミナンの街に行って、信頼のおける場所に預けて世話してもらうことにするさ。
そのついでに請けられそうな依頼でもあれば良かったんだが……」
ゼファルスは入り口そばに置かれた掲示板を思い返す。
あそこには、町の人々からの数々の依頼書が張り出されていた。
だが、最初にざっと見た限り、ミナンに用向きのあるものは確か無かったはずだ。
「残念ながら、今のところ一般的なのはこの街の中で済むようなのしかないよ」
「そうらしいな。
じゃあ、霊導士向けなのは?」
「……実は昨日、ちょうど良さそうなのが一つ入ったところさ。
霊導のお役目ではないみたいだけどね。
ちょっと依頼書を取ってくるから、これでも飲んで待ってておくれ」
そう言って琥珀色の液体を注いだグラスを差し出すと、女将は店の奥へと引っ込んでいった。
ゼファルスは目の前に出されたそれには目もくれず、手に持つコップに口をつけた。
甘酸っぱい果汁の冷たさが喉に染み渡る。
霊導――すなわち魂を救い導くことが霊導士の主な役目だが、その務めを果たすために世界各地を旅して回らなければならず、大いに金がかかる。
人々から敬い崇められる霊導士であっても、旅の資金を十分に得るためには霊導とは関係ない依頼もこなしていかなければならない。
こうした酒場には様々な依頼が持ち込まれるが、霊導士向けとなるとどれも特殊なものばかりである。
霊導士と伝手のある店でなければ、仲介することはない。
つまり、この白影亭はそれだけ信頼のおける店だということだ。
果汁を飲み干し、ゼファルスは女将が来るのをひたすらに待った。
その間、差し出されたグラスには全く手をつけていない。
「待たせたね。
おや、それ飲まなかったのかい?」
「真っ昼間から酒を飲む趣味はない。
それに……そもそもこれ、無料じゃないだろう?」
ゼファルスは疑わしげな目で女将を見た。
グラスに入っているのは、濃い酒精の入った蒸留酒だ。
顔を近づけずとも漂ってくる気品高い香りは、その辺りにある銅貨四枚程度の安酒とは明らかに格が違う。
確か、一杯だけで銀貨三枚とか取られる値打ち物だったはずだ。
そして、女将は一言もこれを「無料」とは言っていない。
「ちっ、引っかからなかったか。
やるね」
「前に一度、してやられたからな。
そりゃあ警戒もする」
白影亭は基本的に良心的ではあるが、霊導士の警戒心を養うためと称してわざと注文していない高い酒を出して、誰もやらなさそうな依頼を受けさせようとしてくるのだ。
特に駆け出しの霊導士には通過儀礼みたいなもので、ゼファルスも無警戒だった最初の一回目だけは一杯食わされている。
あの時は、貴族絡みの面倒な依頼を強引に請けさせられた。
その分報酬も高かったから文句は言わなかったが。
「こうして再び仕掛けてきたってことは、今回も厄介な依頼じゃないだろうな?」
「いやいや、依頼自体は変なものじゃないよ、ほら見てみなよ」
差し出された依頼書を受け取り、ゼファルスはそれに目を通していく。
内容自体には不審な点はない。
しかし。
(ああ、なるほど)
一番下まで見て、この依頼が特殊である理由を察した。
女将のものではない流麗な文字でそこに記されていたのは、『霊導士ニコラ・キーヴ』という名だった。
シニーの街の東北区画は、いくつもの長屋が建ち並ぶ住宅地区だ。
一軒家はなく、あまり裕福ではない庶民が大勢住んでいる。
だが、その中央の一画にある井戸場では幾人かの婦人達が集い、笑い声を上げながら世間話に興じている。
たとえ大金が無くとも、ここに住まう人々は互いに助け合いながら楽しく暮らしているのだ。
「ここから先、左の長屋の七軒目がキーヴ導士の住まいだよ」
「そうか、案内感謝する。
仕事中にすまなかったな」
「まあ、これもお勤めのうちだからね」
そう話すのは、ここまでの案内を務めてくれた妙に可愛らしい給仕服の娘だ。
食事を終えて毛繕いしていた銀狐の子のそばでしゃがみ込み、微笑ましそうにその様子を見守っていた彼女に、白影亭の女将ウェスティが案内を申し付けたのである。
じゃあこれであたしは持ち場に戻るから、と朗らかな笑顔で手を振りながら立ち去る彼女の姿が見えなくなるまで見送ると、ゼファルスは再び歩き出した。
霊導に生き、霊導に死ぬ――それが、霊導士の宿命だ。
何しろ、人並外れた霊気をその身に宿したがゆえに、霊魂の見えない常人の暮らしに戻ることが叶わなくなるのだから。
ただ、どんなに強い霊気を持っていようとやはり人間、老いから逃れることはできない。
そうして年経て体力の限界を迎えた霊導士達は何処かに住まう定住者となり、その地に根を下ろして暮らしていくのが一般的だ。
