屋敷門内の段
屋敷門内の段
井杭は清水寺から旦那様の屋敷に向かう途中、改めて賜った頭巾を確認してみた。
「これが本当に観音様から賜った頭巾だとすれば普通の頭巾ではないだろう。そうだ。これを被れば頭を叩かれなくなるか、頭を叩かれても痛くないか。どちらかの効果があるはずだ。何もないただの頭巾と言う事はないだろう。少し楽しみになってきた」
井杭は歩きながら頭巾を懐にしまっている内に屋敷の門に到着した。
普段から井杭に目を掛けて下される旦那様の屋敷である。
「おお、何かとしていたら、もう門前か。旦那様がお屋敷に御在宅であれば良いが、留守であれば意味がないな。まず案内を請おう」
井杭は失礼にならないよう着物の着崩れがないかを確認してから屋敷の門を潜り、門内から声を上げた。
「物申す! 案内申す!!」
井杭が案内を乞うと、屋敷の奥にいた主人の耳に届いた。
井杭から『旦那様』と呼ばれている男である。
「いや、表から案内を乞うとある。誰であろう?」
旦那は玄関を通り屋敷の門まで出てくると、声を上げる。
「どなたでござる?」
「私でございます」
井杭は、玄関から現れた旦那様に頭を下げる。
「えぇい、井杭!!」
パシン、と扇で頭を叩かれる井杭。井杭は思わず叩かれた所に手が行った。
「そなたであれば案内など必要ない。何故、早く入ってこないのじゃ?」
旦那は思案顔で尋ねた。
「旦那様、私もその様に心得ておりますが、もし他のお客様がいらした場合であれば失礼に当たると思い、案内を乞いました」
「そなたは、いつも礼儀を弁えておるのう。念の入った事じゃ」
旦那は答えに満足したのか次の疑問を問うた。
「さて、そなたは暫く顔を見せなかったが、何を思って来なかったのじゃ。井杭!!」
パシン、と扇で頭を叩かれる井杭。やはり叩かれたところに手が行く。
「田舎に行っておりました。それ故にご無沙汰しておりました」
「そうか。田舎にのう。そのような事であれば良けれども、それがしはまた、誰かがそなたに悪口でも吹き込んだかと思って、殊の外、気を揉んだぞ。井杭!!」
パシン、と扇で頭を叩かれる井杭。叩かれた所に手が行く。
「誰も中言など仰せられませんが、旦那様はこの屋敷に私が伺う度に『井杭、よう来た』と言われては頭を張られます。やたらと頭を張られる迷惑さに、自然と足が遠のくのです」
井杭は日頃の鬱憤を旦那に語った。
「そなたの頭を張るのは、そなたが憎いわけではない。そなたの可愛さが余って、ついやってしまうのじゃ。少しも気にすることではないぞ。井杭!!」
パシン、と扇で頭を叩かれる井杭。叩かれた所に手が行く。
「その事を御存知の方は構いませんが、御存知のない方はこう言っております。『あの井杭は、あの様に頭を張られても何が嬉しくて屋敷に出入りしているのか?』と。皆様にそう思われることに、ほとほと迷惑しております」
井杭は再び日頃の鬱憤を語った。
「そなたの頭を可愛さ余って張っているのは皆も良く知っておる事じゃ。少しも気にすることではないぞ。井杭!! ……ん!?」
旦那はまたも井杭の頭を叩こうとしたが井杭の姿がなかった。
「おぅ。井杭が見えぬ!?」
辺りを見回すが、旦那に井杭の姿は見えない。
「井杭。井杭は何処へ行った?」
しかし、井杭は一歩も動いてはいなかった。
――これは不思議だ!――
井杭は自らの状況を思案した。
井杭が先ほどと変わった事と言えば、賜った豪華な頭巾を被った事くらいである。
――やっぱりだ。この頭巾を被れば私の姿が見えなくなる。……よし。少し旦那様の鼻先に行ってみよう――
井杭は少し悪い笑みを浮かべた。
「井杭。井杭。井杭は何処へ行った? たった今までここに居たはずじゃ」
旦那は、井杭が自らの鼻先ほどの場所にいる事に気付かない。
――これは本当に見えていないみたいだ。確認のためにちょっと頭巾を取ってみよう――
井杭は頭巾を取った。
「井杭。井杭。何処じゃ?」
「旦那様、井杭はここに居ります」
「えぇい。井杭!!」
パシン、と扇で頭を叩かれる井杭。ただし先ほどと違い痛みが気にならない。
「そなたは何処に居った?」
「旦那様、私に会いたいと言う人がいたので御門前まで出ておりました」
井杭は思わず笑いそうになるのを堪えながら、姿が見えなかったことを誤魔化した。
「井杭。そなたが久しぶりに来たと思ったら早くも門外へ出るとは。早く屋敷へ入れ」
「ここで構いません」
「入れと言ったら早く屋敷に入れ」
「旦那様、それでは失礼いたします」
井杭と旦那は屋敷の中、座敷に進んだ。
「さて井杭。そなたが暫く顔を見せなかった故に、五日も十日も屋敷に留め置いて、頭を張って楽しもうと思うのじゃ」
「いえいえ、五日や十日で帰るといった事ではありません」
「また帰ると言えども、どこかへ行かすことはないぞ。井杭!!」
旦那は井杭の頭を叩こうとして扇を振り上げるが、井杭は頭巾を被り再び姿を隠した。
井杭を叩こうとした扇が空振る。
――凄い。清水の観世音様は霊験あらたかとは聞いていたが、本当の事だった――
井杭は満面の笑みで語った。自分を探す旦那の姿が、面白くて仕方がない。
「や、また井杭が見えぬ。井杭。井杭?」
井杭が何をしようとも旦那が気付く気配はない。井杭は一本取ったような爽快な気分であった。
ご機嫌が斜めでければ高評価、ブックマークをよろしくお願いいたしまする。
次回投稿は一時間後の予定でござる。