新たな生活様式における、とあるカップルのすれ違いについて
毎日のように顔を合わせているクラスメイトの大半の素顔を、私は知らない。
二年前ほど前から流行した未曾有のウィルスにより、これまでの生活が一変した。慣れというのは不思議なもので、うんざりすることもあるけれど、不自由で窮屈な毎日にも、それなりに順応しつつある。
私が高校に入学したときには、顔の半分をマスクで覆い隠すのがもう当たり前になっていた。仲良くなったクラスの子たちと、初めてお昼ごはんを一緒に食べたとき、正面に座っていた女の子が、マスクを外した私の顔をまじまじと見つめて、言った。
「一花ちゃん、そんなところにホクロあるんだ」
私は鼻の横あたりに、ちょっと大きめのホクロがある。他の女の子たちも私の顔を見て「ほんとだー」と口々に言った。じろじろと無遠慮な視線が突き刺さって、妙な居心地の悪さを感じた。
――ああ、知らなかった。私のホクロ、変なんだ。
当たり前に顔を露出していたときはなんとも思わなかったのに、改めて指摘されると、急に恥ずかしいような気持ちになる。その日は猛スピードでお昼ごはんを食べて、すぐにマスクを付け直した。
家に帰ってから、マスクを外した顔を洗面所の鏡に映して見た。目の大きさや形なんかは、そんなに悪くないと思う。でもよく見ると鼻は丸くてちょっと上向きだし、上唇がやたらと薄いし、歯並びだってそんなに良くない。
何より問題はホクロだ。鼻の横に鎮座する黒いホクロは、存在感がありすぎる。
それからというもの、私は人前でマスクを外すのを極端に嫌がるようになった。お昼ごはんのときも、友達と写真を撮るときも、ずっとつけたままだ。息苦しいときもあったけれど、自分の顔の難を隠してくれるマスクの存在が、私にとってはありがたかった。
塾講師の板書は、学校の先生よりもうんと速い。猛スピードで進んでいく授業に置いていかれないように、私は必死でノートを取り、講師の話を頭に詰め込んでいく。
講師の「じゃあ今日はここまで」という声とともに、私は詰めていた息をはーっと吐き出した。来週は高校の期末テストもあるし、ここで頑張らなければお小遣いが下げられてしまう。
「琴井さんって、手ちっちゃいよな」
突然そう声をかけられて、私はふと隣に視線をやった。黒の学ランを着た男の子が、頬杖をついてじっとこちらを見ている。
声の主は甲斐智樹くん。彼は私と同じ塾に通う、同い歳の男の子だ。
甲斐くんは男子校に通っているらしく、「女子がいる空間って最高! 女子と同じ空気吸ってるってだけで幸せになれる!」なんてことを言いながら、ときおり話しかけてくる。私はどちらかといえば人見知りだし、男の子の友達なんてほとんどいない。けれど、人懐っこい甲斐くんとは話しやすくて、私は彼のことを「ちょっといいな」と思っていた。
「俺の半分ぐらいしかないじゃん。飴のつかみ取りとかするとき、不利だね」
そう言って、甲斐くんはアハハと声を立てて笑う。私は彼のマスク越しの笑顔しか見たことがないけれど、目がきゅっと細くなって結構可愛いと思う。私も笑みを返したけれど、マスクをしているから伝わらなかったかもしれない。
「そんなに小さくないよ。周りにもっとちっちゃい子もいるし……」
「まじ? よっしゃ、じゃあ勝負だ」
彼は自分の右手を広げると、私の目の前にぐいと突き出してくる。おそるおそるてのひらを重ねると、彼は「やっぱちっちぇー」と声をあげた。
「琴井さんの手、なんかいい匂いする」
「な、なんだろう。ハンドクリームかな……」
「なんか美味そうな匂い。母さんがクッキー作るときの匂いだ。俺、この匂い好きだな」
好き、という言葉に、胸がきゅんと高鳴る。バニラの香りのハンドクリームを塗っていてよかった。友達から誕生日プレゼントに貰ったものだけど、同じブランドのものをリピートすることにしよう。
「か、甲斐くんは手大きいね。部活とかやってるの?」
「中学まではバレーやってたよ。今はなんも。塾ないときはバイトばっかしてる。駅前のラーメン屋」
「そうなんだ。私も、ここの近くのパン屋さんでバイトしてるよ」
「まじ? 今度行ってもいい?」
「い、いいよ!」
会話を交わしながらも、二人の手は重なったままだ。恥ずかしいけれど、私から離れるのはちょっと嫌だ。誰もいなくなった講義室で、私たちはぎこちなく互いの手を重ね合わせている。
甲斐くんの手は大きくてごつごつしていて、ちょっと硬い。触れ合っている面積はさほどでもないのに、なんだか心臓がドキドキしてきた。なにせ男の子の手を気軽に触ったことなんて、ほとんどない。
――もうちょっとだけ、触れてみたいな。
