【前編】
決して居心地のよいとは言えない揺れが収まってきた頃だった。のどかな田園を走っていた馬車は、舗装された道へ入る。
領主のお膝元である町に到着してすぐに、外と町をつなぐ駅舎についた。もうすぐ目的地まで到着するが、その前に休憩をしてもいいか、そう尋ねる馭者の言葉に彼女は頷く。背伸びをすると、身体のあちこちが音を立てた。
王都を出てから五日が経過していた。
「皇子の婚約者が決まったそうだよ」
「王都もその話題で持ちきりさ。今の国王のときと比べたら発表までだいぶ時間がかかったからな」
「どうやら、最後の最後まで二人のお嬢様たちが競い合っていたらしいって噂だが、まあお貴族様のやりとりなんてわからんがな。小さい頃から次の王妃になるために競わされるなんてたまったもんじゃないよなあ」
「そりゃ、な、そのうちまた舞台にでもされるかもな」
「選ばれなかった方はもう二十も近いっていうんじゃ、ほんとうに酷なことをするよなあ」
休憩していた馭者と、どうやら顔見知りらしい男が交わす会話が馬車の中にまで聞こえてくる。彼女の隣に座っていた、幾分か歳を重ねた女性が険しい顔をした。
「そんな顔をしなくても、私は平気だから大丈夫よ、シンシア」
「それでも、お嬢様のお耳に入ってほしくない話題であることは確かです」
「そうねえ。でもきっとあそこで話している方も、きっとここに乗っている『お貴族様』が選ばれなかったもう一人だって想像するほうが難しいじゃない?」
シンシアは毒気の抜かれたような顔をすると、それはそうですが、といったきり黙ってしまった。その顔はどこか悔しそうで、王城から戻ってきたあとの自室で、外では決して出すことのできない罵詈雑言を連ねていたときの顔を同じだった。
馭者が気まずそうな顔をして、休憩から戻って来る。相変わらずシンシアは口を閉じていて、気配が伝わったのか馭者も肩をすくめた。
「申し訳ありません、お嬢さまのことをいわれるつもりはなかったんですが」
「それだけ皆の注目が高いってことじゃない。国の動向に見向きもされないより全然いいわ。それより、もうすぐ着くのよね?」
「ええ。領主邸まであと一時間も走らせれば着くでしょう。あと少しの辛抱ですので」
「辛抱なんてことないわよ、こんな何日も何もしなくていいのなんていつぶりだったかわからないから」
そういう彼女は、先ほどまで話題にあがっていた「選ばれなかったお嬢様」である。
今この領地を収めるメルシエ家、侯爵令嬢ダニエル・メルシエは、十年以上に渡る次期王妃教育を最後まで受け続けた令嬢だった。
選ばれなかった、そうはいっても、メルシエ家の者はだれもダニエルを責めることなどしなかった。それは、日夜、課題の数々に正面から向き合う彼女を見守ってきたからだ。今ダニエルの隣に座る侍女のシンシアは最たるものである。
ダニエルは指で空をなぞる。大好きな魔術の術式の記号。十年以上、王城に縛られる生活だったが、悪いことばかりではなかった。それは好きな魔術を学べる環境にあったから。王妃になるべく集められた教師陣は、皆、優秀だった。
魔術がこの環境で学べるなら。そして、学んだ魔術や数々の知識が、よりこの国を豊かにしていくなら。ダニエルは自分が王妃に選ばれても良いと思っていたし、国がつつがなく続いていくのであれば、最後まで競っていた彼女が選ばれることになっても構わなかった。結果的に、ずっと支えていてくれた父や母、兄やシンシアを始めとした皆を悲しませることになってしまったのは残念だったが。
その視点こそが、もうすでに為政者の視点であることは、ここにおいておく。
「領地にくるのも久々ね。シンシア、ねえ機嫌を直して」
「お嬢様は気にしなすぎなのです。帰ってきて早々、魔術の研究をしに王都から離れメルシエ領へ向かいたいなどと言ったときも驚きました。……縁談は、もうよいのですか」
「いいのよ、とりあえずは。それにこんなに国政や内情に詳しくなった女なんてきっと面倒でもう貰い手なんてないわ」
「なんてことを! お嬢様は自分のことを軽んじすぎます。引く手数多です、それは旦那様に届いている釣書の束が証明しています!」
