日々を彩る、恋愛短篇。—新橋色—
少し投稿に間が空きましたが、恋愛短篇新作です。
前作に評価をつけてくださった方、ありがとうございます。
ぜひ、今回も最後までお読みください。
「新橋色、っていうらしいよ」
彼女が手に取ったスカートを見ながら、俺は気付けば蘊蓄を垂れていた。
「新橋?って、あの、東京の?」
「そう。明治の末期くらいから、新橋で流行り始めたんだって。そういう鮮やかな水色が」
裾からウエスト部分に近付けば近づくほどに細かくタックの入った、艶のあるスカート。リボンや刺繍といった装飾は一切なく、ごくシンプルなつくりのものだ。とはいえ、色が色だけに、選んだのが俺の母だったなら、若づくりだと止めただろう。しかし、目の前にいる彼女が身に着けるのなら、むしろスカートが地味に見えてくる。
「へえ。たまちゃんは物知りなのね。私、ターコイズブルーだと思ってたわ」
壁に設置された姿見を向いてスカートを合わせながら、彼女はそう答えた。俺は、むっとしていつもより低い声で文句をつける。
「たまちゃんはやめろって。俺、もう来月から大学生だぞ」
そして、少し間を空けて付け足した。
「……ターコイズブルーでいいんじゃねぇの。そっちの方が覚えやすいなら」
「ううん、新橋色って呼ぶことにするわ。その方が賢く見えそう。それに、折角たまちゃんが教えてくれたんだもの」
実年齢よりもずっと幼いその顔に花のような笑みを咲かせ、半分に折りたたんだスカートをカゴへと放り込む。そして、カットソーの並ぶ棚の影へと吸い込まれていった。
——まだ、買い物には時間がかかりそうだ。
スマホの画面をタップする。14:47。これは、休憩のコーヒータイムを挟んでさらに付き合わされるパターンだろう。ため息をつきつつ、表示された数字の向こうの画像を見る。
彼女に半ば無理やり設定させられた家族写真。中学の入学式で撮ったもので、黄色いリボンを腕につけ、酷い顔色で不機嫌そうに眉をひそめている俺と、それを挟むように笑って立っている父と彼女——義母。棚の奥でカットソーを吟味する彼女は、画面の奥の笑顔と何ら変わらない。
俺は、スマホを尻ポケットに入れると、壁にもたれて目を閉じた。
◇ ◇ ◇
「父さんが、結婚を考えている相手なんだ」
母がいた頃とは比べ物にならないほどに荒れたゴミだらけのテーブルを挟み、少し緊張した面持ちで頭を下げたのは、どう見ても20代前半の女だった。
実母が家を出て行ったのは、小学5年生の秋。俺からしたら寝耳に水だったが、父と母は何度も2人で話を重ねていたらしかった。離婚理由は、性格の不一致。どこまでもぼんやりとして、曖昧で、都合のいいありきたりな理由。その奥に父が、そして母が、どんな思いを抱えていたのか、俺は未だに知らない。
荷物をまとめ、出て行くとき、母は一言だけ俺に言った。
「ごめんなさい」
ごめん、と思うのなら、連れ出してほしかった。傍を離れないでほしかった。今になって考えてみれば、パートしかしていなかった母の稼ぎで俺を養っていくなんて、無理だったのだろう。それでも、まだ心も体も子供だった俺は、俺を見捨てた母を憎んだし、母を引き留められなかった父を憎んだ。
父が彼女を連れてきたのは、そんな風に母が玄関から出て行って、1年も経たない頃だった。
「……好きにすれば」
俺は言った。
「再婚も同居も父さんの勝手だよ。むしろ、なんでわざわざ紹介なんてすんの?母さんが出て行く前、父さんも母さんも、何も言ってくれなかったじゃん。そうやって、ずっと身勝手にやってればいいだろ」
大きな音を立てて椅子から立ち上がる俺を見て、彼女は小さく「あっ」と声を漏らした。何か言いたげな目だった。でも、俺はすぐに踵を返して、自分の部屋へと閉じこもった。
父と彼女は、寂しそうな、そして困ったような表情を浮かべるだけだった。
部屋で、俺はコンビニのビニール袋に向かって吐き続けた。
気持ち悪い。どちらからアピールしたかは知らないが、あんなに若い女が、父を受け入れたことも。逆に、父があんなに若い女を好いたことも。
始まりかけていた反抗期と、同級生伝いに少しずつ耳に入るようになってきた性的な話題がフラッシュバックしたことも重なって、俺は頭の中も胃の中もぐちゃぐちゃで気持ち悪くなって、たった1人で、泣きながら、嘔吐を繰り返した。
