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蛇足たる解説

【蛇足たる解説】

 古典芸能には解説が付き物。完全に蛇足なのですので読む必要はございません。

しかし解説を読んで本文を読み直すと、少し本文の趣が変わるかもしれません。


 始めに申しておきますが、私は能楽に詳しい人でもなく全くのド素人です。

 だから能楽の伝統とか口伝とかは、全くわかりません。

 なので、かなり頓珍漢な解説であることを宣言しておきます。

 しかし、全く解説しないのも不親切極まりないので、不肖ではありますが私が解説いたします。ご笑覧くださいませ。


【『井杭(いぐい)』の沿革】

さてこの「いぐい」。大蔵流では「居杭(いぐい)」、和泉流では「井杭(いぐい)」と表記します。

成立、作者は共に不明です。

 その最大の売りは、豊臣秀吉公、徳川家康公、前田利家公による西暦1593年(文禄二年)の「禁中御能」でしょう。そこで御三方は「耳引き」と呼ばれた演目を演じています。日本史上最も豪華な役者をそろえた演目ではないでしょうか。少なくとも官位の高さでは。

 この「耳引」、それは『井杭(いぐい)』か『口真似』のどちらかであろうと考えられているようです。ここでは井杭(いぐい)であるとします。


 配役は、主人公の井杭(いぐい)を秀吉公、有徳人(大蔵流では亭主、和泉流では何某(なにがし)、拙作では旦那)を家康公、算置(さんおき)を利家公が演じている、とのことです。


 イメージしてみて下さい。秀吉公が見えなくてキョロキョロしている家康公。その家康公と胸座を掴みあう利家公。そんな二人を揶揄って遊ぶ秀吉公。

 関ケ原まで後七年程。

 この後の歴史を考えると実に面白いとは思いませんか。


 では拙作の「井杭(いぐい)」の解説に入ります。

 とはいえ、この作品自体の解説は、かの有名な電子百科事典に記載がありますので、変更点のみを解説していきます。


【清水寺の場面について】

 本来の「井杭(いぐい)」にこの場面はありません。井杭(いぐい)が口頭で『いつもいつも、それはもうポカポカ頭を叩かれるから何とかしてくれと清水の観世音にお願いしたら、体が透明になる不思議な頭巾を手に入れた件』と軽く説明するのみです。しかし小説とする場合、この部分にはドラマが必要であろうと思案し付け加えました。




【登場人物の呼称について】

井杭(いぐい)」は主人公であり固有名詞であり作品名なので、そのままです。


 次に拙作における「旦那」についてです。大蔵流では「亭主」、和泉流では「何某(なにがし)」と呼ばれている人物を、何故『旦那』としたかですが、これは演劇と小説の違いですね。

舞台上で誰が誰に話しかけているか明確な演劇に対し、小説の登場人物は名前を呼びかけられなければ、誰が誰に話しかけているか不明瞭となります。

どうしても呼び名が必要です。

 そうした場合、何某(なにがし)とは呼べません。「何某(なにがし)」とは、名無しの権兵衛、どっかの誰かさんと言った趣の言葉だからです。

 で、あれば「亭主」で問題ないかもしれませんが、この人物は侍です。井杭(いぐい)とこの人物の関係性を考えたときに、井杭(いぐい)は目下ですから、様をつけて呼ぶことになります。

 その場合、井杭(いぐい)は御亭主様または殿様などと呼ぶことになるでしょう。

 ここに少し皆様が違和感を覚えるのではないかと思案しました。


 よって亭主の類語である「旦那」としました。

 商家であれば、自分の店の主人や、取引先の主人に、旦那様と呼びかけるのは自然です。また武士に対してであっても、江戸時代ではありますが町方役人に対して旦那や旦那様と呼びかけておりました。いわゆる「八丁堀の旦那」と言うやつです。

 実例がある以上、まあこれで良いだろうと思案しました。

 以上の理由により「旦那」との呼び名を採用した次第です。


 最後に「算置(さんおき)」です。

 まあザックリ言うと占い師なのですが、本文中で「算置」を分かりやすく占い師とするのは流石にざっくりし過ぎと言うものです。


【登場人物の設定について】

 知っておいて欲しい事があります。「狂言」の登場人物は、実はあまり明確に設定されておりません。

 勿論、役割上のセリフは決まっておりますが、それ以外の部分には何の設定もありません。登場人物の名前が「何某(なにがし)」つまりは、どっかの誰かさんな時点でその事は察せるでしょう。

 これは演劇において重要な事です。同じ舞台が一つもないのです。

 例え同じ演目でも演じる役者の違いや、時期の違いで、観客が受け取るバックストーリーは全く違うものになります。

 例えば、この話の主人公である井杭(いぐい)が、少年でなく青年や老人であった場合、屋敷の亭主との関係性は大きく変わるでしょう。屋敷の亭主が井杭(いぐい)より若い場合は尚更です。



 拙作での井杭(いぐい)禿童(かむろ)姿の稚児(ちご)と言う設定です。

 この禿童(かむろ)は平家物語に出てくる方の禿童(かむろ)です。江戸時代だと遊郭にいる少女の意味になるのですが、そちらの意味ではないのでご注意を。髪型は一緒ですが。

 さらに言えば「ハゲ」でもありませんよ。「禿」の漢字が一緒ですけど。


 さて井杭(いぐい)が「稚児(かむろ)」である理由ですが、特に親戚でもないのに、いや、親戚かもしれませんが、子供が親でもない男性と五日も十日も一緒にいるなんて「稚児(ちご)」でもないと説明が付かないのかなと愚考しました。しかも寺に泊まって夢を見られる訳ですし。

 井杭(いぐい)の発言からも、お目を掛けて下さると言っていること、井杭(いぐい)よう来たと言ってもらえる事から推察しました。

 まだ子供である井杭(いぐい)が、配下として労働を行っている訳でもないでしょう。


稚児(ちご)」の意味については、まあ、そのぅ、美少年ですよ。

 先程、狂言は演じる役者の年齢や人間関係により、そのバックストーリーが変わると説明しました。それをあれこれ考察するのが狂言の面白さの一つです。描かれていないことを考察するのは漫画でもお馴染みでしょう。


 困った顔の美少年。屋敷に出入りし、そこの主人と仲のいい美少年。

 寺に出入りし和尚と仲のいい美少年。

 ……けっして他意はありません。無いったら無いんです。この作品は全年齢向けの健全な作品なのです。

 それとも井杭(いぐい)の設定を『中年男性』にした方が良かったですか? 

 それとも『老人』? なんと!

 ……それはそれは。貴方様は中々の数寄者(すきもの)でござるな。

 まったく高尚な御趣味と見えまする。それがしには及びもつかない事でござる。


 どうしても知りたいと言う悪い子の皆様は「稚児(ちご)」でお調べください。


 そう言えば源義経も遮那王と言う“源氏名”で「稚児(ちご)」をやっていましたね。

 そして義経一の家臣、武蔵坊弁慶は「僧侶」でしたか。……へぇ。


 ……いえ、他意などありません。


 無いったらないんです!


 以上でござる。

 ここまでお付き合いくださりましたこと、恐悦至極にござりまする。


長々と相すいませぬ。

でもご機嫌が斜めでなければ是非、高評価ブックマークを宜しくお願い致しまする。

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