8月のある朝
玄関を開けると、イルカが行き倒れていた。
水平線から太陽が昇る。その出るか出ないかの時間でさえ、すでに熱射になっている八月。体長二メートル半ほどのイルカなんていう思いがけないもの、というよりも地上にいるはずのない生物をふいに目撃すれば、龍宮謙吾の心拍数が、小学生時代の夏休み自由工作のペットボトルロケット発射と同等の勢いで滝登りした結果、衛星軌道上で無酸素状態と同様に何一言も発せられなかったとしても致し方がない。謙吾の背中にジトッとした粘度のある汗が湧いた。目の前のそれがカマイルカなのかハンドウイルカなのか、あるいは別の種なのかの見分けはできなかった。彼はイルカについては門外漢だった。けれども、陸に出てきてしまった海洋生物をこのままにしておくのはよろしくはないと考えが廻っただけ度胸はそれなりである。海に面する集落の一軒と言っても、このイルカが謙吾の家まで辿り着いた方法がいかなるものか、などとは思いはしなかったようだが。そんな謙吾の思案も、
「驚かせたか。すまんな」
停止させられた。唐突に声が聞こえたからである。彼の耳には、それが目下のイルカの口唇から届いたようなのだが、彼がしたことは、辺りをキョロキョロと見回すことであった。絶賛日の出真っ最中である。夏休み恒例の怪奇的な現象には早すぎるし、海外旅行から帰国したばかりでもないので時差ボケでもない。
「何故に、そう挙動不審でいるのだ?」
中性的な声色とともに、のっそりと身を動かし、尾だけで起立している目前のイルカに、謙吾はただただ口をパクパクとさせるのみだった。水槽の中の金魚の方がまだ雄弁である。
そんな謙吾を正気に戻させたのは、
キュ~~~~~~~~~~~~~~~~~
イルカの腹部から発せられた、聞き覚えにしてはやけに長い音だった。
「お前、腹減ってんのか?」
いくら日本語を話すイルカとはいえ、生物である以上その本能には逆らえないようである。怪異な彼岸は存外俗っぽい。見れば、イルカは頬を赤らめている。恥ずかしいという感情があるらしい。
“ドクッ”
胸に勝手に手が触れてしまった。
それよりも。辺りを見回した。恐らく未だ通行人に目撃されてはいないのだろう。いれば、すでに歩道で銅像化しているだろう。このまま外にいられて人目についた場合、一騒動が起こるのは間違いない。となれば、
「入れよ。ここにいられても困る。何かあるもんで……てか、イルカって何食うんだっけ?」
「何でもかまわん。私は何でもいける質でな」
「ヘエ、ソウナンダ」
ひょこひょこと尾鰭で直立歩行をして謙吾について来る、人語を話すイルカへの反応には湿度がなくなった。