ニコラ・キーヴは御年六五歳にもなる女性で、霊導の旅を終えて今はこのシニーの街で生活している。
五〇年も前にミナン学院の霊導士科を出た大先輩である。
何も聞かずに断るのは失礼というものだろう。
とにかくまずは事情を訊いてから判断しようということで、ゼファルスは彼女の元を訪ねることに決めたのだった。
「今から他の人と会って話をする。
ちょっと窮屈かもしれないが、しばらくおとなしくしていてくれ」
「ぎゃう」
独り言のように呟いた一言に、くぐもった鳴き声が応えた。
その正体は、背負い袋の中にいる銀色の子狐である。
酒場に置いていくわけにはいかなかったので、仕方なく詰め込んできたのだ。
不自由をさせるが、なるべく楽な体勢で呼吸できるように入れてあるから問題はないはずだ。
目的地が見え、もう少しで目の前に辿り着くところでその扉が開き、一人の老女が姿を見せた。
こちらに向き直り、穏やかに微笑みを浮かべる。
気配に気づき、出迎えてくれたらしい。
後ろで一つにまとめた髪はくすんだ灰色。
身にまとう古めかしい長衣もまた同じ。
そして、首から下げた銀の首飾りの意匠は母なる霊界主の紋章――まさしく、新生イステリア教国が認めた国家霊導士の証である。
年齢を物語る顔のしわの数と深さとは裏腹に、かくしゃくとした立ち姿はとても老いを感じさせない。
柔らかい物腰ながら、今もなお近隣の住民達が頼りにするのも頷ける居住まいである。
「霊界主の導きのままに。
ニコラ・キーヴ導士であられますか。
私は霊導士ゼファルス・クヴァイ。
白影亭の女将ウェスティからの紹介で参りました」
ゼファルスは霊導士流の挨拶とともにそう告げると、懐から依頼書を取り出して見せた。
「霊界主の導きのままに。
ええ、私で間違いありません。
貴方の噂は存じ上げておりますよ。
何でも、たった一年でミナン学院を卒業した英才ですってね。
【黒の霊導士】なんて渾名までされて」
「五〇年間も霊導に携わってきた貴女の働きに比べれば、大したことなど。
お恥ずかしい限りです」
ニコラの話に、ゼファルスは自嘲する。
どんなに学院を早く卒業できたとて、実際の霊導士としての活動には何の得もない。
それにその渾名も、名を上げるために霊導とは無関係な荒事ばかりに手を出した結果であり、霊導士の本分を評価されたわけではないだろう。
だから、彼が述べた謙遜の言葉は本心からのものだった。
「ふふ、まあいいでしょう。
とりあえず、話の続きは中で。
どうぞ、こちらへ」
促され、ゼファルスはニコラに続いて長屋に入る。
どうやら、彼女が出てきた一室は応接間として設えてあるようだった。
霊導士として今も直接依頼しにやって来る人々のために用意したのだという。
本当の居宅はもう一つ向こうの部屋で、行き来できるようにと管理人が壁に穴をあけて通れるようにしてくれたらしい。
ゼファルスが中に入るなり、ニコラはさっそく話を切り出してきた。
「それで、ここに来てくれたということは依頼を請けてくれるということでよろしいかしら?
書面の通り、依頼内容はミナンの街まで女性を一人連れていくこと。
期限は問わず、報酬は支度金込みで銀貨一〇枚を前払い。
噂通りの実力の貴方になら、是非ともお願いしたいのだけれど」
確かに、荒事に慣れたゼファルスにしてみればこれはおいしい仕事だった。
普通なら、こんなに気前のいい報酬の依頼などそうそうない。
――だからこそ、かえって怪しい。
「その前に、女性の人となりについて伺いたい。
一般ではなく、わざわざ霊導士向けに出された依頼。
そうせざるをえない事情があると見ましたが」
ただ護衛するだけなら、霊導士である必要がない。
それに、白影亭の女将がわざわざ引き受けざるをえないように画策してきたくらいだ。
訳ありなのは、まず間違いない。
「人格については問題ないと思うわ。
今は私が保護して一緒に住んでいるのだけど、素直で真面目な娘だから。
事情については……まあ、実際に会ってもらった方が話が早いかしらね。
リルハさん、こちらにいらっしゃい」
「は、はい!」
居宅の部屋に向かってニコラが呼びかけると、どこか狼狽えたような応えが返ってきた。
どうやら、件の娘とやらはずっと隣に居たらしい。
やがて不安げな面持ちで隣の部屋から現れたのは、まさに白銀の美少女だった。
瞳も、腰まで伸びた長い髪も。
そして、その胸元で煌めく霊導士の証たる首飾りも。
ニコラのくすんだ灰色とはまるで違う鮮麗なる白銀は、紛れもなく霊界主の祝福の印だ。
――血統霊導士。
彼女の正体に気づき、さしものゼファルスも思わず目を見張っていた。