糸切屋 〜ご不用になった縁、回収します【短編ver】
◇◇◇
悪縁、因縁、腐れ縁……お困りの縁はありませんか?
ご不用になった縁を、無料で回収いたします!
この機会にいらない縁を処分して、人生を軽やかに!
どんな縁でもスッパリ断ち切る 糸切屋 へ
お気軽にご相談ください!
あなたとのご縁、お待ちしております。
糸切屋 MATSU
TEL:070ー×××ー×××
◇◇◇
「実は今日、30歳の誕生日なんだ」
長年片想いをしている彼に、そう告げたのは3か月前のこと。
私はいま、憧れのウェディングドレスをきて、バージンロードを歩いている。
赤い絨毯の先では、白いタキシードをきたイケメンが甘く微笑む。
参列者の視線に応えながら、ゆっくりと赤い道を進む。
今日は私の結婚式。
涙で潤む瞳すら、世界一幸せで完璧な花嫁に見えているだろうか。
「愛することを誓いますか?」
誓いのキスが迫る―――――――こうして、私は長い長い片想いから卒業した。
◇
彼に出会ったのは小学生になって間もない頃。
「だいじょうぶ?」
お気に入りの傘が見当たらず下駄箱でオロオロしていた私に、声をかけてくれた優しい少年。
彼を一目見た瞬間、恋に落ちた。
雷に打たれたように、生まれて初めてこれが恋だと、理屈抜きで理解した。
それから小学校の6年間、バレンタインデーがくるたび彼に手作りチョコレートを渡した。
照れくさくてドキドキして、人生で一番恋が楽しかった時期。
「こーゆーの、もういらないから」
小学校最後の年、彼にそっぽを向いて拒絶された。
たぶん、これが最初の失恋。
中学へあがり、同じくらいの目線だった彼はサッカー部へ入ると身長がぐんぐん伸び、すぐに彼女ができた。綺麗で大人っぽい子。
ここで諦めればいいのに、気が付くと、教室の窓からグランドで走る彼の姿を探していた。
私は小さな窓から、広がっていく彼の世界をこっそりと追い続けた。
同じ高校に入り、クラスも同じだったときは飛び上がるくらいうれしかった。
「高崎さんも同じクラスか」
声変わりをした堅い声に、心臓が跳ねる。
苗字を呼ばれただけでうれしくて、毎晩寝る前に思い出してはニヤニヤしていたっけ。
メイクを勉強して、ダイエットを頑張って、彼と対等に話せる自信をつけようとしたけど、やっぱり彼の前では上手くしゃべれなくて。
それでも時々みんなでカラオケに行ったり、仲のいいクラスメートの一人にはなれた。でも。
「伊藤くんと付き合うことになった~!」
彼を好きなのは私だけではなかった。
彼女が変わるたび、どこかホッとしている醜い自分。
恋人といる彼を、友人という安全地帯で見つめ続けて高校生活を終えた。
そのままエスカレートで大学に進み、同じ学科の先輩に初めて告白された。
こんな私を好きになる人がいるなんて思わなくて、純粋に驚いた。私の「好き」は、彼以外に持ったことのない感情だったから。
私は小賢しく、彼の気持ちを測るチャンスだと相談をするフリで、彼に探りを入れる。
「あのね、先輩から付き合おうって言われちゃった」
「へぇ、良かったな!」
彼の明るい返答に、愚かな企みが失敗したことを悟る。
彼を忘れるために、先輩と付き合い始めた。
だけど何をしていても、満たされることはなかった。
漫画のように、身体を繋げたら愛情が生まれるかと思ったけど、痛いだけだった。
それどころか、先輩から向けられる好意を自分の彼への気持ちと比べて、どこか見下していた。
そのうち、先輩とは自然消滅した。
成人式のあと、久しぶりに小学校の同級生たちとお茶をする。
「伊藤くんと同じ大学だったよねー?」
「うん」
彼の名前が出るだけで、ドキッとする。
「そういや美咲、伊藤君に毎年バレンタインあげてたよね!もしかしてまだ好きとか?」
「えっ……」
