001
空は見事に晴れ渡り、柔らかい日差しも降り注いでいるというのに、吹きつける風はいまだに肌寒い。
ローザーン大陸の北、帆船に乗って一日ほどの位置にあるアステル島の春は遅い。
島の中央に鎮座するワーディン山は今も雪をかぶり、陽の光に照らされて白く輝いている。
街道付近ではもはや冬の面影はないが、薄暗い森の中では地面を覆い隠すほどの雪がいまだに残っている。
その奥深くで今、動物達の凄絶な戦いが繰り広げられていた。
二〇匹ほどの群れで獲物を囲むのは野犬の群れ。
それに勇敢に立ち向かうのは、たった一匹の銀狐の雌だ。
そばには、番だった雄の狐がすでに力尽き、倒れている。
後ろの大木の洞には、彼らの子である小さな狐が一匹、震えながらその様子を見守っている。
子供の狐を狙う野犬の群れと我が子を守る親狐という、自然界ではそれほど珍しくない光景だった。
ただ一つ、野犬達の異様ささえなければ。
顔は醜く爛れ、片目が抉れていたり。
足があらぬ方向へと曲がり、胴体に明らかな致命傷を負っていたり。
それどころか肉体が朽ち果て、大部分が骨でむき出しのものまでいる。
一匹たりとも、生きてはいなかった。
それにもかかわらず、彼らは立って動いている。
不気味な呻き声を上げながら、腐臭と禍々(まがまが)しい気配を放ちながら。
この野犬達が、自然ならざる存在であるがゆえに。
屍犬――何らかの原因で闇の属性たる魔の力の強い影響を受け、屍に残った魂の残滓が増幅されることで仮初めの命を宿した野犬の不死体である。
当然生きていないのだから、普通の手段では倒せない。
もっとも、この銀狐達も特殊な存在だった。
誕生と死、そして転生を司る母なる霊界主の影響を色濃く受け、その身には強い霊気を宿している。
周囲には倒れて動かなくなった野犬の遺骸が一〇体ほどあり、多勢に無勢ながら狐達も奮闘していたのだ。
けれど、それももう限界だった。
我が子を庇いながら無理に戦い続けた雌狐はすでに満身創痍で、体中が血で真っ赤に染まってしまっている。
荒い息を上げ疲労も困憊、立っているのもやっとだ。
屍犬達が再び襲いかかってきたら、もはやひとたまりもないだろう。
気力だけが、雌狐を支えていた。
ここで今自分まで倒れれば、次に狙われるのは後ろにいる我が子だ。
たとえ自分がここで死ぬとしても、せめてあの子にだけは生きてもらわねば。
だが、その切実な願いが介されるはずもなく。
それまでじりじりと迫っていた屍犬達が、ついに駆け出した。
朽ちた身体とは思えない速さで、あっという間に距離を詰めてくる。
戦わなければならないとわかっているのに、傷つき疲れ果てた身体ではもう反応できない。
これまでか、とさしもの母狐も死を覚悟した、まさにその時。
一陣の風が吹いた。
溢れんばかりの力を纏った、銀色の疾風だ。
突如としてやってきたそれが雌狐の横を駆け抜けた直後、目の前で暴風が巻き起こった。
強烈な衝撃波に薙ぎ払われ、屍犬の群れがまとめて勢いよく吹き飛ばされていく。
後に立っていたのは、灰色の衣服を着た一人の人間の姿だった。
『許せ。
思った以上に遠い場所だったから、来るのに時間がかかってしまった。
遅れてすまない』
顔だけをこちらに向けて語りかけてきた人間の言葉そのものはまるでわからなかったが、その意味合いは脳裏にするりと伝わってきた。
彼の声が、魂に直接語りかける【言霊】を宿しているがゆえだ。
雌狐のそばには、いつの間に現れたのか、半透明でゆらりと浮かぶ狐が寄り添っている。
まぎれもなく、先ほどすぐそばで息絶えたはずの雄狐だった。
――ああ、そうか。
雌狐は全てを理解した。
これは、雄狐の亡霊だ。
先に力尽きた彼は死して霊体だけとなってもなお諦めず、助けを呼んできてくれたのだ。
自分達と同じく、不死なる存在を打ち倒せる力――霊気を操ることができる特別な人間を。
ふと、人間の男が周囲を見渡した。