私は勇気を出して、彼の手を握りしめた。きゅっと指を絡めると、甲斐くんが「うわっ」と慌てたような声をあげる。みるみるうちに顔の温度が上がったけれど、マスクをしているおかげで、きっと私の頰が赤くなっていることはバレていないはずだ。
「……こ、琴井さん……」
「…………だめ?」
「……ずるい……今の、めっちゃキュンとした……」
甲斐くんの指がゆっくりと折り曲げられて、私の手を握り返してくれる。感触を確かめるように優しく握られて、心臓の鼓動が早くなった。
「うわ、やらか……」
「…………」
「なんか、ぎゅってしたら折れそう……」
「お、折れないよ……」
私が言うと、甲斐くんはほんの少しだけ手に力をこめたようだった。それからこっちを窺うみたいに小首を傾げて、自信なさげな音量で尋ねてくる。
「あのさ、琴井さんさえよかったら、なんだけど……」
「う、うん」
「…………つ、つきあう?」
「……………………つきあう」
こくんと首を縦に振ったわたしに、甲斐くんは「やった!」と嬉しそうに目を細める。繋いだ手をぶんぶんと振りながら、からかうような口調で言った。
「琴井さん、耳真っ赤だ」
しまった。赤くなった耳はマスクでは隠れない。
でも、目の前にいる彼の耳も真っ赤に染まっていることに気付いた私は、「そっちこそ」とやり返した。それから私たちはお互いにマスク越しの顔で笑い合って、手を繋いだまま講義室を出た。
かくして、私――琴井一花に、生まれて初めての恋人ができた。
「腹減ったなー。一花、なんか食って帰らねえ?」
塾が終わると、彼たちはいつも肩を並べて帰路につく。二月の夜は凍てつくような寒さで、私たちはひとつの手袋を分け合って、残りの手をしっかりと繋いだまま歩いていた。小さな私の手は、彼の手にすっぽり覆われてしまう。
「あ、でも一花んち晩飯あるんだっけ」
「ううん。今日はお父さんもお母さんも仕事で遅くなるから、適当に買ってこいって言われてる。智くんとごはん食べたいな」
「まじ? じゃあそこのファミレス行こうぜ」
私たちの交際は順調で、週に二回の塾の日だけでなく、お互いのバイト先に顔を出したり、休日に二人でデートをしたりしている。
彼は私を「一花」と、私は彼を「智くん」と呼ぶようになった。恋人と名前で呼び合うのは、なんだか特別な感じがしてくすぐったくて嬉しい。付き合って二ヶ月が経つ今でも、新鮮な気持ちで毎日ドキドキしている。
ほとんどお互いのことを知らない状態で付き合い始めたけれど、智くんのことを知れば知るほど、私は彼のことを好きになった。彼は「塾では猫かぶってたから、俺の本性知ったら嫌われるかも」なんてことを言っていたけれど、全然そんなことはなかった。明るくて前向きなところも、意外と口が悪くてやんちゃなところも、全部好き。
帰り道にある駅前のファミレスに入った私たちは、四人掛けのボックス席に向かい合って座った。智くんは「何にする?」と言って、メニュー表を差し出してくれる。
彼と食事をするときのメニュー選びは、私にとって一大ミッションである。おなかは空いていたし、海老グラタンあたりをガッツリ食べたい気分ではあったけれど、そういうわけにもいかない。吟味の結果、サンドイッチとオレンジジュースを選んだ。
「一花、そんだけでいいの? 少食だよなー」
智くんの言葉に、私は「うん」と言葉少なに返す。ほんとは全然、少食なんかじゃない。同世代の女の子に比べても、私はよく食べる方だと思う。それでも私は彼の前で、ちゃんとごはんを食べたことがなかった。
ほどなくして、私たちのテーブルにサンドイッチとチーズハンバーグが運ばれてきた。智くんは「いただきます」と言って、つけていたマスクを外す。私はマスクをつけたまま浮かせて、素早くサンドイッチを口に運んだ。こうすれば、顔を見られずに済む。
あっというまにサンドイッチを食べ終えた私は、チーズハンバーグを食べる智くんの顔を見つめる。こうして真正面から彼の素顔を見るのは、初めてじゃない。マスクを外した智くんの顔も、とても素敵だと思う。大きな口をぱかっと開けると、八重歯が覗くところも可愛い。それにひきかえ私ときたら、とまた気分が落ち込んだ。
私は付き合って二ヶ月が経つ今も、彼の前でマスクを外せない。彼に素顔を見られたくないからだ。
マスクをつけた私の顔は、自分で言うのはなんだけれど、まあまあ平均以上に擬態できていると思う。マスクに隠されていない、目や耳なんかのパーツは、そんなに悪くないのだ。
でも、マスクを取ったら全然だめだ。だからきっと、マスクを外した顔を見たら――智くんは、がっかりするに決まっている。
「ごちそうさまでした!」
マスクを付け直した智くんが、両手を合わせて言った。こうしてちゃんと「いただきます」と「ごちそうさま」を言うところも、彼の好きなところのひとつだ。