「さすがにもうそれはないでしょ!小学生のころ、伊藤君モテたもんね~。私も実は好きだったよ」
「クラスの女子みんな好きだったんじゃない?足速い子って昔からモテるよね」
「アハハ、なつかしー」
昔話として盛り上がる皆のなかで、心が冷える。
いまでも初恋を引きづっているのは私だけ?初めて疑問に思った。
甘く優しい初恋が、いつしか自分でも制御ができない執着になっていると気づいた。
『好きな人を忘れる方法』
スマホで検索する。
"嫌なところを書き出す"
運動に夢中になって眼鏡をよく壊す、恋人と長続きしない、でも、結局そんなの気にならない。
"自分磨きをする"
資格の勉強に打ち込んだ。合格したとき、真っ先に彼に報告した。
"新しい恋をする"
いろんな人に会ったけれど彼に一目ぼれしたときの衝撃も胸の高鳴りも、他の人には感じなかった。
"時間が経つのを待つ"
大学を卒業して、就職すると集まることも減り。三年経ち、五年経ち、彼と会うことはなくなった。
やがて30を目前にして、同期も後輩も駆け込むように結婚していく。
「今日の結婚式、泣けちゃったね」
「美咲先輩は予定ないんですかぁ?絶対綺麗ですよ!」
「ないない!」
後輩の質問を笑い飛ばす。
不思議と結婚への焦りがないのは、今の仕事が楽しいおかげかもしれない。
あれから彼氏はできないけれど、自分のご機嫌の取り方だって知ってるし、今の自分のことはそれなりに気に入っている。
時々、街中でサッカーの中継が目に入るたび、似た人とすれ違うたび、彼を想うことはあるけれど。穏やかな日々の中で、このまま時間が忘れさせてくれると思っていた。
思っていたのに。
「あれ、高崎さん」
結婚式の帰り道、彼に再会したのはただの偶然か運命か。
夢にまで見た堅い声で呼ばれ、全身の細胞が泡立つ。
同じく結婚式帰りなのかスーツを着た彼は、すこし痩せてスマートな青年になっていた。
「伊藤くん」
掠れた声で、彼の名前を呼ぶ。
彼を目にした瞬間、本能が、この人がいい、この人が好きだと暴れ出す。
彼に会わずにいた日々が嘘だったように、胸が高鳴る。
「久しぶりだな。だいじょうぶ?ぼーっとして。飲みすぎか?」
「ううん、びっくりしただけ!あの、せっかくだからお茶でも行かない?」
彼は、少年のころと同じ顔で笑った。カフェのカウンターで彼の隣に座り、友人を装う。
彼のそばにいるために培った、恋心の隠し方は身体が覚えていた。
「伊藤君は、最近どう?」
「フリーでエンジニアやってる。毎日体力勝負だよ」
「サッカーで鍛えてきた甲斐があったね!」
「あはは」
お互いの仕事の話をツマミに盛り上がり、大学時代の仲間を交えて時々飲むようになった。
今さら恋愛に発展することはないと分かっていても、約束のある日は胸が弾む。
奮発したクリームで髪や体をいたわり、何を着ようかネットショッピングで寝不足になる日々。
こんな気持ちはいつ以来だろう。
その日は、友人たちが急用で来られなくなり、たまたま2人きりだった。
オシャレなバルで向かい合い、白ワインで乾杯する。
「小学校の同級生だった田中くん、覚えてる?今度結婚するんだって」
「最近、結婚式多いよなー」
「伊藤くんは、結婚の予定とかないの?」
「今のところはね。このままじゃご祝儀回収できないな」
冗談めかして笑う彼に、お酒の力もあって、ついつい気が大きくなる。
「実は今日、わたし30歳の誕生日なんだ。このままお互い独身だったら、結婚しよっか?」
一世一代の告白を、酔いにまかせて言ってみる。
「いやいや、高崎ならその気になればすぐできるよ」
下唇を舐めるのは彼が少し困ったときのクセで。
大人になった彼に、優しく突き放された。
目の前のワイングラスには、歪んだ顔をした女が映っていた。
(浮かれてバカみたいーーーーーー!)