見ると、吹き飛ばされて倒れていたはずの屍犬達が一匹、また一匹と立ち上がっている。
ぐるる、と恨みがましく唸りながら、彼らは突然現れた闖入者を取り囲んでいく。
どうやら、邪魔されたことがよほど気に入らなかったらしい。
だが、男に慌てる様子はない。
むしろ、余裕すら感じるほどに落ち着き払っていた。
『後は任せろ。
奴らは必ず討ち果たすと約束する。
霊導士として、この魂に誓って』
真摯に告げられたその言葉に、迷いや虚勢は感じられない。
ただ、確固たる信念だけが窺い知れる。
話し手の本心までもが筒抜けとなる【言霊】で告げられたのだ。
そこに嘘偽りなどあろうはずもない。
――この人間なら、全てを託せる。
安堵した雌狐はそこで気力の限界を迎え、がくりとその場に崩れ落ちたのだった。
とさり、と後ろで雌の銀狐が倒れる気配に、霊導士ゼファルス・クヴァイはそっと息をついた。
街道を歩いていたゼファルスが銀色に透き通る銀狐の亡霊と出会ったのは、つい先ほどの事だった。
番の危機を慌てふためきながら知らせる様子に、彼は迷わず助けに行くことを選んだ。
途中までは亡霊狐の先導で普通に走って急いでいたのだが、その方角に多数の魔の気配を察知し、距離がかなり遠いことを知った。
嫌な予感を覚えたゼファルスは、普通に歩けば半刻はかかる道のりを本気で駆け抜け、四分の一の時間まで短縮してやってきたのだった。
ほんの少しでも遅かったら、雌狐の命は今頃尽きていただろう。
際どいところだったのである。
しかし、状況は芳しくない。
後ろの木の洞に居る子狐は無事なようだが、雌狐の方はかなりの深手を負って死に瀕している。
悠長に手間をかけてはいられない。
すでに抜き放ち右手にある刀剣を、下段に構える。
霊刀【白銀】――人間の背丈の半分ほどの刃渡りを持つこの刀は東洋伝来の技術をもって作られているらしく、その刀身は緩やかに反り返っている。
魂の大元である霊気を強く宿した【霊銀】を鍛え上げた逸品で、その霊刃はどんな霊的存在をも切り裂く。
先程は雑に気を纏わせて振り払い、衝撃波を起こしただけだったが、今度は違う。
この刃をもって、屍犬達の仮初めの生命を確実に断つ。
「これ以上の勝手を見過ごすわけにはいかない。
せめて苦しまずに終わらせてやる。
全員まとめてかかってこい」
周囲に集まった屍犬達に向けて、ゼファルスは【言霊】ではっきりと告げる。
不死体と呼ばれる存在の中でも、屍犬のように身体に残った魂の記憶を魔力で増幅して仮の命を与えられたものは、総じて単純な知能しか持ち合わせていない。
だが、魂に直接呼びかける【言霊】であれば、たとえ屍犬であってもその意図をわからせることは可能なはずだった。
――お前達如きの相手など自分一人で事足りる、と。
案の定、屍犬達は怒りを覚えたのか唸り声を上げると、次々とゼファルスに向かって襲いかかってきた。
素早い。
生前と同等か、それ以上の動き。
普通、偶発的に発生する屍人や屍犬といった存在は緩慢な動きしかしないものなのだが。
強い霊力の持ち主たる銀狐が、ここまで追い詰められるのも頷ける。
並の戦士では、返り討ちに遭うだけだろう。
もっとも、その例外にあたるのがゼファルスなのだが。
最初の一匹目が飛び上がるのとほぼ同時に、ゼファルスは動いた。
下から鋭く斬り上げた霊刀の切っ先が、喉元目掛けて嚙みついてくる屍犬の右足付け根付近を捉える。
通常よりも遠い間合いから斬りつけたために、その傷はごく浅い。
けれど、それで十分。
果たして、屍犬はふつりと意識が途切れたように地面に落ち、そのまま動かなくなった。
屍犬の核は、魂の残滓を覆う魔力の塊である。
それさえどうにかしまえば、屍犬達は活動を止める。
ただし、身体のどの部位にあるかは個体によって違い、普通の人間には見極めることができない。
その位置をゼファルスは瞬時に見抜き、核のみを断ち割ったのだ。
しかも、わざと切っ先だけが当たるように狙い澄まして。