彼はテーブルに頬杖をつくと、「そういえば」と唐突に切り出した。
「俺の高校の友達が一花に会いたいって言ってんだけど……どうする? 一花が嫌なら全然断るよ」
「えっ。智くんのお友達?」
「あいつら、女に飢えた獣だから……可愛い女子と喋りたくてしゃーないんだよ」
「あ、会うのは全然構わないけど……私可愛くないから、きっとがっかりされると思う」
私が慌てて言うと、智くんは「はあ?」と不満げに唇を尖らせる。
「ちょっとちょっと、俺のカノジョのこと、悪く言うのやめてもらえますー?」
「へっ、いや、あの」
「言っとくけど俺、マジで最初っから一花のこと可愛いと思ってたから! 絶対仲良くなりたくて、隙あらば話しかけてたし! だからあのときぎゅって手握られて、完全に堕ちたね」
当時のことを思い返して、かあっと耳が熱くなる。引っ込み思案な私が、よくあんな大胆なことができたものだと自分でも思う。
きっと、マスクをしていたおかげだ。マスクで顔を隠していなければ――例えば丸い鼻とか、薄い上唇とか、大きなホクロを露わにしていたならば――私は彼に積極的にアプローチなんてできなかった。そもそも、彼に「可愛い」と思ってもらえることなんて絶対になかっただろう。
「でも、他の奴らが一花のこと好きになったら困るなー。一花、学校でもモテるっしょ?」
そんな私の気持ちなどつゆ知らず、智くんはそんなことを言っている。彼は本当にどうかしている。私みたいな地味な女、マスクをしていたってモテるはずがないのに。
「ぜ、全然まったくモテないよ……! みんな、私より可愛い子ばっかりだし」
「え、嘘ぉ? そんなことある? もしかして、アイドル養成学校にでも通ってんの?」
「もう! からかわないで!」
真っ赤になって抗議すると、智くんは「ごめんごめん」と肩を揺らして笑った。
可愛いと言ってもらえるのは嬉しいけど、それと同時に、なんだか彼のことを騙しているような、薄暗い罪悪感を覚える。彼のことを好きになればなるほどそれは大きくなって、胸が押し潰されそうに苦しくなる。
「なんかデザート食いたくなってきたな……なあ一花、ティラミス半分こしよう」
――ごめんね、智くん。私ほんとは、全然可愛い女の子なんがじゃない。
私のことを可愛いと言って笑いかけてくれる彼は、マスクを外した私の素顔をまだ知らない。
*
一花に出逢うまで、俺は男子校に入学したことを全力で後悔していた。
右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても男しかいない。学食のおばちゃん(58)が天使に見え始めた頃、これはやばいぞと俺はさすがに焦った。
とはいえ、出逢いなんてそこらに転がっているものではない。そもそも中学時代から、俺には女友達なんてほとんどいなかった。周りの男どもはみんな女っけがなく、紹介なんてしてもらえるアテはない。バイト先のラーメン屋は、バイト仲間も客も男ばかりだ。俺はこのまま男に囲まれて青春を終えていくのか……なんて諦めかけていた、そのときだった。
夏休み明けの二学期から、俺は学習塾に通い始めた。授業についていけなくなり、ガクッと成績が落ちたからだ。受験に合格して、油断して遊び呆けていたツケが回ってきたのだろう。
塾に足を踏み入れた瞬間、同世代の女子がいる、という事実に俺のテンションは爆上がりした。正直マスクをしているからよくわからなかったのだけれど、どの子もみんな可愛く見える。おかえりなさい、俺の青春。
浮かれた俺が、たまたま最初に話しかけたのが一花だった。他の女子は大抵何人かで群れていたけれど、一花はぽつんと一人で座っていて、声をかけやすかったからだ。最初は、それ以外の理由なんてなかった。
「隣、座ってもいい?」
「うん、どうぞ」
顔を上げた彼女の顔は、マスクで半分隠れていたけれど、瞳がぱっちりと大きくて可愛かった。シャーペンを握る手が小さくて、なんだか無性にドキドキした。
「俺、今日が初めてなんだ。だから全然知り合いもいなくて緊張してる」
「そうなんだ。大丈夫、私なんてもう半年も通ってるのに、いまだにここに友達いないよ」
うわ、声も可愛い。母さんと学食のおばちゃん以外の女子と言葉を交わすのが久しぶりすぎて、俺の心はふわふわと浮き上がった。
それからも俺は、一花と親しくなれないかと虎視眈々とチャンスを狙っていた。彼女に会えると思うと、塾に行くのも全然苦にならなかった。一緒に帰ろう、とか、送っていくよ、とか言ってみようかと何度も思ったけれど、結局勇気がなくてできなかった。
その時点で俺が彼女に抱いていたのは、輪郭のない淡い感情だったけれど、それが恋に変わるのはそんなに難しいことじゃなかった。
