京洛御伽草子(きょうらくおとぎそうし) さへのかみを祀りたる家に訪ふものどもありて
ある夕暮れ。
つるべ落としと言われるほど、陽はあっという間に山々の向こうに吸い込まれて、夜の帳が一枚また一枚と重なって、綾目も見えぬ闇と為る。
ほとほと、と村境の家の戸が鳴った。野盗とて収支が合わぬと足を向けないような、街道から奥まった、忘れられたような村だ。風の音かと思ったが、隙間だらけのあばら屋のこと、囲炉裏の火は揺るがぬし、肌にも気配はない。訝し気に家人は目を見かわした。
「----申し、申し、」
もう一度戸が叩かれた。同時に子どもの声が、呼びかけてきた。
「申し、申し----お願いしたいことがございます。少しで良いので戸を開けてはいただけませんか」
狐狸かと疑いながらも、上品な物言いに興味を引かれて、心張り棒をすぐに嵌め直せるように片手で押さえつつ、細く戸を開けた。
夜の匂いが、ふ、と鼻先を撫ぜる。闇を裂いて細く伸びた明かりに、眩しそうに目を細める子どもが一人。着古してはいるが、品のよさそうな童装束を纏い、垂髪にした、六、七歳ばかりの男の子だ。
「ありがとうございます。」
旅の埃を浴びてはいるが、やはりこの辺りの子どもとは一線を画する様子だ。
「ど、どうしたんだね?」
やはり狐狸のたぐいかと訝しみながら応じると、童子は自らの背後を気にする素振りをしながら、
「連れが足を痛めて難儀しております。これから次の宿に向かうのはとても難しく、今夜はこの村の片隅で宿らせてはいただけないでしょうか?」
村の子供にはとてもできない流暢な口上だが、武家や貴族の子どもと思えば、おかしくはない。
----狐狸かも知れないけれど。
まだ、その疑いは消えない。
「それは大変だな。」
家人たちは顔を見合わせた。
「内で休ませてほしいわけではありません。」
童子は必死に言葉を重ねる。
「廂のかげでも、牛小屋の片隅でも、どこでも構いません。ただ、足を冷やす水を桶に一ついただければ・・、」
美麗な面立ちで、涙を含めば、哀れな気持ちはわき上がるというものだ。
「入れておやりよ。」
奥で見守っていた老女が、もぐもぐと歯のない口を動かした。
「だけど、この子はひとりじゃないんだ。」
心張り棒を握りしめたまま、家人は同時に問うた。
「何人連れだい?」
「母とわたしだけです。」
「て、ことはおっかさんが足を痛めたのかい?」
「はい。寝静まる前にたどり着きたくて、わたしが先行して参りました。」
「・・・本当に二人きりかい?」
そのあたりの村の子では決してない。供がいないなど、あるのだろうか。
「…父が無くなり、京での生活が立ち行かなくなりました。母の父、祖父を頼っていく途中なのです。」
戦続きの世の中だ。今日栄えた家も明日には滅びる。
悄然と項垂れた童子に、子どもをいじめるんじゃないよ、とばかりの圧が心張り棒を持つ家人の背にぶつかる。
「…ぁ…子…ゃ…、」
夜の闇を伝わるように、遠くからよばう声が(正確には気配が)した。
童子は嬉しそうに半身振り返って、
「こちらにいます!」
と、叫んだ。
「吾子や。」
闇のあちらでも、声の主が麗人であると疑えない、艶やかな声だ。
「我はそちらに入って良いのかえ?」
「母御前、」
童子は戸の向こうに立つ家人を見た。切った言葉に察したのであろう母親が、後を引き受けた。
「申し。どうか、その陰の軒先で構いませぬので、どうか一夜の宿りをお許しくださいませんか? 足の悪い妾のために、子もそうとうに疲れております。どうか、お情けをいただけませんか?」
いかにも弱り切った声に、哀れを催さぬ者はいなかった。
「----坊や、おっかさんを連れてきな。」
心張り棒から手を放して、家人は戸を大きく開いた。童子は顔を輝かせた。それは、本当に嬉しそうな、安堵の表情だった。
「村に入れていただけるのですね!?」
「ああ。何もないが、夜露をしのげる屋根くらいはある。」
「ありがとうございます! 母御前、お許しが出ましたよ。どうぞ、こちらへお出でください!」
童子はとても礼儀正しく、そして弾むような足取りで闇の中に駆け込んでいった。母親を迎えに行ったのだ。とても微笑ましい様である----あるのだが、言いようのない不安が、ひたり、と胸の内に最初の波を打ち付けた。
