第8章 隠し神4
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鉄錆の混じった臭いが鼻腔を突いた時、僕は何故かその臭いを懐かしいと思ってしまった。
不快な臭いである筈なのに。
臓腑の奥を抉り取られるような臭いの筈なのに。
何度か垣間見た光景を、臭いが呼び起こす。
「……ん」
瞼を開かなくても分かる。
何故ならその場所には何度も来ていたから。
あまりにも懐かしい臭い。
決していい香りとは言い難いものだが、それでもその臭いを嗅ぐと不思議と心が静まっていくのが分かる。〝アレ〟と出くわすことさえなければ、此処は心地良い。
疎ましく思う人もいない。
叱られることも、陰口を叩かれることもない。
静かで、独りでいられる時間。
僕一人だけの〝黄昏色の世界〟――。
初めて訪れた時は驚いた。
偶然なのか、呼ばれたのか、自ら赴いたのか。
どれほど数奇な運命が折り重なればそうなるのか。
それすら記憶は霧のように曖昧だった。
――そう、だ。
僕は、この光景を見た。
黄昏色に染まった世界を……誰もいないこの寂しい世界の中に、一人立っていた。
――いたい……。
何処からともなく、声が聞こえた。
それは〝あの時〟と同じ声。
――にくい……。
また、声が響いた。
それは誰かを妬む怨嗟の声。
今だから、解る。
それは僕の胸の内に宿る感情をそのまま言葉にしていたのだ、と。
ザクリと、見えない傷が心に奔る。
隠していた感情を、目を背けていた本心を、この世界が抉り出す。
痛かった――心が。
憎かった――家族が。
辛かった――全てが。
妬ましかった――世界が。
〝忌み子〟として僕を産み落とした何もかもが憎くて仕方なかった。
ただその感情を素直に受け止めきれないまま、自分自身が抱いた感情がどんなモノであったのかさえ理解が及ばぬまま……〝アレ〟を喚んでしまった。
純粋な悪意は純粋なまま。
無差別に、慈悲もなく、意味もなく、意義もなく喰らう存在を喚んでしまった。
それが結果として、よりいっそう自分自身の首を絞めることになるというのに……。
「れん、此処から出るんだ……!」
僕の手を引いてくれたのはただ一人――兄のこうだ。
僕を捜しに来たのだと急いた口調で話す兄は、今まで見たことのない表情をしていた。
「行こう」
そう言って僕の手を引きながら、先を歩く。
大きな背中を見上げながら、漠然と思う。
もう、無理だと。
もう、手遅れだと。
そう――薄ら嗤いを浮かべながら後ろを着いて歩いていく。
果ての見えない出口まで……黄昏色の世界に二人分の影を落としながら。
どれくらい走っただろう。
どれくらい経っただろう。
「出口だ」
不意にそう呟いた兄の声に僕は俯いていた顔を上げた。
顔を見なくても判る安堵した声。そして僕の身体を出口へと進ませようとしたその時だった。
「……!」
「兄様、ごめんなさい」
僕は兄の手を振り払った。
ずっと、僕の後ろをしたたかに着いてきていた〝アレ〟が動いたのが判ったから。
このままでは、兄を巻き込んでしまう。
大好きな兄を。
尊敬している兄を。
家族や使用人の皆から求められている兄を。
それなら僕一人がいなくなればいいと、幼心ながらそんな思いを抱きつつ突き放した。
「ばいばい」
――そうして、僕は取り返しのつかない過ちを犯した。