小さくて柔らかくて、少しひんやりとした手から、甘い匂いが漂ってきたとき。耳を真っ赤に染めた彼女に、ぎゅっと手を握られたとき。「だめ?」と小首を傾げた彼女の大きな瞳に、自分の間抜けヅラが映っているのを見たとき。
俺はいともたやすく、彼女に恋をした。
上映前のシアターは、オレンジがかった柔らかな照明に照らされている。フカフカの椅子に背中を預けた俺は、彼女の横顔を盗み見た。隣に座った一花は、小さな手でポップコーンをひとつ掴んで、器用にマスクの下に差し込んだ。ほんの一瞬だけ、柔らかそうな唇がマスクの隙間から覗いて、俺の心臓は大きく跳ねる。
……なんだか、見てはいけないものを見てしまったような気がする。
マスクの下の彼女の素顔を、俺はまだ知らない。一花は食事のときも写真のときもビデオ通話をするときも、頑なにマスクを外そうとしないのだ。
「智くん、どうかした?」
ぼうっと見惚れていた俺に、一花は不思議そうに首を傾げた。俺は「なんもない」と答えて正面に向き直り、マスクをずらすと自分のアイスコーヒーのストローを咥える。
俺――甲斐智樹が、琴井一花と付き合い始めてから三ヶ月が経った。
俺たちは勉強やバイトの合間を縫ってデートを繰り返している。今日は映画デートだ。二人が好きな漫画原作のアニメ映画が上映されるとのことで、ずっと前から楽しみにしていた。
一花はおとなしいけれど素直で優しい女の子で、音楽や漫画の趣味も合う。俺のつまらない話にも笑ってくれるし、ふと沈黙が訪れた瞬間にも居心地が悪くならない。
俺は全身全霊で、可愛い彼女がいることの喜びを噛み締めていた。これから一生かけて、世界で一番大事にしよう。
そんな至極順調でハッピーな交際を続けていた俺だったが、最近はひとつの悩みを抱えるようになっていた。
「映画、楽しみだね。原作でも好きな話だったから嬉しいなあ」
「予告見たけど、すげークオリティ高そうだったよな」
「昨日の夜、コミックス読み返して予習してきたの……! あードキドキする」
珍しく興奮気味にはしゃぐ一花が可愛くて、こっそり笑みを溢す。「主題歌も合ってていいんだよなー」なんて雑談に乗じて、椅子の脇に置かれた彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。一花の小さな手は、俺の手に覆われてすっぽりと隠れてしまう。なんだか胸の奥がうずうずする。
チラリと彼女の様子を窺うと、セミロングの髪から覗く耳がほんのり赤くなっていた。そんなところも可愛かったけれど、俺はもう手を握るだけでは満足できなくなっている。
そのときシアターの照明が落とされて、辺りは闇に包まれた。巨大なスクリーンに、近々公開される作品の予告が流れ出す。本編はまだまだ始まらないので、俺は一花の横顔ばかりをじっと見つめていた。
幸いなことに周囲に人はほとんどいないし、おあつらえむきに薄暗い。もしかしてこれはチャンスなのでは、と一瞬身を乗り出しかけて――ぴたりと動きを止めた。
……ダメだ。マスクが邪魔だ。
小さな顔の半分を覆う、大きな白いマスク。ほんの薄っぺらい布一枚だというのに、唇への道のりはあまりにも遠い。この状況で「マスク外して」って言うなんて、キスしたいという下心が丸出しだ。
挙動不審な俺に気付いたのか、こちらを向いた一花がキョトンと瞬きをする。俺は諦めて座席に背中を預けると、こっそり溜息をついた。
一花と付き合い始めてから、はや三ヶ月。俺はそろそろ、彼女とキスがしたい。
二時間の映画を終えたあと、俺たちはカフェで映画の感想を言い合って、一花を家まで送っていくことにした。三月になってもまだ寒さは厳しく、春物らしい薄手のコートを羽織った一花は「失敗したあ」としきりに後悔していた。
しっかりと繋いだ彼女の手は冷たい。もしかすると俺の手が熱いのかもしれない。
彼女の家の近くまで来ても、なんだか離れがたくて、「そこの公園でもうちょっとだけ話そうぜ」と誘ってみた。彼女も「うん!」と頷いてくれた。同じ気持ちでいてくれることが嬉しい。
ホッカイロ代わりに自動販売機でホットミルクティーを買って、ベンチに並んで腰掛ける。西の山の向こうに太陽が沈んでいくにつれて、空の色が淡い紫色に染まっていく。
二人の手を温めるペットボトルのミルクティーは、やたらと甘ったるかった。「飲む?」と差し出してみたけれど、一花は「ううん」とかぶりを振る。もしかしたらマスクを外してくれるかも、という下心があったので、俺は内心がっかりした。
このご時世だし、回し飲みはしたくないのかもしれない。唇を直接くっつけるのはセーフかな、と考える。別に、まだ舌入れたりしないし。