「申し、」
と、深く濃くなった闇の中、白い面が浮かび上がった。
ぞくり、と背筋が震えたのは、きっと、見たこともない、艶やかな色気を塗した美貌に圧倒されたせい、だ。
その顔が、戸口から延びる灯りの縁へと近づいてくる----近くなっても、恐ろしく整った顔だ。闇から引き抜いたような黒髪が顔を縁どっている。
ひたり…ひたり…不安の波が胸内を洗いながら水位をあげていく。冷たさで胸がいっぱいになって、ぶるりと体が震えた。
悪寒。
その造作を、もっと眺めていたと思うのと裏腹に、体はじり、と戸口から下がっていた。
「今晩は本当に良い夜になりそうですこと、」
ずるりずるり、という重い何かを引きずる音。ああ、足を痛めているといっていたか。
顔が近づいてくる。
美しい、顔が。
かおに相応しいからだを思い浮かべながら、首へ、そしてその下へ----、
「!?!?」
ほっそりした白い首は想像のまま。
しかし、喉ぼとけの位置から黄色く色を変えて、つづく筈の肩はなく、胸もなく----、太い筒のようなものに続いている。
おおよその人が持っている生理的な嫌悪感が全身を貫いて、家人の喉から絶叫が迸る。
鎌首をあげ攻撃するために体を持ち上げたような姿勢の、鱗に覆われた丸太のような腹。
顔は、美しい女の貌。
闇の中から、じゅるり、と濡れた音を立てて伸びてきた尾が、ぐるりとひとの身体を巻き取った。
「よし、よく頑張った。」
己の結界の中で、ぐずくず泣いている童子を膝をついて慰めていた少年は、傍らに立ち、遠視をしていた今回の(も)相方が、ふと、嫌なことに気づいたとばかりに頬を歪めたのに気付いた。
「依頼は達成だが、」
「うん、」
「----引き上げるか?」
恐怖の悲鳴が続いている。
「さら蛇ひとりで、あの村の全部を食い尽くせるわけないし、招いたから入られてしまった。ちょっと痛い目を見た、ということで、」
二人、目を合わせた。
年の近さと後ろ盾がないのと術の相性がいい----ことから始まって、いまや十分に「親しい」。
「気づいちまった・・気がする。」
安堵で放心状態になった童子だが、守ってくれる相手と判ったのか、片手は少年の袖を固く握っている。
「子ども一人取り返すのにわたしたち二人を派遣して、手間のわりに報酬はまあまあだと思ったが、」
あやかしに攫われた子どもを取り戻す依頼で、ついでにあやかしを倒した----ということにしたい。つまり、
「安く上げたい、と。」
あやかしに攫われた子どもを取り戻し、攫ったあやかしは後顧の憂いないように始末する、という文脈なら、報酬は倍以上になる。
「遠出ができない、という足元を見やがって。血も涙もないな、あの山姥。」
相方は、ち、と舌打して、忌々し気に吐き捨てた。
では気づかないことにして、引き揚げればいいというものでもなく。
「味をしめたアレは同じことをするんじゃねぇ?」
その逆の手で、少年はがしがしと頭を掻いた。
「また子どもが攫われたら、山姥・・もとい白鶴さまは、おれたちを呼びつけて言うだろうさ。お前たちが先の時にちゃんとして来ないからだよ! いや、依頼は子どもを見つけて無事に連れ帰ることでしたよね? 何言っているんだい、攫った相手をそのままにしたら子どもも親も安心できないじゃないか。いや、だったらそう言ってもらわないと。そんな指示待ちの気持ちじゃ、一人前になれないよ。ほら、さっさと行って子どもを無事に取り返してくるんだよ。勿論、攫ったのも二度とそうする気にならないようにするんだからね? 半端な仕事をするなんて悪いうわさが立ったら、どうしてくれるんだい? 鬼市の信用に関わるんだ。それから、今回の件は前のお前たちの不手際のせいだから報酬はなしだよ!! ほーほっほほ!」
声色をあてながら、臨場感たっぷりに(途中ではっきりもういいという顔をした相方は無視して)演じ分けてみせたのである。
尾で締め上げて気絶した家人の喉元に齧りついた。
絶命させないよう気を付けて、ゆっくり血を吸い上げる。まずは喉を潤して、それからゆっくり肉を噛みしめるのだ。