そもそも選ばれなった方がおかしいのだ、という不満を再度連ね始めるシンシアの言葉を、流すように相槌を打ちながら聞いている。
ダニエルの視線の先に、馬車の窓から、黒髪の少女の後ろ姿が見えた。目を惹かれる綺麗な黒髪。町中でもあんなに光るような長い髪の少女がいるなんて、お父様のこの地での治政はうまくいってるんじゃないか、そう考えながら、黒髪の少女を視線で追いかける。町中でゆっくり走る馬車が、少女の顔を捉えた。
「えっ?」
その、瞬間。
ダニエルの脳裏に浮かんできたのは、光の海。
光の海の先に立つ、眩しいほどの笑顔がすきだった、少女の姿。
突如なだれこんでくる情報量に耐えきれず、ダニエルは頭を抱える。シンシアが、お嬢様? と心配そうに呼ぶ声ですら痛い。
まず文化が違う。光の海だと思ったものの名前はペンライト、というらしい。私は、わたしは、日本人? ひとつをきっかけにして脳内に濁流のように押し寄せるそれらに耐えきれず、ダニエルは意識を手放した。
* * *
目を覚ますとそこは、見慣れない部屋だった。窓にはカーテンが引かれている。もう夜更けなのかもしれない。
「やっと起きましたか、お嬢様」
そうほっとしたようにいう女性はシンシア。名前がわかって安心する。ではわたしは? 私はダニエル・メルシエ。それは間違いない。
倒れる寸前の記憶がまた蘇ってくるような気がしてダニエルは頭を抑えた。
「ずっと無理をしていらっしゃったのですね。突然意識を手放すなど、こちらの心臓がいくつあっても足りません。もう領主邸には着きましたし、診てくださったお医者様も過労だろうと。旦那様にも一報いれましたので安心しておやすみくださいませ」
「……ありがとう、シンシア」
何か軽いお食事でも持ってきます、そういうなりシンシアは部屋から出ていく。きっとダニエルが目を覚ますのをずっと見守ってくれていたに違いない。
思い出した記憶は、ダニエルの生前の記憶だった。生前、であっているのだろうか。三十を待たずとして終えた人生の、日本という国で過ごした記憶。その頃の記憶と比較したら、こちらは異世界と呼ばれるものになるのだろう。なにせ、魔術が浸透している世界なのだから。
ダニエルは頭を抱えながらも、一気に二つの人生がなだれ込んできたことを整理する。
きっかけとなった、黒髪の少女。それは生前の彼女にとって、推しのアイドルと瓜二つの顔をしていた。
「生まれ変わったら、異世界の貴族令嬢になってたってこと……? それも侯爵家なんてハイスペックなおうちのお嬢様。王妃になりそこねた才女、って何その盛った設定」
呟くように現状を把握する。自分のことを話しているはずなのに、何故か客観的になってしまい、ダニエルは笑った。
「それにしても、やっぱりかわいかったなあ、もう一回くらい会えたら嬉しいんだけどな」
脳内に映るのは、きっかけとなった少女。
ダニエルが、なぜだか自分の名前だけは思い出せないのだが、日本で過ごしていた頃、ずっと応援していたアイドルの女の子とそっくりだった。
綺麗で真っ直ぐな黒髪。その髪すら自在に踊らせるダンス、踊るかのように弾む楽しげな歌声、歌うように笑って魅了するくるくる変わる表情は、まさしく天性のアイドルだと、ダニエルは思っていた。
出会いは、友人に「初めての友達を連れていくとわたしが得をする」と、半ば無理やり連れられて見に行ったたくさんのアイドルがでるフェス。短い持ち時間の中で、次々とステージに現れては出ていくグループを見ながら、ふと歌声が耳に届いた瞬間に、目を奪われたのが彼女だった。歌声だけではなく、表情に、そしてその指先まで気を遣ったダンスに。
数分の間に魅了されてから、ずっと、人生に彩りを与えてくれていた一人の女の子は、まさしく推しだった。
「推しと似た子を見かけて記憶が蘇る、とか、どれだけすきだったんだろ、わたし……」
私とわたし、一人称が混在するくらいには、記憶に引っ張られていた。とはいえ、この世界に生を受けて十九年が経ったダニエルの人生もそのまま残っている。