こてん、と小さな頭が、俺の肩に寄りかかってくる。サラサラの黒髪から、ふんわりと甘いシャンプーの匂いが漂ってくる。幸せな重みに酔いしれていると、「ふふ」とくぐもったような笑い声が聞こえてきた。
「……どうしたの?」
「ううん、幸せだなーと思って。……大好きだよ、智くん」
一花はそう言って、へにゃりと眉を下げて笑った。
俺は今このときほど、マスクの存在を呪ったことはない。可愛い彼女のマスク越しではない笑顔を、この目で見てみたい。マスクの向こうにある唇に、今すぐキスしたい。
思わずがしりと彼女の両肩を掴むと、一花の身体が緊張に強張った。マスクの紐にゆっくりと手をかけると、大きな黒い瞳が戸惑ったように揺れる。
「あの、さ……」
「と、ともく」
「……これ、外してもいい?」
ぐい、と彼女のマスクの紐を引く。しんと静まり返った夕暮れの公園に、俺の心臓の音だけが響いている。もう我慢の限界だ。
邪魔な薄い布を剥ぎ取ろうとしたところで、どんっ、と胸を押された。か弱い力だったけれど、一花が俺を突き飛ばそうとしたのだと、一瞬遅れて気付く。
「や、やだ……」
「い、いちか」
「やだ、嫌だよ。絶対むり」
「あ……」
一花は両手を突き出したまま、ふるふると力いっぱい首を横に振った。彼女の黒い瞳に涙が浮かんでいるのを見た瞬間、のぼせていた頭がすうっと冷えていく。それは、誰が見ても明らかな拒絶だった。
「……ご、ごめんなさい、智くん。私、帰るね」
一花は目元を拭って立ち上がると、足早にその場から走り去っていった。ひらひらとしたロングスカートが揺れるのを、俺は呆然と見送ることしかできない。
……キスしたいと思っていたのは俺ばかりで、彼女は全然まったく、そんなことを考えていなかった。
ちょっと焦りすぎたか。いやでももう三ヶ月だぞ。もしかしていざとなったら、やっぱり気持ち悪いと思われたのかな。鼻息とか荒くなってたのかも……。
「……あー、最悪」
がっくりと肩を落として、両手で顔を覆う。そのまますっかり陽が落ちて、辺りが真っ暗になってしまうまで、俺はその場から動けずにいた。
「はー……キスしてえ」
机に頭を預けて呻いた俺の頭に、ゴスッと容赦のない肘鉄が落ちてきた。「イテェ!」と叫んで身体を起こすと、友人である堤瑛介がジト目でこちらを睨みつけていた。
「なんだ、その羨ましすぎる悩みは」
「いや、ほんとに真剣に悩んでんだってば」
「この空間じゃ誰も共感してくれないぞ」
まあ、そりゃたしかに。男子校とはいえ一部のイケメンリア充には彼女がいるものの、俺の周囲はそういうタイプじゃない。俺に可愛い彼女ができたのは、紛れもなくこの世の奇跡である。
昼休みの教室は騒がしく、共学ではとても口にできないような下品な話題もあちこちから聞こえてくる。期末テストを終えて春休みを間近に控え、なんだかみんな浮かれているみたいだ。本来ならば進級を控えしんみりしてもいいところなのかもしれないが、進学コースである俺はクラス替えがない。来年も再来年も、毎日同じメンツで顔を突き合わせなければならないのだ。
「……なあ。みんなどうやってチューしてんの?」
「知らん、俺に聞くな。立派な彼女いない歴十六年だ」
堤は胸を張って答えた。俺だってつい三ヶ月前までは同類だったのだから、堤を馬鹿にすることなどできるはずはない。
「俺、マジでもうフラれるかも……」
「なんだよ。ついこないだまで順調そうだったろ」
「いや、もうヤバいんだって……やらかした」
「なんかあった?」
俺の悩みの深刻さがようやく伝わったのか、ようやく堤が話を聞く体勢になってくれた。
「……こないだデートの帰りにさ。公園で二人きりで、〝智くん大好き〟とか言われてさあ……いい感じになったから、チューしようと思ったんだよ」
「なんだ、惚気か。解散解散。お疲れ様でした」
「待て、待て待て! ここから急転直下だから! とんでもねえ不幸が降りかかるから! もうちょっと聞いて!」
「チッ。続きどうぞ」
「でもさ、キスするならマスク邪魔じゃん。外してもいい? って聞いたら……いきなり突き飛ばされて、やだって泣かれてすげえ拒否られた……」
あのときのことを思い出すだけで、腹の底がじりじりと焦げつくような後悔に苛まれる。
あれから一週間が経ったが、俺と一花のあいだにはなんとなく気まずい空気が漂っており、二人きりになるのをやんわりと避けられているような気がする。
あんなことしなけりゃよかった。いやでも、やっぱり俺はどうしても一花とキスしたい。次にチャンスがあったら、俺はたぶん同じことをしてしまうと思う。
一花が嫌がることは、もちろんしたくないけれど――彼女はキスするのさえ嫌な男と、付き合っていて本当にいいのだろうか。
堤はげんなりした顔をしつつも、ちゃんと俺の話を聞いてくれた。しばらく考え込む様子を見せたあと、ぽつりと呟く。