その日は酒を飲みすぎ、タクシーに乗せられ帰宅する。
マンションの扉を開けると足がもつれ、今朝ポストから出したチラシが床に散らばる。
「さいあく」
冷たいフローリングに、黄色いチラシが目に入る。
「縁、断ち切ります……?なにこれー!アハハ、あたしにピッタリじゃん!!」
衝動的に、チラシの番号に電話をかけていた。
この恋心を、だれか止めて。
私が暴走する前に。
◇
翌日、二日酔いで痛む頭を押さえて指定された場所に向かうと、閑静な住宅街にひっそりとたたずむカフェを見つける。
(どうしよう、酔っぱらって電話しちゃったけど怪しすぎる。普段なら絶対来ないのに!)
でも今はこの恋を忘れるためなら、神頼みでもしたい気分だ。
やけくそでカフェの扉を押す。ノスタルジックな雰囲気な店内に、思わず感嘆の声をあげてしまう。
女性客でそこそこ混雑していたが、扉のベルの音に気づいた店員さんに声をかけられる。
「お待ちしておりました、高崎様ですね!」
大学生くらいだろうか、可愛らしい少女の素朴な笑顔に、ほっとする。
どうぞと案内された2階の応接室のソファには、すでに白いシャツを着た青年が座っていた。
「縁切りのご相談とのこと、お待ちしておりました」
立ち上がると驚くほどスタイルがよく、顔立ちも整っている。
「糸切屋のアマカワです」
「アマカワ、さん?」
「天の川と書いて、天川です」
名刺をもらい、席をすすめられ向かいのソファに腰掛たものの、どうすべきか。
「すみません、このチラシを見てきたんですけど」
「チラシ?」
「これです」
握りしめていた黄色いチラシを見せると、天川さんはソファにもたれ、ため息をついた。
「また勝手なことを…」
「あら、こっちが本業なのにあなた全然やる気がないんだもの!」
先ほどのカフェの女の子が、コーヒーが3つのったお盆を器用に片手で持ち、部屋へ戻ってきた。
隣に腰掛けると、にっこり笑う。
「さてと、糸切屋にご依頼ありがとうございます!チラシが目に留まったということは、高崎様とはご縁があったということですね!」
「はぁ」
「それで、本日はどんなお悩みですか?!」
少女はカフェのオーダーよろしくニコニコと気安く笑う。
「あの私、この縁切り、っていうのががよくわかっていないんですけど」
「そうですね。『袖振り合うも他生の縁』なんて言葉、ご存じですか?」
首を振る私をみて、天川さんは言葉を続ける。
「袖がふれあう、つまり見知らぬ人と道ですれ違うのも前世からの縁であるという意味なのですが。まぁ人と人はあらゆる縁で結ばれていて、どんなささいなこともすべて縁であるということですね」
「運命の赤い糸とかも?」
「はい、それも縁のひとつですね。縁には本来、良し悪しはないのですが、人同士には相性があるためねじれたりこじれたりします」
天川さんは、指先で見えない糸を宙で手繰り寄せ、上品に笑う。
「わたくしたち糸切屋は、縁をほどいて断ち切るのが得意な集団です。そうですね、人間関係の始末屋とでも思っていただけたら」
「はぁ」
天川さんの話はオカルトっぽいが、妙な説得力がある。
「それではまず、こちらに相談内容のご記入をお願いしまぁす!」
はつらつとした少女と優雅な紳士の組合せはチグハグだが、ラーメン屋の熟練夫婦のように上手くかみ合っている。
少女の圧に押し切られ、渡されたクリップボードに記入していく。
●縁切りの対象者名 :伊藤 優人 (30歳)
●対象者とのご関係:
えっと、関係。小学生のときからの友人かな。
友人。そうなんだよな。
客観的にみた関係性にため息をつき、次の項目に目をみはる。
●切りたい縁: 家庭 仕事 恋愛 友人 全部
「この、切りたい縁の『全部』ってなんですか……?」
「全部です。生まれる前から定められた縁も含めて、今世ですべての縁を切ります。安心して輪廻転生できますよ」
天川さんはユーモラスにチョキチョキとハサミで切る真似をするが、なんだかちょっと怖い気がする。
悩んだ末に、恋愛に丸をつける。
「ご記入ありがとうございます。今回はこちらの方との恋の縁切りでよろしいですね?」
マツダさんに丁寧に確認され、なぜか笑いが込み上げてしまう。
「フフフ。振られても、他に彼女がいても、諦められないんです。好きで好きで、仕方ないんです」
「左様ですか」
天川さんの淡々とした対応に、ずっと誰にも言えなかった想いを吐き出す。
「小学生の頃から20年以上片想いしてるんです。30歳になっても初恋引きずってるなんておかしいでしょ?こんなの、ストーカーですよね~」
笑い飛ばしたいのに、なぜか涙が出てくる。
どうして彼じゃなきゃダメなんだろう。
何度考えても、そんなの分からない。
「忘れようと、恋人をつくったり自分磨きをしたり色々しました。嫌なところも全部言えます!」
「そうですか」
「彼自身が気づいてないクセまで、知ってるんです」
「それはそれは」
「もういっそ壁に頭を打ちつけて、記憶喪失になるしかないかと!」
「高崎様の場合、幼少期からの人格形成にも影響していますから記憶をいじるのはおすすめしませんね」
冗談めかした言葉に、真顔で返される。
え、いじれるの……?