大きな隙を作らないためでもあるが、それだけではない。
いくら忌むべき存在とはいえ、元はと言えばただの野犬の屍だ。
その身に魂はすでに無く、屍犬となってからの行動にも彼らの責任はない。
ならば、その身体をいたずらに損壊させるべきではない――そう思ってのことだった。
続けて返す刀で薙ぎ払い、右と後ろから同時に迫っていた二匹を一度に仕留める。
その勢いのままぐるりと一回転し、斬閃が大きな円を描くと、今度は四匹が一気に倒れた。
更に迫り来る屍犬達を、ゼファルスは次々に討ち果たしていく。
――そして、銀色の刃が煌めくこと、ちょうど一〇回目。
最後の一匹に眉間への一撃を突き入れてとどめを刺すと、ようやくこの場に静けさが戻った。
周囲に討ち漏らしや他の危険がないことを確認するとゼファルスは振り返り、霊刀を左腰の鞘に納めながら倒れている雌狐の元へ急ぎ駆け寄った。
横たわり、わずかにびくりと震えるその身体からは今も絶えず血が流れ出ており、地面に残る残雪を赤く染め上げている。
そのさまを一目見て、ゼファルスは思わず嘆息する。
(これはもう、助けられない)
骨折や簡単な血止めならできるが、ここまでの深手となると無理だ。
第一、あまりに血を失い過ぎている。
長くは持たないだろう。
せめてもっと早く駆けつけることができたなら、と一瞬考え、すぐに否定する。
街道からここまではかなりの道のりだった。
自分でなければ危機的状況を察知できなかっただろうし、そこからは可能な限り迅速に行動していた。
亡霊狐が自分を探し当てるにも、相応の時間がかかったはずだ。
むしろ、二〇対一でその間を耐え凌いだこの雌狐をこそ褒めるべきだろう。
――神術士の癒し手でもいれば、話は別かもしれないが。
この世界では主と呼ばれる偉大な存在から祝福を受け、普通に生活する人々もさまざまな能力を持っていたりする。
その中でも守護の神界主の力を授かった者には傷を塞ぎ癒したり、活力を分け与えることができる術者も大勢いるという。
しかし残念なことに、ゼファルスはそんな能力など持ち合わせてはいない。
(できるとすれば、せいぜい痛みと苦しみを和らげてやることぐらいか)
横たわる雌狐のかたわらに跪き、ゼファルスはその血まみれの身体にそっと手を当てる。
そこから気を送り込むと、それまで苦しげだった雌狐の様子がすっと穏やかになった。
そこへ、それまで木の洞に隠れていた子狐がそろりと出てきて近寄ってきた。
親を心配する気持ちが勝ったのか、見知らぬ人間がそばにいても恐がる気配はない。
「言い残すことがあるなら伝えるといい。
これで最期になるだろうからな」
そう告げてゼファルスは立ち上がり、数歩下がって親子の最後の会話を見守る。
雌狐のか細く力無い声と、子狐の悲痛な鳴き声。
【言霊】ではなかったためにどんな言葉が交わされているのかは理解できないが、死ぬ間際の語りとなれば人ともさほど変わるまい。
その最期を見届けなければならない。
死した魂が無事に霊界へ向かうように導く――それが、霊導士としてこの場に立ち会った自分がなすべき使命なのだから。
全てを話し終えたのか、雌狐の目がゆっくり閉じていき、永遠の眠りについた。
その身体から霊体の雌狐が離れると、そばにいた雄の亡霊狐とともにゆっくり天へと昇っていく。
二匹の魂が二重の螺旋を描きながらくるくると舞い上がるそのさまは、さながら戯れているかのようだ。
やがて向かうべき目的地を探し当てたのか、銀狐の魂達は方向を変えて飛び去って行く。
その方角にあるのは、アステル島の中央に鎮座する霊峰ワーディン――霊界への入り口たる霊界門が多数存在する場所だ。
あそこへ向かうなら、きっと大丈夫だろう。
「霊界主の祝福があらんことを」
胸に拳を当てながら、ゼファルスは霊導士の聖句を送る。
同時に、くぉーん、と。
長く後を引く子狐の遠吠えが、森の中に響き渡った。
幾度となく、物悲しげに。