「甲斐の彼女ってさ、こないだ会ったときずっとマスクつけてたよな」
「へ? ああ、うん」
半月ほど前、堤を含む友人たちと一花を引き合わせたことがある。引っ込み思案な一花は緊張して口数が少なかったけれど、女に飢えた男どもはハイエナのように「女友達紹介して!」と一花に詰め寄っていた。その光景を見た俺は、二度と彼女を友人に会わすまい、と心に決めた。
「メシ食ってるときもずっと外してなかったから、ちょっと気になってて。写真とか見ても、いっつもマスクつけてるし」
「絶対外さねーんだよ。俺も外したとこ見たことない」
「それってさ。甲斐の前でマスク外すの嫌だったんじゃないの?」
「え?」
予想外の指摘に、俺はぽかんと口を開けた。堤は自分のマスクを指差しながら続ける。
「これ、ないと落ち着かなくなってるだろ。高校入ってからの知り合いって、みんなこの状態しか知らないし。マスク外して顔見せるの、嫌じゃない?」
「……俺、あんまり気にしたことなかった……」
たしかに普段はずっとつけたままだけれど、家族や友達の前では普通に外すし、別に素顔を見られてもなんとも思わない。一花は恋人なんだから、なおさらだ。
それでも、一花にとっては違ったのだろうか。俺に、顔を見られたくなかったのだろうか……。
「少なくとも俺は、人前でマスク外すの嫌なんだよな。もはやパンツみたいな感じになってるし。顔パンツ」
「……ってことは俺……無理やり彼女のパンツ脱がそうとして泣かせたってことか……!? なんだそれ、最低じゃねえか……!」
頭を抱えてジタバタと苦しむ俺に、堤のやたらと冷静な声が飛んできた。
「いや、おまえの彼女がどう思ってるかは知らんよ。本人に確認すれば。普通におまえとキスするのが嫌だった可能性もあるし」
容赦のない堤の言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。……うわ、そっちのがだいぶ嫌だな。
*
公園で智くんを突き飛ばしたあの日から、私は彼のことを避け続けている。
智くんにマスクを外されそうになったとき、私の脳裏に浮かんだのはかつてのクラスメイトの言葉だった。そんなところにホクロあるんだ、という笑みを含んだ声。マスクを取った自分の顔は、お世辞にも可愛いとは言えない。
――もし智くんに素顔を見られたら、私はフラれてしまうかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、私は彼を突き飛ばしていた。驚いて目を丸くした彼を見た瞬間、しまったと思ったけれど――それでも私は、逃げるようにその場から立ち去った。
このまま逃げ続けるわけにいかないことぐらい、私だってわかっている。彼だって、付き合っている女の顔ぐらいきちんと確認しておきたいのが心情だろう。
……でももう少しだけ、最期のときを先延ばしにしておきたい。
春休みに入ってから、私は毎日のようにバイトをしていた。制服が可愛いという不純な動機で選んだパン屋のアルバイトも、そろそろ丸一年が経とうとしている。
食べ物を扱う仕事ということもあり、しょっちゅう手に消毒液を吹きかけなければならないので、手荒れがひどくなった。智くんが好きな匂いだと言ってくれたハンドクリームを、近いうちに買い足しておかなければ。
カランコロン、と来客を知らせるドアベルが鳴って、「いらっしゃいませ」と声をかけた。入ってきたお客さんの姿を見て、私ははっと息を飲む。
「と、智くん」
「一花、バイトおつかれー。来ちゃった」
私に向かってひらひらと片手を振ったのは、私服姿の智くんだった。春らしいネイビーのブルゾンを羽織っている。塾で会うときはいつも制服の学ラン姿だから、春物の私服を見るのは初めてだ。やっぱり素敵、とこっそりテンションが上がる。
「バイトの制服、初めて見た! すげえ可愛い」
目元を緩ませながら言った智くんに、私ははにかみつつも「ありがとう」と答えた。バイトの制服であるギンガムチェックのエプロンドレスは、女の子を三割増で可愛く見せると評判だ。これを着て接客していると、お客さんから声をかけられることもたまにある。おそらく、マスクを外せばそんなこともなくなるのだろうけど。
「母さんに明日の朝メシ買って来いって言われてんだ。せっかくだし、可愛い店員さんのオススメ聞こうかな」
「そうだなあ……智くん、明太子好き?」
「好き!」
「明太子フランス、美味しいよ。あとクロワッサンが人気なの。私はクリームパンが一番好き」
「へー、じゃあそれにしよ」
智くんはトングでいくつかパンを掴んでトレイに乗せると、レジに持って行った。会計をしている私に向かって、冗談めかして尋ねてくる。