ドン引きする私を横目に、天川さんは書類を確認すると、小さく頷いた。
「かしこまりました。お客様が二度と伊藤様へ恋焦がれることのないよう、完璧な縁切りをお約束します」
「彼への気持ち、本当になくなるんですか?」
「えぇ。この上なく徹底的に誠心誠意コミットさせていただきますのでご安心を」
コーヒーに大量の砂糖をかきまぜていた少女も横で相槌をうつ。
「うんうん、すっきりしましょ!無料ですし、まぁものは試しってことで!」
二人に言われるまま、私は契約書にサインしていた。
一週間後、郊外の森の中にある小さな教会に呼び出される。
「とっても素敵な場所ですけど、ここは?」
「あなたの縁に決着をつける舞台ですよ」
「は?」
「このチャペルで、結婚式をあげましょう」
天川さんの優雅な微笑みに、首をひねる。
「結婚式?」
「卒恋式、といった方がよろしいですか?」
「すみません、全然話が読めないんですけど」
「高崎様には、こちらで花嫁として結婚式を挙げていただきます」
「私がっ?!だ、だれと?!」
「そちらはご心配なく。こちらの招待状を伊藤様へ」
天川さんは、純白の封筒を胸元から取り出す。
「えーと、つまり彼の前で偽装結婚でもしたら諦めがつくってことですか?」
「フフフ。最後にあなたの美しい花嫁姿を、伊藤様に見せたくありませんか?」
綺麗な顔をした悪魔のささやきは、とても魅力的で。
欲求に抗えず、私は小さくうなづいた。
「そうと決まれば、最高の花嫁さんになっちゃいましょ~~!!」
少女が次々と予約を入れていく。
エステ、美容院、まつげサロン……本物の結婚式のように大金をかけ磨き上げられていく。
結婚式が近づくにつれ、女として艶が増し、美しくなっていくのが分かる。
彼に送った結婚式の招待状は、参加に丸がついて返ってきた。
「あの、彼と共通の友人たちも呼んじゃったんですけど、本当に無料でいいんですか?」
「ハイ!その代わりご不用になった縁はこちらで回収させていただきますので!」
「はぁ」
少女のはつらつとした笑顔を見る限り、新手の詐欺でもなさそうだ。
そしていよいよ結婚式当日――――
「伊藤様、到着されましたよ!」
「ありがとうございます」
「良い式にしましょうね!」
控室でスタッフさながら腕まくりをして張り切っている少女をみて、思わず和む。
「永遠の愛を誓う場所なのに、なんだか不純な動機で恥ずかしいわ」
「ちゃんと純愛ですよぉ!美咲さんの花嫁姿、とってもきれいだし~!」
たしかに豪奢なドレスを着て、鏡に映った自分は我ながら上出来だ。
ただの偽装結婚式なのに、過去最高の自分を彼に見せられると思うだけで、うっかり心が弾んでしまう。
(ほんとに忘れられるのかな)
少し不安になっていると、控室の扉がノックされ、天川さんが白いタキシードを着た青年を連れてくる。
「今日は彼が新郎役を務めます」
「カイトでっす、よろしくー」
軽く自己紹介をしたのは、まるでドラマに出てきそうな華やかなイケメンだ。
貴公子のような天川さんと並ぶと壮観である。見惚れていると天川さんの切れ長の瞳と目が合う。
「高崎様。誓いのキスまでは、耐えてくださいね?」
「え?は、はい」
「それでは、そろそろ参りましょうか」
読めない顔で上品に笑う天川さんにエスコートされ、小さなチャペルの扉が開く。
「美咲、おめでとー!」
「美咲先輩、きれー!!」
バージンロードを歩くたびに降り注ぐ友人たちの賞賛が、こそばゆくも誇らしい。
参列席の端に座る彼を見つけ、心臓が跳ねる。
(どう?今日の私は)
彼に向って、今までの人生で一番美しく、とびきり綺麗に微笑む。
そして彼と目が合った瞬間――――――身体が固まった。
(ッ!!!)