なぜだか、得をする気分だった。ひとまず、黒髪の少女のことはそれとなく気にして過ごそう、と思い出したばかりの曲を口ずさみながら、ダニエルはベッドを出る。
第二の人生の始まりに相応しい、そんな選曲だと嬉しくなりながら。
* * *
黒髪の少女のことは、それほど日が経たずにわかった。どうやら、町ではそこそこ有名な酒場で歌う女の子らしい。
らしい、というのはダニエルにはその場で確かめようがなかったからだ。庭師が教えてくれた情報に、ありがとう、と伝え、塩をきかせたクッキーを手渡す。お嬢様が差し入れしてくれるこの菓子が大好物になりましたよ、と庭師の男性は嬉しそうに笑う。
こちらにきてからというもの、魔術を研究し直すという体で、身体の線を拾わないゆったりとしたワンピースを着ながらダニエルは過ごしていた。記憶が戻ったいま、窮屈なドレスを着ることはより難しくなっていたからだ。
シンシアは着飾りたそうに残念そうな顔をしていたが「王都を思い出すから……」と少し悲しそうにいうと、勢い良くドレスが目に入らないようにする。ダニエルにとって、そこまでの悲しみは最早なかったが、嘘も方便である。ダニエルは、メルシエ領での生活を、それは満喫していた。
「歌っているのね。酒場、には私は行けないわよね?」
「当たり前でしょう。そもそもそこまで気にしていらっしゃるなら、呼び寄せればいいものを」
「呼び寄せる……? シンシア、何言ってるの、こちらが会いに行くのが当然じゃない……?」
「いえ、お嬢様はこの領地の主の、娘なのですよ。旦那様が王都で政務をされている今、立場においては一番上の存在なのです。むしろ、こちらが会いにいくほうがその少女は恐縮するのでは。呼び寄せるほうが無難でしょうに」
「私が、また一目みたいだけなのに。そんな重荷を背負わせる方が嫌だわ」
ダニエルが探している、黒髪の少女の存在は、シンシアにもすぐ伝わった。黒髪が綺麗だったから、という取って付けたような理由に納得しないまでも、ダニエルに協力してくれる姿は侍女の鏡ではあるだろう。少し言葉使いは荒いが、それもまた彼女の魅力だった。
「そうは言わずに、お忍びで行ってみればいいのでは?」
援護をしてくれたのは、渡した塩クッキーを美味しそうに食べている庭師の男性だった。
「酒場っていっても、そんな荒くれたところじゃあ、ありません。町だとちょっと敷居が高いところなんですわ。そこの女亭主がそりゃあ、美人なのにおっかなくて有名でね。だからお嬢様がお忍びでいっても、ちょっと背伸びした裕福な商人の娘、くらいには収まるじゃないでしょうかね?」
「それは名案だわ。どう、シンシア? 私だって分からないように目の色や髪の色を変えていくから、ねえ、お願い」
「……魔術以外にここまで目の色を変えるお嬢様を前に、わたくしが嫌だと言えるわけないではありませんか」
それに、そんな高度な身体変更の魔術を気軽にお忍びに使おうなんてお嬢様くらいですよ、きっと。そう続けながらも、賛成してくれそうなシンシアの言葉にダニエルは喜ぶ。
ダニエルは、色素の薄い栗色の髪に、薄紫の瞳をしている。それは、この国に住む人々なら、一目見るだけで、貴族だとわかる色合いだった。どんな色がいいかしら、指で空に術式の記号を刻みながら、ダニエルはくるくると色を変え始める。身体変更の魔術はイメージが大切なだけだとダニエルは認識しているが、軽々と行える術ではないことは、魔術を少しでも知る人間ならわかる。
その姿に庭師は目を丸くし、シンシアは溜息をつく。
「お嬢様が優秀な魔術使いとは聞いていましたが、これほどとは……」
「ふふ、ありがとう。魔術のことを褒められるは嬉しいわ」
くるくる。色を変えながらダニエルは記憶の中の少女を思い出していた。
ほどなく、夜がくる。邸宅の前には、ぱっとみた限りでは、裕福な商人の娘に見えなくもない女性が立っていた。