子どもが一番おいしいのだけれど、この家には大人ばかりだった。しかし、とりあえず、コレはその中でも若いし、歯ごたえがありそうだから、上出来だ。
他の家人たちか泡を喰って逃げ出していったが、全員喰えるわけでもないから、そう慌てなくてもいいのに。
逃げたひとが、刀とか弓を持った多くのひとを連れてくるまでには、経験上、コレを食い尽くすのに十分な時がある。
それでも、いつもなら、もう一人くらい喰っておこうかと気が急くものだが、
「あの子は逃げてしまったかね? 次の子は、まずどこかの木にくくりつけて、長く使って、最後は喰ってしまおうねぇ」
先が二つに割れた舌。蛇の特徴だ。
蛇のあやかしはあまた存在るが、彼女は「さら蛇」と呼ばれる種族だと自覚している。
首から上を人間の女に変化させる、大蛇のあやかし----いや、女で、体を蛇に変化させるのか? それは彼女にも分からない。ただ、そういうふうに、在る。
むかしはもっと楽に、けものと同じにひとも喰えたと言われるけれど、彼女には昔語りだ。
「・・こんな上手くいくなんて、」
彼女は浮かれていた。そして、世間知らずだった。
ちろちろと血を味わっていた舌先に鋭い痛みが走った。何、と目を瞠った時には、ひとの身体を巻いていた尾が切り離されて、宙に飛ぶのを見た。
青黒い血しぶきと、追って痛みがやってくる。
「イ、い、いったーいッ、」
腕はないから、尾が落ちれば、当然獲物は地面だ。
ソレを見下ろして、何が起きたのかと漸く周囲を見渡して。
「イ、いやッ、なんで!?」
「一つ聞こう。境のまじないを破るために。七つのうちの子どもを遣って、己を招かせた。知恵を付けられたのか、知恵を付けたのか?」
成人の声ではない、もっと年若いそれだが、ずしりとした威圧をもって響いた。
ごく粗末な身なり。彼女と真っすぐに目が合うくらいの、まだ育ちざかりだろう、どこか不均衡な体躯。ただの庶人の子どもなのに、その右手には太刀を携えている。
環頭のある柄。長さは三尺余り。武士たちの腰の太刀とは違い、反りのない、真っすぐな造りの太刀の刃身は、目映いばかりの白い光を放つ。
「し、知らない、」
光に体を竦ませながらも、僅かに目が泳いだ。
もう十分だとばかりに、青白い火花を散らす太刀が蛇に向く。蛇に睨まれた蛙ならぬ蛇だが、何とか後ずさろうと身じろぐが、傍目には痙攣のように小さく震えただけ。
そうして。
----あたかも満月が落ちた様にその家のあたりが輝いたのに、おっとり刀で駆け付けた村びとたちは、闇に戻ったなかに虫の息で横たわっている家人を見つけて、この夜の顛末は幕が引かれたのだった。
◇
◇
◇
「編者不詳・成立不明『鎌倉異聞』」
建久の頃とかや、女の面に蛇の体なるあやかし、はかりごとして、村に差し入る。
さへのかみ祀りてある家に、夜半、訪ふものあり。もとはあてなるやうすの、年七つばかりの男の子と母、一夜やどらむと請ふ。いとほしと思ひて、「入りたまふ」とのたまふ。禍を招くことだまなり。時交はさず、身を蛇に変じたる女、境を越えて、ひとを喰わんとす。
されど神仏のよすがありてか、たまさかに年若き行者、行きかかりて、女なる蛇を調伏す。望月をあまた合わせたるばかりの光りとなむ言いける。
かくて、さへのかみを祀り直し、固く戒め合うこと限りなし。
【現代語訳】
建久の頃であったか、「さへのかみ(境の神)」をお祀りしている家に、夜中、訪ねてきた者があった。元々は身分がありそうな、七つばかりの男の子と母親は、一晩村に泊めてほしいという。かわいそうだと思って、「入りなさい」と言ってしまった。これはわざわいを招く言葉であり、すぐに女は蛇に姿を変えて、村の境を越えてきて、人を喰おうとした。
しかし、神仏の御加護か、たまたま年若い行者が通りかかって、女であった蛇をうち倒した。それは満月を幾つも合わせたような光をもってであったという。
その後、村は再び「さへのかみ」を祀り直して、以後はこのようなことが起こらぬようお互いを気を付け合うことにした。
お読みいただきありがとうございます。あけのが引き取られた直後ぐらいの、黎と麻生の「お仕事たいへんだよ」編でした。
古文(調)の文にてこずりまして、一週間、消したり書いたりしてました。大目にみてください。