父と母との間で、夫婦としての愛情が薄れていったのは仕方のないことだと思う。2人は歳をとってから婚活サイトを通じて出会い、デートの回数もそこそこに籍を入れた。そもそも、最初から愛情なんてなかったのかもしれない。世間の目や体裁を気にして夫婦という形だけ手に入れ、子供という「家族」を装う道具を作り、何とか最低限の関係だけを取り繕っていた。幼い頃の2人の記憶はすっかりなくなってしまったけれど、物心ついたころには、母は黙々と家のことをしていたし、父は帰ってからも自室で仕事をしているような人だった。こんな2人の間に俺が生まれたこと自体、奇跡だと思った方がいい。
それでも俺は母が好きだった。見捨てたことへの恨みは消えなくとも、俺に注いでくれた愛情だけは本物だった——そう思っているから。母はよく俺に笑いかけたし、俺を叱ったし、俺のことで泣いてくれた。「父の妻」としてどうだったかは知らないが、「俺の母」としては、その役目を全うしてくれていたと思う。
だからこそ、父が簡単に新しい女に心を許したことに、激しい嫌悪感を抱いたのだ。
数週間後、一切態度を変えなかった俺に痺れを切らした父は、強行突破に出た。彼女を家に住まわせ始めたのである。
彼女は、父と同じ会社で働いているらしく、昼間はフルタイムで働きながらも、掃除、洗濯、料理全て当たり前のようにこなした。父の方が残業が多いとはいえ、そもそも共働きなのに彼女が全てを担っているのは意味が分からなかったが、俺が口出しすることはなかった。大方、家庭的な面をアピールして父に近付いたのだろう。父は管理職でまあまあ高給取りだったから、金目当てかもしれない。——そんなことすらも、どうでもよかった。
俺は、彼女が作ったものは一切口にしなかったし、俺の服を彼女に触らせることは絶対になかった。勝手にしろとは言ったが、俺自身が彼女と打ち解け合うつもりはさらさらなかった。俺は、父とも彼女とも、一言も口をきかず、目すら合わせず、自分の身の回りのことは自力でするようになった。
少しして、俺は中学校の入学式を迎えた。両親との関係は最悪のまま。それでも我が子の晴れ姿を見たいと、父は母と連れ立って保護者席に座る。入退場時に2人の姿は見えたけれど、俺は決してそちらに顔を向けなかった。反対に、ドアの影や保護者席の端の方に目をやり、いるはずのない実母の姿を、ずっと探していた。
各学級での終礼も終わり、小学校からの友人と生徒玄関を出たとき。校門の、紅白の紙でできた花で彩られた看板近くに、2人が佇んでいるのが見えた。
「……あれ、環のお父さんだよね。隣は?」
友人は、実母が出て行ったことを知っていたから、少し困惑の表情を見せた。ここで、彼女のことを話し、俺がいかに2人に対して嫌悪感を抱いているか、友人に訴えてもよかった。だが、家庭のいざこざなんて、そう簡単に外で話すものではない。まして、幸せそうな家族の姿があちらこちらに見えるこんな日、こんな場所で。
酷い作り笑いだったと思う。それでも俺は無理やり口角を上げ、答えた。
「新しい母さん。待ってるみたいだから、俺、行くわ」
「あ、ちょっと、環!」
友人は引き留めようとしていたけれど、俺はそれを振り切って校門へ走った。これ以上笑顔のフリを続けていれば、また吐きそうだ——そう思った。
駆け寄ってくる息子の姿が意外だったのか、父は大きく目を見開き、校門付近で下校を誘導してた1人の教師に、どこか嬉しそうにスマホを渡した。写真を撮ってくれ、と、そう言っているようだった。——嫌だ。いっそこのままスルーして帰ってやろうか。でも、新しい学校に来て早々悪目立ちしたくはない。それなら、1発で写真を終わらせて、さっさと1人で帰った方がいい。
快く撮影役を引き受けた教師は、俺に何度も「ほら、笑顔笑顔!」と呼びかけながら、数枚連続でシャッターを切った。最後の2・3枚は、両親に、俺の肩に手を置くように言った。営業職の癖に、職人のように分厚くてごつごつした父の手と、少し冷たくて柔らかい彼女の小さな手が、そっと肩に乗る。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い——。
1回、カシャッと音がした——その瞬間、俺は一目散に走り出した。もう無理だ。眩暈がする。吐きそう。ひとつ角を曲がり、人目がなくなったところで、膝から崩れ落ちた。
「——環くんっ!」
俺の名を呼んだのは、確かに彼女だった。その小さな体のどこにそんな脚力を隠し持っていたのか、体調が悪かったとはいえそこそこ速い中学生男子の爆走にいとも簡単に追いつき、ザッと目の前に回り込む。そして、一瞬で俺の状態を判断すると、持っていた黒くて小さいカバンを突然逆さまにして振り、中身を全て黒いアスファルトの上にばらまいた。高そうな口紅が側溝の蓋の穴に落ちるのも新型のスマホの画面にひびが入るのも一切気にせず、俺の口元に蓋を開けて空っぽになったカバンを差し出す。