昼間、酒場へのお忍びが決まるなり、領主邸で雇われていたハウスメイドに、少しだけ多めのお金を握らせて衣装の調達をお願いすると、うきうきしたように町へ繰り出していった。用意してくれたのは、丈が長く腰から足までのラインを上品に拾う、マーメイドラインのワンピース。肩まわりの布も少し心もとないが、それは手持ちの地味な色合いのショールで隠す。
ダニエルはお忍び、という言葉と、久々に推しに会えるどきどきで、胸が高鳴っていた。
「くれぐれもお嬢様から目を離さないようにお願いしますね」
そうシンシアが護衛についてくれる騎士に何度も念を押す。口を開くたびに念を押す彼女に、最初は真面目に頷いていた騎士も、辟易としている様子がわかった。
「その酒場に行って、歌を聞いたら帰る、ということでよろしいのですよね?」
「ええ、それ以上のことはしなくて構いません」
できれば一言くらい会話を交わしたいと思っているダニエルも、ここでその言葉を発すれば、このお忍び自体がなくなってしまいそうな侍女シンシアの勢いに押されてしまう。ダニエルは護衛の騎士とともに、家で保管する中でも、一番格の低い馬車に乗り込んだ。
夕刻を過ぎ、ぽつぽつと灯るのは、ここ数年で広まりつつある魔術式の灯りだった。油さえ補充しておけば、時間になると一斉に灯り始める。ダニエルの自信作だが、それを知るものはほとんどいない。利権よりも即座に広めることを選んだダニエルによって、王家の魔術師が発明して権利を国へ売ったことになっている。
「着きましたよ、お嬢様」
「ありがとう。私は商家の娘で、貴方はワガママなお嬢様に振り回されるお父様の執事見習い、って雰囲気でいけばいいのよね」
「庭師の話によると、お嬢様が会いたがってる歌のお嬢さんは、早めの時間帯に歌って、残りは給仕を手伝っているってことなので」
騎士の言葉を耳に入れながら、ダニエルは彼が酒場の扉を開けるのを待つ。扉が開くと、アルコールと煙草の匂いが一気に肺をいっぱいにしてむせそうになるのを、既のところでこらえた。
慣れたような足取りで、カウンターの方向へ向かっていく騎士の後ろをついていく。辺りを見渡すと、まだ幾分か早い時間もかかわらず、テーブル席はほとんど埋まっていた。少しだけ高い椅子に腰をかけると、目の前には、王城へ通っていた中で、綺麗な女性を見慣れたダニエルであっても一瞬息を呑む、目を惹く女性がいた。彼女が、噂の女亭主なのだろう。
敷居の高い店、と聞いていたが、なるほど、雰囲気はダニエルが想像していた荒くれ者が集う酒場というよりかは、前の世界にいたときのスナックのような雰囲気だった。客が談笑しながら酒を嗜み、笑う店。
カウンター席で注文をする騎士の言葉に、何も異を唱えることなく待っていると、果実の飲み物が運ばれてきた。ダニエルは、香りをかぐと、甘酸っぱい柑橘で満たされ、思わず笑みがこぼれた。
「お嬢さんのお口に合うかどうか」
注文を受けて手際よく飲み物を用意してくれた、目の前の女亭主はぶっきらぼうに言う。その目線はダニエルの本来の姿を見据えているようにまっすぐで、思わず視線をそらしてしまう。
「お嬢さんたっての希望でね。歌を聞きにきたのさ」
そんな視線に気付いたのか、騎士はダニエルを庇うように女亭主に話しかける。その言葉に彼女は少し驚いたように眉をあげると、そんな噂をされるくらいになったんだね、まあゆっくりしていきな、と他の客のもとへ向かった。
ほどなくして、店内の灯りが少しだけ落とされる。ポツンと、店内の片隅に少しだけあった空間に灯りが集まっていく。
来る、そうダニエルは思った。胸の鼓動が早く、耳元も熱い。
カツン、と酒場を歩く靴音がする。カツン、カツン。数回響いた音が止まる。灯りを集めた空間に現れた少女は、ダニエルが記憶を取り戻す前に見かけた少女に間違いなく、そして、前世で心の限りを尽くして応援していた推しのアイドルに、瓜二つだった。
「今日もありがとう」
想定はしていたが、見かけだけでなく、声まで一緒ダニエルでは息を呑む。一気に目元に熱さが集まった気がして、ダニエルは勢いよく瞬きをする。そうでもしないと、涙がこぼれて、前が見えなくなりそうだったからだ。
「最近、また新しい曲をつくってみたの。少しの時間だけど一緒に過ごそうね」