祝福する彼をみて、驚愕の悲鳴を飲み込む。
彼が私を見る目は、まるで。
(どうしてそんな他人をみるような―――)
にこやかな彼の瞳には、嫉妬どころか、少しの熱もなく。
(いつから?ちがう、ずっとそう、だった―――?)
突然世界が反転したかのように、感覚が麻痺する。
そのとき
チョッキン!
糸が切れる小気味よい音が、耳元で響いた。
(どうして気づかなかったの)
彼が私に恋していないなんて、ずっと分かってた。
いや分かっているつもりだった。
拒絶されても、恋人ができても、好きだった。
それは、心の奥底で、無意識に、ずっと期待していたのだ。
いつか私の良さに気付いてもらえる
彼を一番理解しているのは私だから
最後には私のところに来てくれる
王子様が目を覚まして、私を迎えに来てくれると、どこかで信じていたのだ。
彼の優しさに勝手に希望を見出していたのだ。
今、この瞬間までは。
(彼の物語に、私は存在しない――――)
自分が主人公になって、やっとわかった。
彼は私の王子様じゃない。
私の人生で、彼は唯一人の最愛だった。
彼の人生で、私は何者でもなかった。
通行人、傍観者、そうーーただの友人。
(私は彼を好きだけど、彼は私のことを好きじゃない)
頭では理解していたはずの、当たり前の事実が、現実として腹の底へ落ちてくる。
自分のおこがましさに反吐が出そうだ。
震える足取りで祭壇へゆっくり歩く。
涙をこらえる私は、幸せな花嫁に見えているだろうか?
「誓いのキスを」
呆然としたまま先ほどの新郎役の青年に手を引かれ祭壇に上ると、目の前に顔が迫ってくる。
唇が触れそうになった瞬間―――――
「ちょぉおおっと、まったぁあああ!」
ドレスアップした少女が、バァンと勢いよく開いた扉から乱入してくる。
「あなた!そんな男と結婚しちゃダメよっ!」
「は?」
「こいつは山に捨ててくるからっ!!」
参列者に動揺が走る中、少女は新郎の手を引いてあっという間に連れ去り、私は祭壇に1人残された。
伊藤くんを見ると、心配そうにこちらをみている。
それは、お気に入りの傘をなくした少女を心配していた瞳と同じで。
糸切屋のおかげで、ようやく長い夢から醒めた。
(私は彼の何を見ていたんだろう)
あふれた涙が、失恋のせいか、自分の愚かさのせいかは分からない。
ただ、狂おしいほどの恋心を失い、王子様のいない世界は、すべてがぼやけ色あせて見えた。
◇
「まったく!心から愛した人に祝福される結婚式なんて、悲劇だわ」
「美しい幕引きだろ?」
「その悪趣味どうにかしなさいよ、サディスト!」
少女は天川の背中に怒りの言葉をぶつけ、隣の新郎役の男をどつく。
「あんたは調子乗りすぎ!ほんとにキスしようとしたわねっ」
「姫こわーい!慰めてあげようかと思っただけだよぉ。30過ぎて失恋とか立ち直れないじゃん」
「よけいなお・せ・わ!」
肩をすくめた新郎役の背中を、姫と呼ばれた少女が再びどつく。
「オレ、ああいう恋愛脳って苦手っす。たかが男のためにここまでやるとかー」
「本気で人を好きになると人は愚かになるの。あんたにゃ何回生まれ変わっても分からないわねっ!」
「でもさぁどんだけイイ男かと思ったら、まさかのヒョロヒョロの地味眼鏡!ただのサンクコスト効果かねぇ?」
「サン……効果?なにそれ?」