「大丈夫だよ」
彼女の一言で、俺はそのまま彼女のカバンの中に嘔吐した。酸っぱい匂いが鼻をつく。パリッとした新しい学ランに、吐瀉物が跳ねる。
慌てて追ってきた父も、真っ青に血の気が引いた俺の顔を見て、すぐに水の入ったペットボトルを差し出した。背中をさすりながら、「飲むか?」と落ち着いた声で尋ねる父の言葉に、俺は小さく頷き、ペットボトルを受け取った。
水を一口飲んでもう一度吐き、すっかり胃の中身が無くなってから、俺は残りの水でうがいしてやっと正気を取り戻した。へたり込んで深呼吸を繰り返す俺の傍らで、父はタクシーを呼び、母は散らばった荷物をかき集めている。
それをぼんやり眺めていると、彼女は眉を吊り上げ近づいてきた。気圧されて若干のけぞる俺の目の前に座り込み、その小さな口を開く。
「体調悪いなら、無理せず自分で言いなさい!」
彼女から俺に向けてまともに発せられた最初の言葉は、これだった。
「私が嫌いなら嫌いでいい。話したくないなら話さなくていい。でも、体調の心配くらいはさせなさいよ!」
いかにも大人しそうな、ふわふわとした女性だと思っていた彼女から発せられているとは思えないほど強い語気。父は彼女のこの姿を知っていたのか、やれやれ、と苦笑いしてこちらを見ている。俺は、眩暈も気分の悪さもすっかり吹き飛んで、ただ茫然と目の前で激昂している女性を見つめた。
「あのね。環くんが私をどう思っていようと、私はもうきみの母親のつもりなの。きみを守ろうと思ってるし、健やかに育ってほしいと思ってるの。
もちろん、私のせいで環くんの気持ちが不安定になってるのも分かってる。私が来なかったら、きみはきっとお父さんと2人で幸せに暮らしてたわよね。でもね、私はきみのこともひっくるめて、春義さんを……きみのお父さんを支えたかった。それを諦めることは、私にはできないと思うわ。
だから……だからね」
ポケットから、鮮やかな水色のタオルハンカチを取り出し、制服にこびりついた吐瀉物を優しく拭う。——そして。
「私、きみが心を開いてくれるまで待つって決めてるのよ。きみといつか本当の家族になることも、諦めないって決めてるのよ。
だからこれからも、きみが無理したら叱るし、きみが辛そうだったら駆けつけるわ。どんなに鬱陶しがられてもね」
俺は、ぼんやりと彼女の手元に目を落とした。綺麗なハンカチが、みるみるうちに汚れる。入学式で配られた美術の教科書で、この色を見た気がする。名前は確か、新橋色——だったか。その美しい新橋色が、俺の吐瀉物にまみれていく。
「あの……ハンカチ、汚れます」
カバンの中に散々吐いておいて今更何を、と自分でも思ったが、彼女に似合うその色がくすんでいくのが見るに堪えなくて、俺は思わずそう言った。しかし、彼女は手元を見ると、ふふっと声を立てて笑った。
「こんなの、洗えば落ちるわ。それよりも環くんの新しい制服の方が大事でしょ。ハンカチを洗うより、学ランを選択する方がよっぽど大変なんだから」
俺は彼女を誤解していたようだ。彼女は、見た目よりずっと大人で、強かで、現実的だ。父は、若くて綺麗だから彼女を選んだのではなく、こんな人だと知っていたから惚れたのかもしれない。だって、俺を叱るその姿も言葉も、まるで幼い頃見た母のようで——。
「……ありが、とう」
自然と、そう口にしていた。
彼女は少し動きを止めて、ゆっくりと目線を上げて俺の目を見て、それから相好を崩した。愛おしそうに、慈しむように見つめてくるその色素の薄い瞳が、心臓をぎゅっと鷲掴みにしてくる。
俺が薄く口を開こうとしたとき、彼女はパっと立ち上がり、今度は父の方へずかずかと歩み寄った。
「そもそもね、春義さんが、父親としての自覚が足りなさすぎるんです!自分の息子でしょ!?うっかり私につられてないで、貴方はもっと積極的に会話していかなきゃダメじゃないですか!そもそも環くんの体調に気付くのだって遅すぎだし!!」
「ごめん、ごめんって!情けない父親だとは思ってるってば!!」
両手を盾のように広げながら、後ずさりする父。しかしその表情は、困っているというよりはどこか嬉しそうで。
ああ、やっぱり俺は父の息子だ。女の好みまでそっくりだなんて。