そういって歌い始める黒髪の少女から、ダニエルは目が離せない。耳にはなじまない曲を、知っている顔と声が、歌い上げる。大好きな時間。この声を、歌を、表情を、ダニエルは大勢の人に知って欲しかった。
歌の時間はあっという間だった。ダニエルは周りを気にすることなく、思いっきり拍手をする。この場の誰よりも、大きな音で。手の痛みすら気にせず、それは、また会えた推しに似た少女への感謝だった。
「わ、ありがとう」
そんな思いっきり拍手をするダニエルの姿に気付いたのか、それとも酒場には似つかないダニエルは歌っているときにも気になっていたのか、それは分からない。
黒髪の少女が、ダニエルをしっかりとみて、目を細めて嬉しそうに笑う。
その瞬間、その表情をみたダニエルの心臓は、ドクンと音を立てる。今までも早かったのに、更に早くなる。目元がかっと熱くなるのを止める手段はなかった。
涙腺が壊れたように、ぽろぽろと涙をこぼしながらも、ダニエルは拍手を続ける。嗚咽だけはこぼさないようにして。
「リアでした。このあとも楽しんでね」
カツン、また靴の音がする。その音が、徐々に近づいてくる。先ほどまで歌っていた少女が、ダニエルのもとへと。
それほど広くない店内、少女がダニエルの目の前に到着するのはすぐだった。隣に座る護衛の騎士が、手元を腰のベルトに隠された剣に伸ばす動作が、潤んだ視界越しにみえる。ダニエルは、急いで肩にかけていたショールで目元を拭った。
靴音が止まる。ダニエルが顔を上げると、そこには推しがいた。
「ねえ、あたしの歌、どうだった?」
「だいすきです」
騎士が止める暇もなかった。会話を交わさない、なんて約束はこうなっては意味はない。
ダニエルは、もう止められなかった。前世の想い、もっともっと大きなところで推しの姿を見たかった、そんな想いが膨れ上がってくる。
「この国一番の歌姫になりましょう、わたしが全力で支えます」
ダニエルの口から出た言葉に、息を呑んだのは誰だったか分からない。隣にいた騎士か、少し遠くで様子を見守っていた女亭主か、はたまた酒場で見ない組み合わせの少女二人を物珍しさに見ていた客か。
言葉の意味をどう捉えたのかわからないが、黒髪の少女は、一瞬目を大きくすると、ダニエルのことをじっとみる。暗くて分かりにくくても、ダニエルの目元は拭いきれなかった雫で光っていて、涙を流していたことなど一目瞭然だった。
「それ面白そうね、あたしと、あなたで?」
「ええ、あなたと、わたしで」
「あたし、リア。あなたは?」
黒髪の少女、改めリアの言葉に一瞬ダニエルは詰まる。
家名はここの領地の名前。フルネームを言えば、きっとこのやり取りはなくなってしまう。言えるはずがない。
「……エルです。もし、もし少しでも信じてくれたら、明日正午に、時計塔の下で待っています」
名前を省略した。ダニエルは、清々しい気持ちだった。魔術を学ぶこと以外にやりたいことができた、いやずっとやりたかったことを思い出した、のは初めてだった。
隣で騎士が項垂れるのが見える。それはきっと、今か今かと帰りを待っている侍女の小言が増えることが確定したからだろう。とぼとぼと食事の精算をしている姿が見えた。
明日以降の予定を頭に浮かべる。そもそも、この地に来たのは魔術の研究をしたい、なんて体を被った静養に近いのだ。何をやろうと、ダニエルの自由だろう。今までこの国のために、王家のために費やしてきたのだ。これから先は、自分のために時間を使って何が悪いのだ。
ダニエルの足取りは軽やかだった。
* * *
昨晩、帰った後のメルシエ邸は騒がしかった。護衛の騎士が一連の流れを説明する傍らで発覚した、騒動のもとはダニエルの発言なのだが、最後は彼女のやりたいように、ということでまとまった。
昨晩と同じ変装をし、絶対に必要だと用意された護衛の騎士は付かず離れずの位置で見守ってもらうことにした。約束の十分前には時計塔に着くと、そわそわしたようにダニエルは周囲を見渡す。数分後、視界にさらさらとした黒髪が目に入った。
「本当に来てくれるとは思いませんでした」