「今までかけてきた労力や時間がもったいなくて人間関係を手放せなくなるやつです。クズな夫でも、我慢してここまで付き合ってきたんだから今更離婚できない熟年主婦とかいい例っスね」
「フーン。まぁたしかによく長年の想いを手放せたわよね。今回はどうやって引き離したわけ?」
少女の質問に、天川は指揮者がタクトを振るように指を躍らせる。
「境界線を引き直したんだよ」
「境界線?」
「自分と他人の間にある線。彼女、私は彼の嫌なところも理解してるって言ってたろ」
「それは彼女が本当に彼のことを愛してたからでしょ?」
少女が首をかしげると、天川は微笑む。
「違う。自分と他人の境界線が曖昧になっている状態だ。無意識に相手が自分の一部だと思っているから、相手を理解していると思いこむ。そして妙な執着が生まれる」
「彼女、そんな感じはしなかったけど」
「花嫁という現実舞台の主役に引きずりだしたことで、想い人は永遠にその舞台に現れないとようやく幻想から覚めたのさ。住む世界がちがうって強制的に認識させたわけ」
「やっぱりあんた残酷ね」
「まぁ彼の無関心を正しく認知できるかはちょっと賭けだったけど、その点はさすが年季の入った観察眼というべきか」
「女の恋心までうまく利用するとは、さっすが元ナンバーワン!」
「それは前回の話だろ、今はちがう」
新郎役の男に後ろから抱き着かれ、天川は眉をしかめる。
その横にならんだ少女は、冷たい目で聞く。
「それで?縁は回収できたの?」
「あぁ」
少女は天川から見えない糸を受け取る。
目をすがめ、糸を人差し指で撫でる。
「真っすぐな糸ね」
「多少ねじれていたけど、おかげで切りやすかったよ」
「一途だったのね、いいものが織れそうだわ」
男の返答に満足そうに笑い、くるくると手首に巻き付けた。
「問題は彼のほうだね。百以上の赤銅色の濁った糸が伸びていた。参列者の中にも彼のことを想う者が何人かいたようだね」
「そんなに!?すごい数っすね」
「うん、一種の魔性だね。彼に少しでも好意を持つと、縁が巻き付き無条件に引き込まれる。会った瞬間に運命の人だと思い込んでしまう」
「あの眼鏡、何者ですか?」
新郎役が興味津々で尋ねると、少女がさくらんぼのような唇をとがらせる。
「うーん、前世はとても人気のある花魁だったみたいね」
「情念縁が幾重にも巻き付いていたのは、前世魅了された人々のものだな。今世でも縁が絡みやすいのはそれゆえだろうね」
「せっかく地味な男性に生まれ変わったというのに因果なものね」
「あれでは今世でも長生きできないだろうね」
「あらあら」
なんの憐みもこもらない声で少女が肩をすくめる。
「そんなに不要な縁があったなら、もう少しもらってきたらよかったわね」
「そうですよ!今回だって、言われた通りの状況をつくるの大変だったんすから~!!」
「あのね。縁は、本人が切りたいと心から望んだときしか切ってはいけないんだよ」
天川は皮肉げに唇をゆがめ、高級車の後部座席のドアを開け、少女に手を差し伸べる。
「あといくつ縁を集めたら、願いは叶うのかしらね」
少女は男の手をとり、大きな瞳で端正な顔を見つめた。
「もっと効率よくやらなきゃ、また私に殺されちゃうわよ?」
「せいぜい今世では頑張りますよ、お姫様」
天川は誰もが見惚れるような優雅さで、恭しく礼をした。
暑いので、水分補給をぜひ