「店員さん、ほんとに可愛いね。彼氏いるの?」
「……素敵な彼氏がいますよ」
「そうなの? いやあ、店員さんすげえ可愛いから、さぞかっこいい彼氏なんだろうなー」
「もう智くん。こんな茶番やめようよ……」
「店員さん、シフト何時まで? よかったら一緒に帰らない?」
ナンパごっこの延長で、智くんがさらりと言った。ここ最近は彼と二人きりになるのを避けていたけれど、あまりにも自然な流れで誘われたものだから、私も深く考えずに答えていた。
「えーと、あと三十分で終わるよ」
「じゃ、そのへんで時間潰しとく。三十分後に迎えにくるわ。一花、バイトがんばって」
パンの袋を受け取った彼は、軽やかな足取りで店を出て行った。彼の背中が見えなくなってからはっと我に返ったけれど、当然いまさら追いかけることなんてできるはずもなかった。
ギンガムチェックのエプロンドレスを脱いでしまうと、私は三割減で可愛くなくなった。もし智くんに会うことがわかってたら、適当なパーカーとデニムなんか着てこなかったのに。溜息をついて、せめてしっかりとマスクを付け直す。
裏口から外に出ると、智くんがポケットに手を突っ込んで立っていた。「おつかれ」と言った彼に、慌てて駆け寄る。
「ご、ごめんね。待たせちゃった」
「全然待ってねえって」
智くんはそう言って、私の右手をそっと取った。何度「壊れないよ」と言っても、彼はいつもガラス細工でも触るような手つきで私の手を握る。そんな彼の優しさがくすぐったくて、やっぱり好きだな、と思う。
「……公園寄ってく?」
おそるおそる、私の反応を窺うように、智くんが尋ねてきた。夕方の公園に二人きり。彼を突き飛ばしたあのときと、同じようなシチュエーションだ。
私が一言嫌だと言えば、きっと彼は無理強いはしないだろう。それでも、私は「……うん」と小さく頷いた。
いつまでも逃げてはいられない。そろそろ年貢の納めどきだ。私はもう二度と繋げなくなるかもしれない手の温度を記憶に刻みつけるように、ぎゅっと彼の手を握りしめた。
あの日と同じベンチに、私たちは並んで腰を下ろす。三月の日没は真冬よりもうんと遅くなって、六時を過ぎてもまだまだ明るい。
もっと暗くなってくれたら顔を見られずに済むのに、と私は内心歯噛みする。あと一時間ぐらい、なんとかマスクを取らずに引き伸ばせないだろうか……。
「一花」
「はいっ」
名前を呼ばれて、私はしゃんと背筋を伸ばした。智くんはやけに神妙な表情で目を伏せている。しばらく逡巡していたようだったけれど、やがて意を決したように言った。
「……あの、いっこ確認しときたいんだけど」
「う、うん」
「い、一花は……俺とキスすんの嫌?」
不安げにそう尋ねられて、私の口からは「へっ」と間抜けな声が漏れた。
智くんとキスをするのが嫌だなんて、そんなことは全然まったくあり得ない。もしかすると彼を避ける私の態度は、彼にとんでもない誤解を与えていたのだろうか。
「……そ、そんなわけない! 全然、嫌じゃない!」
ぶんぶんと、首が千切れるんじゃないかってぐらいに全力でかぶりを振った私に、智くんは「よかったー……」と心底ほっとしたように息をついた。
私はばかだ。自分のことばっかりで、私の態度で彼を傷つけることなんて、考えもしなかった。突然意味もわからず避けられたら、いくら智くんだって不安になるに決まっている。
「ごめんね……」
私の謝罪に、智くんは「一花が謝ることじゃない!」ときっぱり言ってくれた。そっと私の手に自らの手を重ねて、こちらの顔を覗き込んでくる。なんだかマスクを透かして素顔を見られるような気がして、私は慌てて片手で口許を覆った。
「……あの、一花。もしかして……俺の前でマスク外すのが嫌?」
「えっ」
突然本心を言い当てられて、私は動揺した。何も答えられずにいる私に、彼は続ける。
「いや、その……人によってはマスク外すの、パンツ脱ぐぐらいに恥ずかしい奴もいるって聞いて……一花は、俺に素顔見られるの嫌なのかなって」
「……うん。実は、そうなの」
観念した私は、素直に首を縦に振った。そろそろ終わりのときが近づいているのかもしれない。さっきとは違う意味で、私は「ごめんね」と繰り返した。
「……私、マスクで顔半分隠してるけど……ほんとは全然可愛くないの」
「は? いやいや、そんなわけねえだろ……」
「ほんとなの! 智くんは、私の顔見たことないから……」
自分の意図に反して、じわりと瞳に涙が滲む。しまった、泣いたら余計にブスになってしまう。ゴシゴシと乱暴に目元を擦って、こみ上げてくる熱を必死で飲み込んだ。
「は、鼻の横におっきなホクロあるし……鼻は丸くて上向いてるし、歯並びも良くないし、唇の形も変だし……ま、マスクのおかげで、ブスなところが全部隠れてるの!」