「あなたが待ってるって言ったんじゃない」
とりあえず来たわ、そう言って陽の光の下で見る前世の推しに似た少女、改め、リアは、ダニエルにとって眩しかった。思わず二、三歩後ろへ下がってしまう。距離感が慣れなかった。
集合した時計塔、その近辺には噴水やベンチ等もあり、町中でも多くの人が談笑する場所として活用されていた。ダニエルとリアは、日陰のベンチに腰かける。
「それはそうですが、だって、私、自分で言うのもおかしいかもしれませんがだいぶ怪しかったでしょう?」
「まあね。でも、あたしの歌を聴いて泣いてくれる人のことを信じなくて、これからどうやって歌えばいいのよ」
リアの言葉はまっすぐダニエルに届く。
「それに、ママが言うんだもの。あの人は大丈夫、お金もあるだろうから悪いようにはならないって」
「お金もある、それは、また……そんなに率直でいいのかわかりませんが……」
リアがママというのは、昨晩会った女亭主のことだろうとダニエルは思う。お金がある、というのはどこで分かったのかわからないが、あの射抜くような視線で夜の酒場の世界を生き抜いてきたのなら、見透かされていてもおかしくないのかもしれない。
「それで、エルだっけ? 何か見込みがあっての発言なの?」
「……まず、あなたのことを聞かせてください。どうして歌っているんですか?」
衝動、なんて言えるはずがなかった。しかし、変わらずダニエルの心を動かしたリアの歌声を、何とかして大勢の人に届けたい一心での台詞だった。
幸い、今のダニエルには立場もあれば、学もあり、財力もある。侯爵家の令嬢であり、次期王妃候補として最後の二人まで残った実績もある。幼い頃から両親がダニエルが自由に使えるように、と渡してくれていた金品はほぼ手つかずのまま残っている。
「あたし、歌が好きなんだよね」
「はい」
「歌を歌うのも、新しい歌を考えるのも、好きなの。歌う瞬間だけは、いつも自分の気持ちのままでいられるから」
「昨日聞いた歌、とても素敵でした」
「そう? ふふ、ありがとう。昨日から褒められてばかりだわ。今はママのところで働くかわりに、部屋借りててさ。それに歌わせてもらっているから」
「優しいのですね」
「そうでしょ? 自慢のママなの。まあ、まだ三年くらいの付き合いなんだけど」
ベンチに座った足をバタバタと動かしながら、リアは言葉を重ねていく。
「まあ、とにかく、歌が好きなのよ。歌うのも好きだし、聞いてもらうのも好き。好きだから、歌で生きていけたらいいな、とは思ってるんだけど。そんなの夢物語じゃない?」
「そう、でしょうか?」
「そうよ。歌にお金を払ってくれる人なんてそうそういないよ。飲み物代くらいのお小遣いをくれるお客さんはいたけど、それはきっとママの手前だったからだし」
「リアさんは、」
「リアでいいわよ。それにエルの方がきっと年も上でしょう? あたし十七くらいよ、たぶん。詳しい年齢はわからないけれども」
「……リアは、歌で生きていきたいのですね」
ダニエルの言葉に頷くと、リアは笑う。それは、ひたすらに眩しい笑顔だったが、途端に影が落ちる。現実を知る少女の顔だと、ダニエルは感じた。
「まあ、歌を聴いてお腹がいっぱいになるわけでもないし、歌に対してお金を払って、結果的に自分の懐が潤うわけでもない。むしろ減っていくだけなのよ」
「そうでしょうか? 私は、リアの歌にはお金を払う価値があると思いましたが」
「それは、きっとあなたに余裕があるからよ。今日きた理由のひとつ。お昼ごはんくらいご馳走してくれるんでしょう?」
「それは、勿論かまいませんが……」
うまく会話をはぐらかされたような気がして、ダニエルは気を引き締めた。
「なら、働かざるもの食うべからずです」
「は?」
「ここで、歌ってください」
「ここで?」
「そうです、ここで。聴いてもらいましょう、少しだけお手伝いします。声が広場に響くように」
ダニエルはくるくると、空に文字を書く。術式……? いやでも何も持たないで魔術なんてできるの……? そう呟くリアの言葉と驚いたような視線を一旦無視した。