彼女は、ひとしきり父に説教した後、自分の荷物は父に任せ、汚れてしまったカバンと新橋色のタオルハンカチを何のためらいもなく抱え、汚れていない手で俺の腕を引いて立たせた。触れた手を拒絶しない俺を見て、再び彼女は白い歯を見せて笑った。
俺はこの瞬間から、自分でも気づかずに、相手は義母、恋敵は実の父という不毛な片想いを始めてしまったのである。
◇ ◇ ◇
「おまたせ、たまちゃん」
レジで会計を済ませてきた彼女が、半分居眠りしながら過去回想していた俺の額を指で弾いた。顔をしかめ、ごくわずかな力でやり返す。
「たまちゃん呼びやめろって。……やっぱりそのスカートにしたんだ」
紙袋から、その鮮やかな水色が覗く。彼女は、まあね、と満足そうに頷く。
あれから、彼女とは徐々に打ち解けていった。彼女のことを知るのは嬉しかったし、彼女に気にかけてもらうのが幸せだった。それが恋心だとはっきり気付く頃には、既に抜け出せないくらい沼にハマってしまっていたのだけれど、それでも構わなかった。彼女が父を深く愛しているのは分かっていたし、そんな彼女もやっぱり好きだったから。
彼女は多分、俺の想いに気付いていると思う。だから、頑なに「たまちゃん」と呼ぶことを止めない。自分は母親で俺は息子であると線引きしているのだ。
「じゃ、行きましょ。今日の晩御飯は何かしら?」
そう言いながら、駐車場に面する扉へと足を向ける。
父は家事に手を出すようになった。「今どき奥さんに家事全部押し付けるのってどうなの?」と父に嫌味を言ったのはいつだったか。追い打ちをかけるように「俺が父さんの代わりをしてやってもいいけど?俺、料理も掃除も得意になったし」と言うと、父は青い顔で首を横に振り、即座に料理動画アプリをインストールしたのだった。
父の座を——彼女のパートナーという座を奪うことは、いつでもできる。いや、できた。これまでは。
俺の高校卒業まではと保留にされていた父と彼女の入籍は、もう目の前だ。俺が大学近くに引っ越して、2人きりの生活が始まると同時に、2人は市役所へ行って籍を入れる。今日は、その記念すべき日のための服選びだった。
「……母さん」
呼び止めると、彼女はふわりと髪をなびかせ振り向いた。「ん?」と、6年前と変わらない愛らし笑みで、こちらを覗き込む。この顔が不満気に眉を顰めたり鬼の形相になったりするのだから面白い。
彼女に近付き、なびいた顔の横の長い髪を掬いあげる。彼女は少し怪訝そうな顔をしたが、黙ってされるがままになっていた。俺は、ポケットから、用意していた髪留めを取り出し、その掬った一束の髪をはさんだ。
「これは?」
スマホのインカメラを利用しながら確認する彼女に、俺は答える。
「健やかに育った息子から、愛する母親へ、結婚祝いのプレゼント。母さんが同じ色のスカートを選んでよかった。きっと、そのスカートと合うよ」
幼稚過ぎない、新橋色のシルクのリボンがついたヘアアクセサリー。俺からこの色を贈るのは、ひとつのけじめのつもりだ。
——父と幸せになってほしいという気持ちと、ほんの少しだけの嫉妬を込めて、サムシングブルーの贈り物を。
「……ありがとう、環。嬉しい。……心から」
そう言う彼女の顔は、まさに「母の顔」だった。その顔で、初めて呼び捨てで名前を呼ばれた——それが最後の決め手。俺が彼女を手に入れることを諦め、彼女を本当の意味で母として愛そうと決心した瞬間。
それはきっと、俺にとって最初で最後の恋。いや、恋なんて名前を付けるのもおこがましい、乾いた心を潤してくれた一滴の水に執着した——その程度の想い。
母を失っていなければ、彼女に出会うことはなかった。母を失っていなければ、その喪失感を埋めてくれたというきっかけだけで惹かれるなんてことはなかった。
でも、俺は彼女に出会ってしまったし、特別な感情を抱いてしまった。
きっと俺は、2人の入籍の日、泣くだろう。彼女が、これまでにない笑顔で婚姻届けにその名前を書き記すのを、純粋な祝福の思いで見届けることはできないだろう。
だから、俺は最後の悪あがきで、彼女を新橋色に染める。
あの色だけは、彼女が俺の心に初めて触れてくれた、2人を繋ぐ色だから。
お読みいただきありがとうございました。
レビュー、評価、とても励みになります。
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現在、パニック物の短篇小説と、異世界ファンタジーものの連載小説を執筆中です。
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