「はあ……」
「……友達にも、笑われたことあるし……自分の顔見せたら、智くんに、き、嫌われるかもしれないって、思って……でも、隠してるのも、ずっと申し訳なくて」
「俺がそんなことで一花のこと嫌いになるなんて、あるわけねえだろ!」
驚くほど強い口調に、私ははっと顔を上げた。私の両肩をしっかりと掴んだ彼は、怒ったような目つきでこちらを見つめている。
「俺、一花のこと、たぶん一花が思ってる以上に好きだよ」
「智くん……」
「そりゃあ最初は女の子と仲良くなれてラッキー、ぐらいの気持ちだったけどさ……今は、一花の声とか手とか仕草とか性格とか、全部可愛いと思うし。マスクの下の顔がどんなんでも、嫌いになったりしないって自信持って言える」
きっぱりと言い切った智くんは、私の頰をマスクの上からそっと撫でてくれた。愛おしむような手つきに、私の胸の奥にぽっと熱がともる。
「でも、一花が嫌なら、無理に外さなくてもいいから。マスク外すの、人前でパンツ脱ぐぐらい嫌っていう奴もいるぐらいだし」
「……ううん」
私は覚悟を決めた。絶対嫌いにならないと言ってくれた、彼の気持ちを信じたい。マスクの紐に両手をかけた私を見て、智くんは慌てたような声を出す。
「い、一花。ほんとにいいのか?」
「だ、大丈夫。わ、私、智くんの前ならパンツ脱げるよ……!」
「いや、別にパンツ脱いでほしいわけじゃないけど……! いや、そりゃいずれはしかるべきタイミングで脱いでほしいけどさ……じゃ、なくて」
「……がっかりされたとしても、智くんには、全部見てほしいから」
私は深呼吸をしてから、ぐっと気合を入れてマスクを取った。マスクの下の素顔を、家族以外の人に見せるのは久しぶりのことだ。顔全体が冷たい外気に晒されて、なんだか落ち着かない。
完全な日没にはまだ早く、オレンジ色の夕陽が私の顔を照らしている。きっと、彼の目にも私の顔が鮮明に映っているはずだ。鼻の横のホクロも、丸い鼻も、薄い上唇も全部。
智くんは私の顔を、呆然と目を見開いたまま見つめていた。いつまで経っても何も言ってくれないので、やっぱり幻滅されたのかもしれない、と不安になる。
永遠にも感じられるような長い長い沈黙のあと、ようやく彼が口を開いた。
「…………か」
「か?」
「……可愛い! え、すげえ可愛いじゃん! びっっっくりしたー!!」
興奮気味に叫んだ智くんが、私の肩を掴んでガクガクと揺さぶってきた。至近距離でじーっと穴の開くほど見つめられて、なんだか居た堪れない気持ちになる。
「え、俺今までこんなに可愛い子と付き合ってたの!? 最高じゃん! 信じらんねー! え、どこが変なの!?」
「ほ、ホクロとか……」
「うわ、ほんとだ! こんなとこにホクロある! エッロ! ちょ、もっと見して!」
「も、もうだめです! おしまい!」
さすがに限界がきた私は、大急ぎでマスクをつけ直した。顔の半分が隠れてしまうとホッとする。智くんは「ああっ……」と残念そうな声を出した。
「いや、ほんとに可愛いじゃん……一花、誰に笑われたの? 俺、そいつのこと三発ぐらいブン殴らないと気が済まねーんだけど……」
「……冷静になってよく考えたら、笑われてはなかったかも、しれない……」
記憶が誇張されていたけれど、きちんと思い出してみれば、彼女にはそんなに馬鹿にしたようなニュアンスはなかったような気がする。ほんとに純粋に、顔にホクロがあることを指摘しただけだったのかも。
「ほら、やっぱり。だって可愛いもん」
「……その。智くんは、嫌いになってない?」
「ならない! むしろ、もっと好きになった!」
智くんは不思議だ。彼の「可愛い」「好き」の言葉だけで、今まで自分を雁字搦めに縛っていたコンプレックスが、いともたやすく解けていく。
「……ありがと、智くん。私も大好き」
素直な気持ちを伝えると、智くんは嬉しそうに「ふへへ」と笑う。どんどん身体の奥から好きが溢れてきて、衝動のままに抱きついた。彼の身体が一瞬強張ったけれど、すぐに背中に腕が回される。耳を押し当てた胸から、心臓の音が聞こえてくる。
「……あー、待って」
「うん?」
「俺もパンツ脱ぐわ」
彼はそう言って、いそいそと自分のマスクを外した。露わになった彼の口元がやたらと色っぽく見えて、なんだか恥ずかしい。目を逸らそうとしたら、顎を掴んでぐいと正面を向かされた。
「えっと、最終確認するけど」
「は、はい」
「俺とキスするのは、ほんとに嫌じゃない?」
「…………うん」
私が首を縦に振るのを確認してから、智くんは私のマスクに手をかける。薄っぺらい布が取り払われた瞬間、ぎゅっときつく目を閉じる。遮るもののなくなった唇に、柔らかなものがぎこちなく押しつけられた。
終