「歌ってください、あなたの歌を」
「そんな急に言わないでよ!」
そう言ったリアの声が、周りに響き渡る。自分の声の大きさにびっくりしたようにリアは口を覆う、その目元は何をしたの? とありありと語っていた。
「ちょっとした魔術です。リアの周りだけ空気の形を変えました……まあ、これはおいておきましょう。なんでもいいので歌ってください、あなたの声を届けましょう?」
ダニエルの言葉に覚悟を決めたように、リアは一瞬目を瞑った。一息おいて、目を開くと、声に音を乗せ始めた。
それは、昨日初めて会ったときにも聞いた歌。
最初は少しだけ不安そうに、それでも、声が響くことが楽しくなってきたのか、その表情は生き生きとしたものに変わっていた。
時計塔の下の広場の面々も、急に流れてきた大きな声に、視線を奪われ始めていた。
なんだろうといいたげな訝しげな視線の数々も、歌を歌っているだけと気付き始める。反応は様々だった。足を止める者、一瞬目を遣るもそのまま通り過ぎていく者、近くのベンチに座りながら身体を揺するもの。
そんな聴衆に呼応するように、リアの歌声は伸びていく。
小さな女の子が、とことこと寄ってくる。大丈夫かというような母親の目線に気付いたダニエルは頷くと、少女をリアの目の前に連れて行った。
少女に微笑みかけるようにリアは一度目線を合わせる。歌が楽しいのか、手をパチパチと叩く少女の頭をリアは歌いながら優しく撫でた。
間もなく、歌は終わる。ぱちぱち、とまばらだが拍手が聞こえる。リアの目の前の少女は、思いっきり手を叩いていた。
「おねえちゃん、とっても、おうたがじょうずなのね!」
「あ、ありがと……」
目の前の少女をみて、少し照れたようにリアは返す。周囲を見渡すと、うまかったよー、いいもんみれたなあ、そんな言葉すら飛んでくる。
「私は、あなたの歌がすきです。あなたの歌を、もっともっと多くの人に聴いてもらいたいと思っています」
ダニエルは空に文字を書く。リアの周りで作動させていた魔術を解除すると、そう伝える。
「作戦を立てましょう。まずは……そうですね、曲を知ってもらいましょう。歌詞カードを作って配ります」
「歌詞を? カードにするの?」
「そうです。知ってもらいましょう、リアの曲を。歌詞をきちんと教えてください。私が用意します。そうですね、一週間……あればできるでしょうか」
「だって、そんなの、お金もかかるわ。紙を用意して、文字を書くだけでも大変なのに! それを配るなんて。きっとたくさん作るってことでしょう? あたし、エルに渡せるものなんて何もないのよ!?」
「構いません。私が勝手にやるだけですから」
慌てふためくリアを横目に、ダニエルは脳内でどんな歌詞カードにしようか考え始める。どうせなら何か術式を組み込んで、渡す人を驚かせたい。何か、あるだろうか。
「ねえ、どうしてそこまでしてくれるの?」
本当に不思議そうに、リアがダニエルに問う。
わたし、あなたが推しなんです。そんな言葉をぐっと飲み込んでダニエルは笑う。推し、なんて概念はこの世界にはないし、言ったとしても伝わらないのは分かっていたからだ。
「言ったでしょう。この国一番の歌姫になりましょう、って。それが私の夢になったからです。あなたの歌を聞いてすぐに」
目を大きく開くリア。そんな驚いたような表情を見るのは前世を通しても、初めてかもしれない。
信じてくれたら、また一週間後。同じ時間に、ここで。そう約束して、ダニエルはリアに食べたいものを聞く。約束のお昼ごはんをご馳走するためだった。
働かざるもの食うべからず、なんて言ったものの、リアの歌声を間近で聞けた喜びに包まれていたダニエルはご機嫌だった。
新しい挑戦に向かって胸がいっぱいだったダニエルは、まだ気付いていない。リアの目元には、うっすらと雫が浮かんでいたことを。
それを隠すように急いで拭って「美味しいパンが食べられるお店を知っているの、少しお高めなんだけれども。まあ、あなたなら大丈夫よね?」と早口で誤魔化す少女の顔が真っ赤に染まっていたことを。
初投稿です。よろしくお願いします。




